日本史の「怪人」23 御意見番の内なる心情

自分が属する組織に不満を感じる。
これは古今東西誰にもあり得ることで、日本もまたその例外ではありません。
そうした不満人物?の一人に、江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門
(1560-1639年/諱は忠教<ただたか>)を挙げることができそうなのですが、
まずは、その経歴を少し覗いてみることにしましょう。


 ookubo_hikoza_tadataka_01.jpg 大久保忠教(彦左衛門)

こうなっています。
~徳川氏の家臣・大久保忠員の八男として三河国上和田(現・岡崎市)にて
 誕生(1560年)し、三河国の戦国大名・徳川家康(1543-1616年)に仕え、
 17歳で初陣(遠江平定戦/1576年)を飾る~


ですから、同じく三河国生まれの主君・家康より17歳ほど年下になります。
そして、この彦左衛門(以下、親しみを込めて彦左と表記)、若い頃から武士
としての才覚を備えていたようで、この初陣でも大層な手柄を立てたとされて
います。

その後は少しややこしい説明が続きます。
~江戸に移封(1590年)された主君・家康に仕え、「関ケ原の戦い」(1600年)では
 家康の後継者である秀忠(1579-1632年)に従軍し、上田合戦にも参加した~


ちなみに、「関ケ原の戦い」に参戦すべく行軍を急ぐ秀忠は、この地で相手・
真田昌幸・信繁(幸村)親子に戦術にまんまと翻弄されてしまい、肝心の
「関ケ原の戦い」にすっかり遅刻してしまったことは有名なエピソードで、
その大ポカに腹を立てた父・家康は、しばらくの間秀忠に口もきかなったと
されているほどです。

一方、彦左は駿河国沼津城主となっていた兄・忠佐から養子の誘いを受けた
ことがありました。
その兄・忠佐の嫡男・忠兼が早世してしまったためで、早い話が、殿様
(沼津城主)になって欲しいという依頼です。 
ところが、彦左はこれを固辞しています。
その理由が、「自分には(それにふさわしいだけの)勲功がない」。

これを現代に置き換えるなら、
~宝クジの一億円当選券をあげるから受け取ってくれ~と言われて、
~いいや、そのクジを買ったのは自分ではないのだから、当選金を受け取る
 資格がない~
と言って断った感じになります。

こうしたエピソードからも、彦左はメッチャ堅苦しいというか、一種ヘソ曲がり
というか、それなりにクセの強い人物だったことが想像されるところです。
その後の経歴にも少しばかりのゴタゴタがあって一旦は改易などの処分も
経たようですが、しかし、最後には家康直参の旗本として召し出されること
となり、三河国に1,000石を拝領することで復活を果たしています。

それ以後は、初代・家康/二代・秀忠/三代・家光(1604-1651年)と、
江戸幕府三代にわたる将軍に仕え、戦国時代生残りの勇士として旗本の
なかでも重きをなす存在となりました。

その彦左が残した著作が上中下三巻からなる「三河物語」です。
その内容については、こんな説明になっています。
~上巻は徳川家の出自から家康の父・広忠(1526-1549年)までの徳川家の
 事績。
 中巻・下巻は家康が三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国大名となる
 過程と、大久保氏の功績。
 下巻には子孫への教訓が記されている。~


ところが、こうも付記されているのです。
~各巻の終りに門外不出と追記されている。~ なぜ、そんなことを?
えぇ、この著作には冒頭で示したこと、自分が属する組織、この場合はつまり
幕府のことになりますが、その幕府に対する不満の心までもが書き記して
あったからです。

~徳川氏創業に功労のあった譜代家臣が重んじられていないッ~
不満の意を露骨に表したこの内容は、あまりに大胆過ぎて他人様の目にさらす
にはさすがに憚るものがあります。


 mikawa_monogatari_02.jpg ookubo_hikozaemon_01.jpg
 門外不出?「三河物語」 / 盥駕篭に乗る彦左

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そんな著作の中で彦左は、こうも記しています。
~門外不出であり公開するつもりもないため、他家のことはあまり書かず、
 子孫だけに向けて記した~

ところがギッチョン、書かれてすぐに写本が作られた形跡もあるそうですから、
彦左の心情は知る人ぞ知るくらいにはなっていたのかもしれません。

また、彦左はこんなことも断っていました。
~この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて依怙贔屓を
 目的として書いたものだとは思わないで欲しい~

「門外不出」という前提なら、ここに登場する「皆」というのは、世間一般の
 人たちではなく、「子孫の皆さん」ということになりそうです。

ここらあたりの説明は、前出のエピソードの通り、彦左がメッチャ堅苦しいと
いうか、ヘソ曲がり系というか、それなりにクセの強い人物だったことを
窺わせています。
こうした反骨精神の反映といっていいものか、確かにいささかの奇行?もあった
ようです。 折角ですから、それにも触れておきましょう。

と言っても、これは史実というわけではなく、創作された講談
「大久保彦左衛門 盥(たらい)の登城」の主人公である彦左の、いわば虚構の
人物の言動ということになるのですが。

昨今は知らない人も多いと思われるので、話を進める前に「講談」やら
「盥(たらい)」についての説明も必要かもしれませんが、それはこの場では
取り上げず、ご関心の向きそれぞれで対応願うことにしておきます。

さて、その彦左には、幕府・天下に対する直言ぶりを言い表したもので
しょうか、「天下の御意見番」なる異名がありました。
そんな折、ひょんなことから外様と旗本の間で「(通勤)駕篭」に関する
トラブルが起こりました。 えぇ、講談の中のお話ですよ、誤解なく。

そのトラブルに対して老中・松平伊豆守は、解決策として旗本八万騎が
駕籠で登城することを禁止する処置に出たのです。
再発防止のためには火種を無くすのが一番という考え方で、今風なら
「マイカー通勤禁止」ということになるのでしょうか。

これを聞いて収まらないのが旗本連中でした。
さっそく、旗本の頭目である彦左の屋敷に集まり、喧々諤々の意見交換?です。
そうした旗本たちの憤懣に耳をやっていた彦左でしたが、ふとある考えが閃いた
のです。 そこで、早速その行動に出ます。

まず、江戸でも一番腕の良い桶屋を呼び寄せ、何やら注文を出しています。
それから四日目、その物が彦左の屋敷に届けられました。
~底の方に4ヶ所の穴が開けられた大きな盥(たらい)で、そこには縄が
 括りつけられ、上には天秤棒のような棒が通してある~


さらに、担ぎ手を2人呼びつけると、彦左は盥に敷かれたフカフカの座布団の
 上へ着座し、こう申し付けました。
~神田・日本橋を通って千代田のお城まで行ってくれ~
旗本が盥に乗っているという珍妙な光景ですから、道中では野次馬が面白そうに
この様を見物します。
さて、彦左が大手門の前まで差し掛かると、そこには「下馬下乗」という高札が
立っています。

ところが、彦左はこれを無視します。 
~ええか、これは「馬から降りろ、駕籠から降りろ」という意味であって、
「盥から降りろ」とは書いてない~

で、彦左はそのまま中へ。

この話が老中・松平伊豆守の耳に届かないはずがありません。
早速、呼び出された彦左でしたが、その場でこんな見解を示したのです。
~外様には咎めがなく、一方の旗本ばかりが厳しい責めを受けているのは
 いかがなものでしょうか~

これに対し、伊豆守はこんな心中を吐露します。
~実はなぁ、時局柄今は外様連中の機嫌を損ねたくはないのだ~

で、結局、旗本の盥での登城は許されることになったのですが、こうなると、
旗本連中はこぞって盥での登城をするようになり、中には黒漆、紫檀の超豪華
仕様の盥を使う者まで現れるようになったということです。

この流れにすっかり困惑した松平伊豆守は、この後に門前に「下盥」という
新たな札を立てざるを得なくなったというお話になっていきます。
実は、お話はさらに深いところまで進んでいくのですが、筆者は確かに好男子
ではあっても、決して講談師というわけではないので、本日のところはこれまで
とさせて頂きます。

ともあれ、史実としては「三河物語」において、遠慮のない幕府批判まで
展開し、虚構の世界では機知に富んだ幕府対抗の姿も演じているのですから、
それなりに「天下の御意見番」っぽい雰囲気を備えた人物だったのかも
しれません。




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