日本史の「デジャヴ」02将軍家編
映画界では、往年の名作の骨格を残しながら新しいスタッフで
作り直す、いわゆる「リメーク」作品も少なくありません。
映画界にあるのなら日本史にも「リメーク」があるハズ、と思い
探してみました。 (ムチャな理屈ですが、為せば成る?)
鎌倉幕府と室町幕府。 表にしてみると、この両創業家?の
開府過程、兄弟の役割・行動など、多くの共通点があることに
気がつきます。 鎌倉幕府の約150年後の「リメーク版」が
室町幕府なのだ、と言えるぐらいの印象になります。
<鎌倉幕府> <室町幕府>
トップは兄(源頼朝)。 トップは兄(足利尊氏)。
その右腕が弟(源義経)。 その右腕が弟(足利直義)。
政治(兄)と軍事(弟)を補完。 政治(弟)と軍事(兄)を補完。
後に対立、兄が弟を殺す。 後に対立、兄が弟を殺す。
朝廷(御白河)との確執。 朝廷(後醍醐)との確執。
肖像画?の混乱。 肖像画?の混乱。
出展:wikipedia
基本的には、どちらの幕府も「二人三脚」で
押し進みますが、鎌倉が政治=兄、軍事=弟
のコンビであったのに対し、室町は政治=弟、
軍事=兄、である点が少し異なります。
どちらの兄弟にも得手・不得手があったということですが、それを
お互いに補完・協力して自分たちの幕府を実現した、という点では
共通しています。
その中でも、鎌倉弟・義経の戦による貢献は特筆モノです。
対平家の戦い、「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」の三連戦三連勝は
超有名で、このことは知らない人でも知っている、と指摘する向き
もあるほどです。
この三連勝なくしては、「鎌倉幕府」の登場は不可能でした。
その点、同様に戦上手だったとされる室町兄・尊氏の戦いぶりは
あまり知られていません。
南北朝の存在が絡み、その分複雑な背景を背負ったことで、
義経のようなスッキリさわやかな勝ち方ができなかったことに
その原因があるのかもしれません。
また、室町兄・尊氏は、その肖像とされる「騎馬武者像」で
イメージされている分、はっきり損をしています。 ※上の像
この像はむしろ「敗軍の将」とも言うべき姿であって、「強い武将」
からは一番離れたイメージになるからです。
しかも、尊氏を描いたものではない、とも言われています。
これではまるで「往復ビンタ」を喰らった感じで二重の損です。
出展:wikipedia もっとも、鎌倉弟・義経の方も
決して美男子・イケメンには描かれていないので
この点では 両者ともに幸薄い?感じ。
評判の美貌を持つ女性の息子なら、もう少し
美男子だったのではないか?という疑問に
ついては ~「美貌の履歴書」と義経~ でも
触れましたので、ここでは再述しません。 ※左上の像
また、「後に対立し、兄が弟を殺す」顛末も共通していますが、
その事情・展開については室町兄弟・尊氏&直義の場合より、
やはり、鎌倉兄弟・頼朝&義経の方がよく知られているようです。
落ち延びた鎌倉弟・義経が、結局平泉で殺されるところは、
映画やドラマにも割合取り上げられていますが、一方の室町弟・
直義の最期は取り上げられることが少ないので、それが原因に
なっているのでしょう。
だから、室町は鎌倉より全体的に地味っぽい印象になります。
折角の機会だから、「直義の最期」にも触れたいのですが、
その経緯はそうそうシンプルでもない(と言うより、私自身がよく
わかっていない)ので、無難に結果だけにしておきましょう。
要するに、兄弟相まみえた戦いの結果、弟・直義は兄・尊氏に
幽閉され、さらに「急死(毒殺か?)」することになります。
奇しくも「兄に追い詰められた弟が殺される」という顛末も室町は
鎌倉の、まさしく「リメーク」版になっています。
朝廷との関係に確執があったことも、両者の似ている点です。
鎌倉兄・頼朝が熱望した征夷大将軍はの座は、結局のところ
後白河法皇が亡くなるまで手にはできなかったのですから、
けっこう悔しい思いをさせられたものと思われます。
同じように、室町兄・尊氏も後醍醐天皇にシッカリ悩まされて
います。 まあ簡単に言えば、後醍醐に振り回されたことで、
~昨日勤皇 明日は佐幕~(侍ニッポン)の歌詞にある新納
鶴千代のような心境も体験させられた、ということです。
それに奇妙な重なりがもうひとつ。 実に意外なことですが、従来
「源頼朝像」とされてきた絵が、最近では「足利直義像」では
ないのか、と言われているようです。 ※下の像
出展:wikipedia
何でまた、こんなことになるのかよく分かりません
が、(鎌倉)(室町)両幕府のデジャヴをテーマに
している本稿においては、まことに都合の良い
出来事であることは事実で、実は心から歓迎して
いる次第です。 シメシメ!
しかしながら、その予備知識を持たずにいきなり両者の絵に
遭遇した人は、こんな納得の仕方をしてしまうかもしれません。
「なんだ!源頼朝と足利直義は一卵性双生児だったのか!」
そうすると、その人の頭の中には「鎌倉と室町は同時代である」
との強い信念が生まれ、こうした小さな誤解の積み重ねにより、
「歪んだ歴史」が一人歩きを始めるワケです。
※ワタシの周りにもいます。「楠正成は源義経の家来だった」と発言する人。
繰り返しになりますが、鎌倉幕府の創始者・源頼朝の肖像画も、
室町幕府の創始者・足利尊氏の肖像画も、本当はご本人では
ないかも知れないゾという、微妙な嫌疑が掛けられている、と
いうわけです。 う~ん、こんなところまで、将軍家のデジャヴ!
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作り直す、いわゆる「リメーク」作品も少なくありません。
映画界にあるのなら日本史にも「リメーク」があるハズ、と思い
探してみました。 (ムチャな理屈ですが、為せば成る?)
鎌倉幕府と室町幕府。 表にしてみると、この両創業家?の
開府過程、兄弟の役割・行動など、多くの共通点があることに
気がつきます。 鎌倉幕府の約150年後の「リメーク版」が
室町幕府なのだ、と言えるぐらいの印象になります。
<鎌倉幕府> <室町幕府>
トップは兄(源頼朝)。 トップは兄(足利尊氏)。
その右腕が弟(源義経)。 その右腕が弟(足利直義)。
政治(兄)と軍事(弟)を補完。 政治(弟)と軍事(兄)を補完。
後に対立、兄が弟を殺す。 後に対立、兄が弟を殺す。
朝廷(御白河)との確執。 朝廷(後醍醐)との確執。
肖像画?の混乱。 肖像画?の混乱。

基本的には、どちらの幕府も「二人三脚」で
押し進みますが、鎌倉が政治=兄、軍事=弟
のコンビであったのに対し、室町は政治=弟、
軍事=兄、である点が少し異なります。
どちらの兄弟にも得手・不得手があったということですが、それを
お互いに補完・協力して自分たちの幕府を実現した、という点では
共通しています。
その中でも、鎌倉弟・義経の戦による貢献は特筆モノです。
対平家の戦い、「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」の三連戦三連勝は
超有名で、このことは知らない人でも知っている、と指摘する向き
もあるほどです。
この三連勝なくしては、「鎌倉幕府」の登場は不可能でした。
その点、同様に戦上手だったとされる室町兄・尊氏の戦いぶりは
あまり知られていません。
南北朝の存在が絡み、その分複雑な背景を背負ったことで、
義経のようなスッキリさわやかな勝ち方ができなかったことに
その原因があるのかもしれません。
また、室町兄・尊氏は、その肖像とされる「騎馬武者像」で
イメージされている分、はっきり損をしています。 ※上の像
この像はむしろ「敗軍の将」とも言うべき姿であって、「強い武将」
からは一番離れたイメージになるからです。
しかも、尊氏を描いたものではない、とも言われています。
これではまるで「往復ビンタ」を喰らった感じで二重の損です。

決して美男子・イケメンには描かれていないので
この点では 両者ともに幸薄い?感じ。
評判の美貌を持つ女性の息子なら、もう少し
美男子だったのではないか?という疑問に
ついては ~「美貌の履歴書」と義経~ でも
触れましたので、ここでは再述しません。 ※左上の像
また、「後に対立し、兄が弟を殺す」顛末も共通していますが、
その事情・展開については室町兄弟・尊氏&直義の場合より、
やはり、鎌倉兄弟・頼朝&義経の方がよく知られているようです。
落ち延びた鎌倉弟・義経が、結局平泉で殺されるところは、
映画やドラマにも割合取り上げられていますが、一方の室町弟・
直義の最期は取り上げられることが少ないので、それが原因に
なっているのでしょう。
だから、室町は鎌倉より全体的に地味っぽい印象になります。
折角の機会だから、「直義の最期」にも触れたいのですが、
その経緯はそうそうシンプルでもない(と言うより、私自身がよく
わかっていない)ので、無難に結果だけにしておきましょう。
要するに、兄弟相まみえた戦いの結果、弟・直義は兄・尊氏に
幽閉され、さらに「急死(毒殺か?)」することになります。
奇しくも「兄に追い詰められた弟が殺される」という顛末も室町は
鎌倉の、まさしく「リメーク」版になっています。
朝廷との関係に確執があったことも、両者の似ている点です。
鎌倉兄・頼朝が熱望した征夷大将軍はの座は、結局のところ
後白河法皇が亡くなるまで手にはできなかったのですから、
けっこう悔しい思いをさせられたものと思われます。
同じように、室町兄・尊氏も後醍醐天皇にシッカリ悩まされて
います。 まあ簡単に言えば、後醍醐に振り回されたことで、
~昨日勤皇 明日は佐幕~(侍ニッポン)の歌詞にある新納
鶴千代のような心境も体験させられた、ということです。
それに奇妙な重なりがもうひとつ。 実に意外なことですが、従来
「源頼朝像」とされてきた絵が、最近では「足利直義像」では
ないのか、と言われているようです。 ※下の像

何でまた、こんなことになるのかよく分かりません
が、(鎌倉)(室町)両幕府のデジャヴをテーマに
している本稿においては、まことに都合の良い
出来事であることは事実で、実は心から歓迎して
いる次第です。 シメシメ!
しかしながら、その予備知識を持たずにいきなり両者の絵に
遭遇した人は、こんな納得の仕方をしてしまうかもしれません。
「なんだ!源頼朝と足利直義は一卵性双生児だったのか!」
そうすると、その人の頭の中には「鎌倉と室町は同時代である」
との強い信念が生まれ、こうした小さな誤解の積み重ねにより、
「歪んだ歴史」が一人歩きを始めるワケです。
※ワタシの周りにもいます。「楠正成は源義経の家来だった」と発言する人。
繰り返しになりますが、鎌倉幕府の創始者・源頼朝の肖像画も、
室町幕府の創始者・足利尊氏の肖像画も、本当はご本人では
ないかも知れないゾという、微妙な嫌疑が掛けられている、と
いうわけです。 う~ん、こんなところまで、将軍家のデジャヴ!
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