日本史の「トホホ」31 白村江ボロ負けの恐怖

「白村江の戦い」(はくすきえのたたかい/663年)とは、この国(日本)に
とって、初の本格海外戦争だったと言えるのかもしれません。
~天智天皇2年(663)白村江での、日本・百済(くだら)連合軍と
 唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦いであり、日本は唐・新羅軍に攻略された
 百済の救援のために軍を進めたが大敗し、百済は滅亡した~

その「白村江の戦い」についての説明です。

ついでに、その「白村江」なる場所も確認しておきましょう。 
こんな案内になっています。 ~白村江とは現在の錦江河口付近~
そんなら次には当然、その「錦江」ってどこにあるねんってことになります。


 hakusukinoeno_tatakai_map_01.jpg 白村江の戦い/663年 

その白村江は~大韓民国の「中西部」に位置する主要河川~とされています
から、地理的には「朝鮮半島」の一部であり、問題の百済の領土内という
ことになります。
要するに、日本からすれば、「海外」であり「外国」の地ということです。
その外国の地で「日本・百済連合軍VS唐・新羅連合軍」による激戦が行われ、
日本・百済軍は惨敗を喫し、その結果に、百済は滅亡(4世紀前半-660年)し、
勝者となった新羅が朝鮮統一に一歩を進める形になったわけです。

早い話が、敗者・日本にしてみればメッチャ拙い局面、最悪の結果を招いて
しまったことになります。
となれば、こんな覚悟を抱くのも当然です。
~超大国・唐は次にこの日本を標的にして侵攻してくるに違いないッ!~

これまでの百済・新羅・高句麗の三つ巴の形になっていた朝鮮半島情勢が、
この「白村江の戦い」によって、俄然唐の影響力が高まった上に、
その朝鮮半島の目と鼻の先に位置しているのが、ほかならぬ日本なのです。
この現実に、ある種の恐怖感を覚えたであろうことは容易に推察できます。

さて、その時の日本において、実質的姿勢者の立場にあったのは、後に
第38代・天智天皇(626-672年)と呼ばれることになる中大兄皇子でした。
この時多分、精神的には半分くらいノイローゼ状態に陥っていたはずです。
なぜなら、以下の一連に矢継ぎ早に取り組んでいるからです。

とにもかくにも祖国日本を唐軍の侵攻から守るための対策として、敗戦の
すぐ翌年(664年)には、筑紫国(福岡県)に防衛陣地として「水城」
建設しました。
いざの場合には、ここが最前線になることを見込んだものです。

併せて辺境防衛部隊というべき軍事力も配備しています。
それなりの防衛施設が整ったとしても、実際に武器を取って戦う人間、つまり
戦闘用員がいなくては話にならないからです。

さらには、こうした状況下で欠かせない迅速な情報伝達システムとして
「狼煙/のろし」施設を整備しました。
万が一直接戦闘となった場合には、的確で迅速な戦況把握が必要不可欠です
から、これもまた当然の配慮です。

このくらいの準備を重ねたことで安心できたかと言えば、少なくとも中大兄皇子
はそのようには受け止めませんでした。
なにしろ、攻め込んでくると予想されるのが超大国・唐なのです。
万一の不安が際限なく広がっていったとしても不思議ではありません。

大和国(奈良県)、讃岐国(香川県)、対馬国(長崎県・対馬島)の各地には
城も築きました。 
これも侵攻してくる唐・新羅軍に対する防衛拠点を整備するという意味合い
でしょう。

つまり、この時点の中大兄皇子は「唐は必ず攻めてくる」という思いから逃れる
ことができなかったわけですから、半分ノイローゼ状態にあったと言っても
あながち大袈裟ではないのかもしれません。
それが証拠に?に、さらなる用心も重ねています。
 

 map_ootsukyou_area_01.jpg hakusukinoeno_tatakai_03.jpg
大津京(琵琶湖)/白村江の戦い(663年)
 
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それまでの飛鳥(後飛鳥岡本宮)から近江(大津京)への遷都です。
つまり、都まで移転したのです。
「白村江の戦い」敗北からわずか4年後(667年)のことです。

このことはひょっとしたら、陸路頼りの飛鳥の地よりは、イザの折には琵琶湖
という巨大な水路も利用できる近江・大津京の方がより安全だと考えた結果
なのかもしれません。

さらには、それまでは天皇の座を避けることで、自由な立場で政治を動かし
ていたものを、遷都の翌年(668年)には正式に天皇即位も行いました。
~国内の政争を徒に繰り返している場合ではないッ!~
こうした意思表示であり、国内の意識を引き締める目的もあったのかも
しれません。

では、そうした一連の対策の結果に、日本国内がどうなったのかといえば、
結果として政界の意見は真っ二つに割れてしまったのです。
天智天皇と、その天智の「同母弟」を自称する大海人皇子
(後の第40代天武天皇/生年不明-686年)による、それぞれの政治路線の
正面衝突です。

簡単に言うなら、「親百済・天智VS親新羅・天武」の構図となり、そして、
この後に「天智の死」(672年)があり、さらに大海人皇子VS大友皇子
(天智の太子)による、古代日本最大の内乱である「壬申の乱」(672年)へと
雪崩れ込んでいくわけです。

ここから先には、古代日本が形作られていく過程の、さらに壮大で面白い
お話が続いていくのですが、今回はそれには触れず、筆者が持つこの疑問に
触れてみたいと思います。
~白村江を「はくすきのえ」と読むのはなぜ?~

現在は必ずしもこの読み方が強要されているわけではなく、当たり前に
「はくそんこう」と呼んでもセーフだそうですが、筆者の年代だとこれを
「はくすえのき」と読まされたのも事実です。
早い話が、この場合の「村」は「すき」と読むのが正しいとされていたわけ
です。

この長年の疑問に今回向き合ってみて初めて知ったのですが、日本書紀には
こんな記事があるとのことです。
~我自ら往きて白村(ハクスキ)に饗(どよ)へむ <略> 大唐の軍将、
 戦船一百七十艘を率て、白村の江に陣烈(つらな)れり~

つまり、その昔の昔から「白村」は「ハクスキ」だったことになります。

しかし、普通は「村」を「すき」とは読まないのではないか。
そこでひょっこり頭に浮かんだのが日本人の名字にある「村主/スグリ・スクリ」
です。
「すく・り」と区切るのか、それとも「す・くり」で区切るものか、それすら
判断がつきませんが、もし昔の昔には「村」を「すき」としていたのであれば、
「すくり」とはそれほど遠い印象にもなりません。

事実「村主」については、こんな説明にも遭遇しました。
~古代朝鮮語の「スキ/村」「ニリム/主」に関係があるか(もしれんゾ)~
だったら、なかなかに鋭い直感だったかもしれんゾと自画自賛していたところ、
それとは別にこんな解釈もあるとのことで、これにはちょっと驚きました。

つまり、日本語を尊重した筆者の解釈とは真逆に現地語を優先させた考え方
です。
「白村江」はもともとが朝鮮半島の百済国に位置する地名なのですから、
現地語優先はこれはこれで理にかなった理解なのかもしれません。

高句麗(こうくり/コグリョ/koguryo)
 ○新羅(しらぎ /シルラ /silla)
 ○百済(くだら /ペクチェ/paekche)
これが、いわゆる「三韓時代」を構成していた三国です。

「百済」は「ペクチェ」となり、その「ペクチェ」の訛り発音なのか、これが
「ハクスヒェ」となり、さらに日本語発音では「はくすきのえ」となった。
こういう見解です。
これが正しい見方なのかどうかは、筆者にはとんと判断できませんが、少なく
とも楽しい見方の一つであることは認めたい気持ちです。

ちなみに、日本は「初の本格的海外戦争」となったこの「白村江の戦い」に
惨敗を喫しただけでありません。
○豊臣秀吉が企てた二度の海外侵攻である
「文禄の役」(1592年)も「慶長の役」(1597年)

○昭和時代になって陸軍の暴走が原因となった「日中戦争」(1937-1945年)
 それと並行してアメリカを相手に回した「太平洋戦争」(1941-1945年)
つまり、「海外侵攻」はことごとく惨敗続きで、日本民族にとって最も
不向きな作業と言うことができるのかもしれませんねぇ。




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