~捜索の代償~

源氏は「三種の神器」を、平家(安徳天皇)から奪い返す必要が
あった。 これを手に入れることで、後鳥羽も「神器無き天皇」の
汚名をそそぐ゙ことができ、その正当性を主張できるからである。
その意味で、壇ノ浦の戦いは「三種の神器」の争奪戦だった、
とも言える。

結局、この源平最後の戦いにおいて安徳天皇は死亡、平家は
滅亡した。 ところが、勝った源氏側にもミスがあった。
天皇の正当性を保証する「三種の神器」の内、鏡と勾玉は確保
したものの、「剣」だけは海中に失い結局手に入らなかった
のである。 源氏としてもこのままでは少しばかりカッコウ悪い。
そこで、その後2年近くも「宝剣探し」を行った・・・らしい。

だが、この源氏側の「宝剣探し」が本音の行動だったのか、
この点についてヤジ馬はチョット怪しいと考えているのである。

この時の後白河法皇・後鳥羽天皇は、いわば体制のトップであり
頼朝はといえば、それに抵抗?する側の代表である。
だとすれば、「神器無き天皇」というキズの解消になにも頼朝が
積極的な協力をする必要もないはずだ。

確かに「宝剣の発見」という結果になれば、お褒めの言葉くらい
はもらえたかも知れないが、頼朝にとって今大事なのはそんな
ことより、武士の「権利拡大」である。

「宝剣」が見つからない・・・このことは、むしろ朝廷側の弱みで
あり、頼朝としては交渉事を有利に進める「カード」としても
使える。 だから実際の作業効果よりも、むしろ「熱心に探す」
ポーズの方を重視していたのではないか、思えるのである。

だが、おそらく後鳥羽自身は「朗報」を待ち望んでいただろう。
天皇とは言え、いや天皇だからこそ、神器を伴わない変則的な
即位は、大きな「負い目」になっていたはずだ。
この後の経緯がそれを物語っている。

「壇ノ浦」の五年後、頼朝は後白河法皇とサシのトップ会談に
臨む。 「征夷大将軍」の地位就任を切望し、粘る頼朝に対し、
この時の後白河は最後まで首をタテに振らなかったのである。
ところが、この会談から2年後、1192年にその後白河が
死去すると、たちまち、後鳥羽はそれを認めてしまうのである。

断固はねつけた後白河に比べ、後鳥羽のなんと優しいことか。
頼朝に対する姿勢の落差は、もちろん後白河と後鳥羽の
性格の違いや経験の差もあろうが、本当にそれだけだろうか。

神器のないまま即位した事実(それだけでも大きな負い目)に
加え、さらに「熱心な」探索にもかかわらず宝剣が見つから
なかったことに、後鳥羽自身の心は「神の意思」を感じていた
のかもしれない。 自分は「天の望まぬ天皇」なのだ。
このどうにも埋めようのない「負い目」が、頼朝に屈した大きな
要因だったと思えるのである。

そして1221年、後鳥羽は鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた。
「頼朝に屈した」あの日から、実に29年の歳月が経っていた。
積もりに積もった「負い目」が、臨界点に達してついに爆発した、
ようにも見える出来事(承久の乱)である。
あのときの苦い記憶と、その結果生まれた鎌倉幕府を
きれいサッパリ「リセット」させてしまいたかったのかもしれない。
しかし、それは頼朝の死から三年後のことであった。

後白河の強引な手法は、後鳥羽の心にキズとして残り、
それが結果として、最も避けたかった「幕府」の誕生へと直結
していったことで、朝廷にとってはまさに最悪の「シナリオ」に
なったのである。

このことを「歴史の教訓」として、関係各位も「強引」ではなく
「謙虚な」生き方を示すことで、次代の健全な若者育成に
貢献しようではないか。

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