日本史の「落胆」08 巨魁か凡庸かその実像

筆者のお気に入りお散歩コースの一つにもなっているのですが、名古屋市内に
ある熱田神宮の西側国道の向かいにある誓願寺という浄土宗寺院は、実は
源頼朝(1147-1199年)誕生の地とされています。
えぇ、武家政権を確立し鎌倉幕府という組織を創立したあの有名な頼朝の
ことで、それが証拠にちゃんと「頼朝生誕の地」の石碑も建っていますゾ。

後に本拠地とする鎌倉でもなく、雅な京でもなく、いささか中途半端にも
感じられるこの名古屋の地で頼朝はなぜ生まれることになったのか?
ちょっと不思議な気もしますが、このことは実はそれほど複雑怪奇な謎でも
なく、当時は母方の実家で子供を生む習慣があったからにすぎません。


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 源頼朝生誕の地/誓願寺(名古屋市熱田区)

頼朝の母親・由良御前(生年未詳-1159年)の父親は熱田神宮大宮司・
藤原季範の娘です。
つまりは、この地が「母方の実家」ということになるわけです。
ちなみに、頼朝の父親は源義朝(1123-1160年)になりますが、この方は、
「平治の乱」(1159年)に敗れ、敗走の途中で家臣の裏切りによって落命
しています。

さて、その源頼朝の紹介は、ざっとこんな感じになりそうです。
~「平治の乱」後伊豆に流されたが,以仁王(後白河の子/1151-1180年)
 の命を受けて平氏追討の兵を挙げ、ついには滅ぼし天下を平定。
 征夷大将軍(1192年)を拝し、名実ともに武家政権としての幕府を開いた~

もう少し詳しい場合なら、この文言が加えられていることも珍しくありません。
~落馬が原因で死去~ ホントとしたなら、ちょっとドジですね。

武家政権としては平清盛(1118-1181年)に後れを取りました。
しかし、その後において、幕府や征夷大将軍など、その清盛よりも圧倒的に
堅牢な政権構造を備えることに成功しました。
そう言い切れるのは、多少のイレギュラー期間を除けば、その政権構造
「武家政権」はその後も概ね700年もの長きにわたって維持され続けたからです。

そうした事実に注目し、頼朝を「日本史上屈指の巨人」として崇める向きも
あります。
何せ12世紀には頼朝が始めた政治形態は19世紀まで続いたのですから、
それを考えれば、まさに巨人・巨魁と呼ぶにふさわしい実績です。
しかし、そこにちょっと意地悪な目線が許されるなら、真逆の評価も
できなくはなさそうなのです。

まず押さえておきたいのは以下のことです。
○頼朝は武士の棟梁として十分な血統を備えていた。
○そのこともあって、継室・政子の実家である北条時政(1138-1215年)や、
 側近・大江広元(1148-1225年)らの常態的サポートがあった。
○頼朝弟・源義経(1159-1189年)指揮による奇跡的な戦果が最大の敵勢力で
 ある平家を滅亡に追い込んだ。
幕府征夷大将軍などの武家政権構築に対する発想は、頼朝本人よりも、
 むしろそのサポート・チームもどきの人々が主導した。

要するに、頼朝が備えたその「血統」は、武士が担ぐ「神輿に乗る者」として
の最適な条件を整えていたということです。
で、頼朝ファンにはまことに心苦しいことですが、ここから先は、必ずしも
「日本史上屈指の巨人」とは呼べない、それとは別の頼朝像を追ってみる
ことにします。。

まず、先にも挙げた「平家滅亡」がその通りです。
頼朝自前の部下の働きではどうすることもアイ・キャン・ノットだった平家
勢力を、弟・義経の指揮に委ねたところ、これが「三連戦三連勝」という
まったくの「奇跡の戦果」を生み、結果的に「平家滅亡」を実現できたの
でした。
逆に言えば「平家滅亡」は頼朝の力によってなしえのではなく、義経という
異母弟の才能があって初めて実現できたということです。

「幕府」や「征夷大将軍」などの実務的アイデアも、頼朝自身による発想
だとは思えません。
両方とも本来とは違った拡大解釈をすることで実質的な武家政府を創立すると
いうアイデアで、現在でいう「憲法解釈」に似た微妙さを備えていますから、
法的知識に精通していなければ出てくるはずもないからです。
つまり、ブレーンである大江広元あたりが主導したに違いないのです。


 minamoto_yoritomo_02.jpg goshirakawa_houou_01.jpg
 源頼朝 / 後白河法皇
 
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さて、頼朝の初陣は13歳の折の、父・源義朝と平清盛の衝突、いわゆる
「平治の乱」(1159年)でした。
戦いは源氏の劣勢に終始し、ついには親子共々敗走の次第となったのですが、
実は頼朝、その途中で一団からはぐれて迷子になっています。

今なら中学生の年齢ですが、当時としては元服間近な年齢ですから武士と
してはいささかトホホな経緯には違いありません。
ここで捕らえられ、清盛の温情判決により伊豆国へ島流しされ、流人の身に
なったたことはご承知の通り。 

頼朝再起までには、その後20年の月日を必要としたわけです。
御白河天皇の皇子・以仁王(1151-1180年)の令旨(打倒平家)に呼応して、
全国各地の源氏衆ともども頼朝も決起したのですが、なんと「石橋山の戦い」
(1180年)で惨敗し敗走。 

「ほうほうのてい」って、こういう時に使う言葉かもしれませんが、ただ
この時は平家手勢の「配慮(見逃してくれた)」もあって、頼朝は一命を
とりとめただけでなく、安房国まで逃れることもできました。
要するに、その軍事能力は必ずしも戦上手と評するレベルではなく、むしろ
戦下手の側に属していたようです。

頼朝は、後に「平家滅亡」の最大の功労者である弟・源義経とも袂を分かって
いますが、これが1185年のこと。 その理由は?
武士方の棟梁である頼朝の許可を得ないまま、義経が朝廷から官職を得たこと
を頼朝自ら咎めたものでした。

~武士政権を確立すべく、朝廷を相手に回しているときに、その朝廷から
 官職を拝するだとぅ、義経っ、オマエはトコトンのバカかッ!~

これが兄・頼朝の言い分でしたが、それに対する弟・義経の反応は、
~兄ちゃん、なにを怒っとるの? 朝廷から官職を拝するなんて半端でなく
 栄誉なことではありませぬか!~


こうした義経を、頼朝は奥州にまで追い詰め、ついには自決させたことは
ご承知の通り。
ところが、この後に頼朝はこの時の義経と同様に朝廷に擦り寄っていくのです。
頼朝継室・北条政子(1157-1225年)が娘・大姫(1178-1197年)らを連れ、
京へ上ったことがありました。

表向きの理由は東大寺の落慶供養としていたましたが、実は娘・大姫を第82代・
後鳥羽天皇(1180-1239年)の妃にするべく入内工作が目的だったのです。

~鎌倉幕府とは朝廷から独立した武士独自の政府~
この意識が大切だから、官職につられて朝廷に擦り寄っていった弟・義経を
断固弾劾した頼朝でしたが、実はこの「大姫入内計画」は武士団からみれば、
朝廷に擦り寄るという点では何らの違いもない行動でした。
そのことに気が付かなかったとするなら、武士の巨魁どころか、半端でない
「凡庸頼朝」だったと言わざるを得ません。

穢れた武士が持ち出したこんな虫の良い計画に、朝廷がまともに取り合う
はずはもちろんなく、頼朝は体よくあしらわれ、大姫入内計画は当たり前に
ポシャりました。

そうした姿を晒した頼朝を、おそらく武士団は、
~血統だけが取り柄の凡庸人間~として見切ったことでしょう。
ひょっとしたら、そういう「腹の底」は、これより以前に、大枚の資金を
投入することでやっと実現させた後白河院とのサシの会談(1190年)において、
頼朝が何らの成果も挙げられず、「ゼロ回答」に終わってしまった頃には、
もう既に始まっていたのかもしれません。

そういうことなら、散歩のコースとしてお世話になっているので、まことに
言い出しにくいことなのですが、
~朝廷から独立した武士独自の政府である鎌倉幕府の真の創立者~
武士団自身は、源頼朝という人物をこのようには見ていなかった、という
ことにもなりそうです。




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