~四人目の英傑~


 地元のお祭り(名古屋まつり)
 の一番の目玉は、信長・秀吉・
 家康「三英傑」のパレード
 (郷土英傑行列)であるが、
 実は、もう一人郷土生まれの
 「英傑」がいる。
 地元の人にもなぜかあまり
 知られていないようなのだが、
 その四人目の「英傑」こそ、
 三英傑の大先輩に当たる
 源頼朝なのである。

 その当時は母方の実家で
 子供を生むの習慣があった
 から、熱田神宮大宮司・
 藤原 季範の娘
 (頼朝の母・由良御前)が、
この地で出産したことはほぼ間違いのないことで、現にそこには、
「頼朝生誕の地」の石碑も建っている。
(ちなみに、拙宅から車で5分ほどの場所)

三英傑のひとり家康は、武士として最初に幕府を経営したこの
頼朝を大いに尊敬していたらしいのだが、「ひねくれた心」を
もって、それとは異なったアプローチをしてみると全く逆の
「頼朝」像も見えてくるのである。さっそく試してみよう。

ほんのお遊びだから、頼朝ファンは本気で怒らないでくださいネ。
以下に、「頼りない頼朝」の根拠を一ダースほど列記してみよう。

01/平家側に捕らえられた経緯
→実は敗走の途中、父・義朝一行とはぐれて迷子になったので
 ある。 見事に方向音痴である。

02/流罪地・伊豆での色恋沙汰にも「堂々さ」が欠ける
→オッカナビックリしながらの色恋沙汰は、 武士の棟梁には
 似合わない。

03/石橋山に追い詰められたときの行動
→自害しようとしたらしいが、決断が遅い上に腹も座っていない。

04/大軍で応援に来た平広常を「遅い!」と叱ったエピソード
→凡人・頼朝の「大物ぶり」を演出するために用意されたオハナシ
 に過ぎない。 その証拠に後に平広常は殺され、まさに
 「死人に口なし」となっている。

05/富士川の合戦後、鎌倉に留まった理由も消極的
→部下の意見を尊重した頼朝を偉いと見るべきか、部下でも
 分かることを上司・頼朝には理解できなかったと見るべきか。

06/後白河法皇とのサシの会談で成果なし
→なんとか巨頭会談のカッコはつけたものの、欲しかった
 「征夷大将軍」の肩書きは、結局法皇の死までお預け。

07/自分の「身の危険」に対し能天気
→曾我十郎・五郎の「工藤祐経」仇討ち事件の際には、
 一旦は 「頼朝がやられた」との情報が走ったのである。
 その体験から学んでいれば、6年後の暗殺?を未然に
 防げたかもしれないゾ。

08/武家の独立性を保つ重要さをすっかり忘れている
→朝廷から勝手に官位を受けた義経に対してムカッ腹を
 立てながら、自身の娘の入内運動は対象外と考えていた
 フシがある。他人に対してはメッチャ厳しく、自分に対しては
 まるで甘い。

09/結局、自分の娘を入内させることはできなかった。
→色々な方策をとったにもかかわらず、お公家さんたちに
 散々手玉に取られた挙句に肝心の目的は達せられなかった。

10/最初から最後まであやつり人形であった 
→鎌倉政権の真の実力者は北条家や御家人たちである。
 源家が三代で滅んだ後も幕府がそのまま存続したことは、
 頼朝と言えども単に「源家ミコシ」の一人に過ぎなかった、
 ということを証明している。

11/女房教育がまるでできていなかった
→妻・政子の実家である北条家が、息子頼家・実朝の暗殺に
 少なからず加担していたことは否めない。
 わが子の暗殺を黙認した政子より、そのようなことがない
 ようにしっかり「女房教育」しておかなかった夫・頼朝の
 側に、より大きい責任がある。

12/表向きは「落馬」が原因で死んでいる
→到底事実とは思えないが、もし「尊敬される頼朝」であった
 なら、もう少しマシな「死に方」を脚色してもらえたのでは
 ないか。 ことほどさように「郷土の英傑」も「ダメ人間」に
 変身するのである。 本当に「屁理屈」って、コワイ!

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