日本史の「列伝」20 敗軍討ち死にの武将残像

最近ひょんなことから、こんなことが気になりました。
その人物に対して抱いている自分自身のイメージは、あれやこれやの刷り
込みによって一人歩きしているものではないのか。
筆者自身のケースで具体的な名を挙げるとするなら、たとえば戦国武将・
今川義元(1519-1560年)が、まさにそうした人物の一人に該当しそうです。

これまであまり高い評価をできずにいたその理由は、じつはいたって単純な
ものです。
ドラマなどに登場する今川義元については、まあだいたいが以下の場面・
内容で取り上げられることが多いため、筆者にとってはそれが義元という
人物の原イメージになってしまったからです。

○圧倒的な兵力差をもって臨んだはずの、尾張国・織田信長(1534-1582年)
 との正面激突「桶狭間の戦い」(1560年)において、呆気なく負けてしまい、
 しかも討ち取られてしまった。
 →義元は凡将あるいは戦闘オンチであったに違いない。


 imagawa_yoshimoto_01.jpg 今川義元
 
しかも、ドラマでは以下の描写などが繰り返し登場します。
○薄化粧した義元、あるいは輿に乗った義元。
 →史実はどうあれ、公家かぶれでグルメ三昧の義元の姿が連想され、
  ついついこんな思い込みまで。
  ~飽くなき美食のために馬に乗れないほどメタボとなり、止むを得ず
   輿を利用していたに違いあるめぇ~


しかしまあ、他人様の生き様について、自分が抱いたイメージだけで語る
こともメッチャを無責任ですから、少しは実像に近づいてみる努力も必要です。
そこで、義元のプロファイルを探ってみると、こんな感じです。

~若い頃に僧となるも、兄の早世によって、そのあとの家督争いを異母兄との
 間で演じ、その末に今川家を継ぎ(1536年)、還俗して義元と名乗った~

僧を辞めた十代の若者が今川家当主となったということです。

この義元と、尾張国・織田家、および信長、さらには後に天下を掌握する
徳川家康(幼名・松平竹千代/1543-1616年)らとの間には、実は幼い頃
から互いに浅からぬ因縁で繋がっていました。

そのことにも触れておくと、
~1547年、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られたが、
 その護送の途中に裏切りがあり、結果、尾張国・織田信秀(信長の父)へ
 送られた~


周囲の実力者の力関係によって翻弄され続けた竹千代のさすらいは、実は
これだけで済んだわけではありません。
~織田信秀(信長の父)としばしば戦った義元は、その過程の人質交換
 (1549年)によって、松平竹千代を自領に迎えた~

義元が、竹千代の三河国、それを支える三河武士を手中に収めたということ
です。

結局、竹千代の人質生活は義元が倒れる「桶狭間の戦い」まで続くことに
なります。
ですから、その人質時代に元服を迎えたことで、名前も義元から偏諱を賜った
元康などを名乗ったのが当時の徳川家康でした。

義元の領国経営の手腕については、こんな評価を見ることができます。
~新たな制度なども設け、軍事改革などの領国経営を合理的な形で推し進めた
 だけでなく、外征面でもその才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を
 成功させた~


大変高く評価されていますが、さらには、
~西進を目ざす義元は、領国東部の政治的安定を意図し、政略結婚によって
 北条氏康、武田信玄との甲斐・相模・駿河同盟(1554年)を完成させ、
 さらに駿河・遠江の支配を息子・氏真に分掌(1558年)させ、自らは
 三河支配と尾張の領国化を策した~


ここに名の挙がった人物にも触れておく必要がありそうです。
北条氏康(1515-1571年) 
 相模国領主であり、関東管領・上杉憲政を敗走させた実力者。
武田信玄(1521-1573年) 
 初めは甲斐、後には信濃、駿河、上野・飛騨・美濃・遠江・三河の一部を
 領有する大大名となる。
今川氏真(1538-1614年) 
 義元の跡を継いだが、暗愚であったため、結局は戦国大名としての今川家を
 滅ぼす形となった。


 okehazama_yoshimoto_01.jpg tokugawa_ieyasu-zou_51.jpg
  今川義元の最期(桶狭間の戦い) / 徳川家康

 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



さて、今川義元に対する上の説明が正しいとするなら、先に抱いていた筆者の
イメージとは甚だしく乖離した実像、つまり傑出した人物であったことになり
ます。
ということは、筆者がイメージする義元像の方が大きく歪んでいたのかも
しれません。

そこで、そこらへんのことについても再点検を加えてみると、たとえば
「公家かぶれ」という点については、こんな理解が正しいようです。
~母が公家出身であり、また自身も若い時期に僧として京で学んだことが
 あるため、義元にとって公家文化はメッチャ身近なものだった~


つまり、戦国武将らしからぬ軽佻浮薄ぶりを呈していたという筆者風の解釈
よりは、それが義元の素の日常であったと理解するのが正しいようです。
それを「公家かぶれ」と見るのは、公家文化を知らない者の、いわゆる
「ゲスのかんぐり」ということなのかもしれません。
ですから「薄化粧」のほうも、何も特別なことではなく、義元の飾らぬ素の
日常行為として当たり前に行われていたことが考えられそうです。

また、輿に乗ることもその通りで、足利将軍家の一門で格式の高い家柄だった
今川家が輿の使用を許されていたことは事実であり、このことを多少意地悪
っぽく言ったに過ぎないのでしょう。

少なくとも、筆者が空想したように、馬に乗れない戦国武将、あるいはグルメ
三昧でメタボ巨漢になり、そのために馬に乗れなくなっていた、というわけ
ではなさそうです。
そうであったなら、漫画チックで面白い気もするのですが。

それが証拠に『信長公記』にはこんな記述があるそうです。
~桶狭間の戦いで信長が急襲した際に、義元は馬に乗って逃げた~
実直律儀な筆運びが定評の太田牛一は書いたものですから、エエコロカゲン
な内容とも思われません。

では、このように戦国大名として大きな器量を備えた名経営者が、筆者自身
も漠然として感じていたような、あれこれにわたるマイナスのイメージに
包まれているのはなぜなのか?
本当に大きな器量を備えていたのなら、もっと評価されていてもエエのでは
ないかということです。

しかし、その低評価?の理由を見つけるのは簡単です。
「桶狭間の戦い」に負けたことが決定的な原因になっているのです。

だって、この「桶狭間の戦い」の際の義元軍の兵力は、二万五千ともいわれる
大軍だったのですよ。
百万石以上の領国実力がないことには、とてもじゃないが揃えられません。
そして、一方の信長軍の兵力は二千~三千人程度でしたから、当然にこんな
評価を招くことになります。

~十分の一の兵力で勝った信長は天才だが、十倍もの兵力を備えながら
 呆気なく負け、しかも討ち取られてしまった義元はとんでもなく愚将だ~

結果が結果ですから、戦国武将としての評価は地に堕ち、ゼロ査定になって
しまうのも無理はありません。

それにもう一つ。
徳川家康が後の天下を治めたこと、このことも理由に挙げられそうです。
江戸幕府が創立されると、家康は東照大権現様、神君です。
そんな存在である家康をかつて人質としたのが義元なのです。
だったら、江戸幕府としても、義元に好意的な目線を向けることはとても
できることではありません。

かくして、江戸時代には「義元無能説」が正しいとされていったのでしょう。
その影響から抜け出せていなかったのか、筆者などは現在に至ってもその線上
でウロウロしていたわけです。

ところが、義元を無能とするそうした見方はどうやら間違いのようで、実は
こんな指摘も見つけました。
~残された当時の史料による限り、義元はもっとも有能な戦国大名の
 一人だったといえる~


ということなら、その今川義元氏に筆者も心からお詫びしなくっちゃ。
~今川義元さん、薄化粧だとか輿乗りだとか、はなまたメタボだとか、今まで
 上っ面のイメージだけで物申していたことを改めてお詫びいたします~




 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



--直近の記事---------------------------
784 日本史の「女性」30 天照の子孫で権現様の曽孫 血統が招いた数奇生涯
783 日本史の「信仰」22 神の名を持つ母子家庭 万世一系はまた五世孫から
782 日本史の「陰謀」34 差別意識が音韻の違いに 政事はダイで軍事はタイ
781 日本史の「異国」13 発明電話機と最初の日本語 明治留学とベルの電話
----------------------------------
ヤジ馬の日本史~超駄級・700記事一覧~ №601-699編 貧乏ヒマな史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・600記事一覧~ №501-599編 だがしか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・500記事一覧~ №401-499編 満腹握りめ史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・400記事一覧~ №301-400編 颯爽ろくでな史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・300記事一覧~ №202-299編 堂々肩すか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
----------------------------------

"日本史の「列伝」20 敗軍討ち死にの武将残像" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント