日本史の「事始め」01 名君?は”オンチ”が大嫌い
御三家筆頭の尾張家第七代藩主・徳川宗春(1696-1764年)が
著した本「オンチせいよう」とは、「音痴専用」カラオケマイクの
ことではなく、意外にも「温知政要」と書きます。
それは施政の大綱とか家臣の心得などに触れたもので、
藩主に就任(1730年)した年に着手、翌年脱稿、そして、そのまた
翌年(1732年)には主だった尾張藩士に配布したそうですから、
まあ“新藩主・宗春の所信表明”と言ったところでしょうか。
さて、この宗春の名が登場する場合は、必ず一方で不倶戴天
の敵?第八代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)の名が挙げられ
ますが、これがまた”オンチ”、すなわちこの「温知政要」が
大嫌いな人物でした。
それもそのはずで、幕府財政破綻に直面し徹底的な「質素倹約」
政策、いわゆる「享保の改革」を推進していた「名君?吉宗」に
対し、宗春はといえば、「温知政要」の中で、「反・享保の改革」
ともいえる真逆の政策を主張していたからです。
安い木綿の服を着て、一日二食で質素倹約の率先垂範に努め、
芝居を目の敵する将軍・吉宗・・・そうした姿勢をあざ笑うかの
ように、豪華絢爛ド派手なファッションに身を包んだ宗春は
(それとなく吉宗に向けて)こんなことも吠えていました。
○お金は活かして使うべきであって、行き過ぎた倹約なんぞは
かえって無益だでぇ・・・(民にまで倹約を強いるのは間違いだぜ!)
○芝居は庶民の元気の素なんだで、興行は遠慮無しでどんどん
やりゃあいいがや・・・(ストレスなしの心身が一番大切だぜ!)
こう言われたのでは、宗春こそは己の苦心の善政?に楯突く
“ならず者”という受け止め方になり、
~クッソォッ宗春め! 名前にオレの「宗」※の字をプレゼントして
やったのに、ナンダァその態度は! それならそれで徹底的に
締め上げてやるゾ!~ 当然、こうなります。
※吉宗から偏諱を賜る前の名は兄・吉通から「通」を得た「通春」(みちはる)
実際、吉宗の締め上げの果てに、宗春の“悲劇”が待ち受けて
いるのですが・・・それはまたの機会に譲るとして、今回は
江戸時代の藩主最初の「政見発表」?である、この「音痴専用」
・・・じゃなかった、「温知政要」の中身をちょっと見てみましょう。

徳川宗春/牛に乗り、超長いキセルとド派手なファッション
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はて、宗春は全21条からなる「温知政要」でどんなことを言って
いるのか? 実はこれがまた結構面白く、現代社会にも通用する
思想?が披露されているのです。
これなどは、吉宗へのあてつけばかりか、現代の日本政府に
対するご意見具申とも受け取れそう。
→ 規則規則で縛ってどうするの? そんなもん、少なければ
守れるけど、多すぎては守れえせんのだから意味ないでぇ。
人を裁くことに関しては、かなり慎重な姿勢を示し、
→ “冤罪”なんてのはお上の恥だでよぅ、ええか、そんなことは
決して起さんように、取調べは徹底的にやらにゃいかんでぇ。
(冤罪の可能性も考慮したのか、実際も「死刑」を執行しなかった)
併せて、人命尊重の意識・哲学も示しています。
→ 命は尊いもので、決して金で買えるものではあれせんでぇ。
また、個人の資質についても、
→ 誰にも各々の能力があるんだで、適材適所でやるのがええ。
上司の、部下に対する心構えについてはこんな具合です。
→ ドカッと、ガバッと大目に見てやることが大事なんだでぇ。
しかし、こうした宗春の奔放な言動に対し、これを黙認していた
のでは「将軍の名折れ」とばかりに、吉宗は「宗春追い落とし」に
打って出ます。
それが、参勤交代により宗春が地元を留守にしたタイミングでの
尾張藩の家老・家臣による「クーデター」(1738年)ですが、この
「事態急変」の陰に幕府中枢の関与?があったことは間違い
ないでしょう。
なぜなら、これにより失脚した宗春は、以後実に手際よく?終身
に渡る(実際には死後も)「蟄居謹慎」に追い込まれているからです。
御三家の藩主が処分されるなぞは、前代未聞、驚天動地の沙汰
でしたが、この時の宗春は家来に「終わり(尾張)初物」※と洒落て
みせたとされています。
※時期を過ぎた野菜・果物などを“初物”と同様に珍重する意。
以後は父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったばかり
か、尾張藩自体も、一旦召し上げの上で、改めて後継者を
立てる形になったのですから、吉宗の「宗春は大嫌いッ!」の
感情が半端なものでなかったことが伺えます。
吉宗は宗春の言動を「ドカッとガバッと大目に見る」ことが
できなかったわけです。 (ケツの穴の小さい奴だ!)
二人の真っ向対立は、確かに“終わり(尾張)初物”で幕を閉じまし
たが、忘れていけないのは、宗春の手による「温知政要」こそは、
この時代の「藩主の所信表明」として、まさしく“尾張が初物”で
あったという事実です。
ちなみに、宗春公の肖像画は一枚も残されていません。 しかし
もし残っていたとするなら、おそらくそれは”わが道を歩んだ”こと
に対して「胸を張る宗春公」・・・の姿だったことでしょう。
※たぁけらしい(ばかくさい)ダジャレは、かねしてちょうよ。(勘弁してね)
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ことではなく、意外にも「温知政要」と書きます。
それは施政の大綱とか家臣の心得などに触れたもので、
藩主に就任(1730年)した年に着手、翌年脱稿、そして、そのまた
翌年(1732年)には主だった尾張藩士に配布したそうですから、
まあ“新藩主・宗春の所信表明”と言ったところでしょうか。
さて、この宗春の名が登場する場合は、必ず一方で不倶戴天
の敵?第八代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)の名が挙げられ
ますが、これがまた”オンチ”、すなわちこの「温知政要」が
大嫌いな人物でした。
それもそのはずで、幕府財政破綻に直面し徹底的な「質素倹約」
政策、いわゆる「享保の改革」を推進していた「名君?吉宗」に
対し、宗春はといえば、「温知政要」の中で、「反・享保の改革」
ともいえる真逆の政策を主張していたからです。
安い木綿の服を着て、一日二食で質素倹約の率先垂範に努め、
芝居を目の敵する将軍・吉宗・・・そうした姿勢をあざ笑うかの
ように、豪華絢爛ド派手なファッションに身を包んだ宗春は
(それとなく吉宗に向けて)こんなことも吠えていました。
○お金は活かして使うべきであって、行き過ぎた倹約なんぞは
かえって無益だでぇ・・・(民にまで倹約を強いるのは間違いだぜ!)
○芝居は庶民の元気の素なんだで、興行は遠慮無しでどんどん
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こう言われたのでは、宗春こそは己の苦心の善政?に楯突く
“ならず者”という受け止め方になり、
~クッソォッ宗春め! 名前にオレの「宗」※の字をプレゼントして
やったのに、ナンダァその態度は! それならそれで徹底的に
締め上げてやるゾ!~ 当然、こうなります。
※吉宗から偏諱を賜る前の名は兄・吉通から「通」を得た「通春」(みちはる)
実際、吉宗の締め上げの果てに、宗春の“悲劇”が待ち受けて
いるのですが・・・それはまたの機会に譲るとして、今回は
江戸時代の藩主最初の「政見発表」?である、この「音痴専用」
・・・じゃなかった、「温知政要」の中身をちょっと見てみましょう。


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いるのか? 実はこれがまた結構面白く、現代社会にも通用する
思想?が披露されているのです。
これなどは、吉宗へのあてつけばかりか、現代の日本政府に
対するご意見具申とも受け取れそう。
→ 規則規則で縛ってどうするの? そんなもん、少なければ
守れるけど、多すぎては守れえせんのだから意味ないでぇ。
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決して起さんように、取調べは徹底的にやらにゃいかんでぇ。
(冤罪の可能性も考慮したのか、実際も「死刑」を執行しなかった)
併せて、人命尊重の意識・哲学も示しています。
→ 命は尊いもので、決して金で買えるものではあれせんでぇ。
また、個人の資質についても、
→ 誰にも各々の能力があるんだで、適材適所でやるのがええ。
上司の、部下に対する心構えについてはこんな具合です。
→ ドカッと、ガバッと大目に見てやることが大事なんだでぇ。
しかし、こうした宗春の奔放な言動に対し、これを黙認していた
のでは「将軍の名折れ」とばかりに、吉宗は「宗春追い落とし」に
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