日本史の「大雑把」05 名乗り数多の戦国生涯

たとえば、この戦国武将は諸事情も重なって、一生のうちに数多の名前を
持つことになりました。
もちろん数だけでいえば、もっと多かった人物もいるのかもしれませんが、
それにしても現代人の感覚からすれば、やはりこんな印象になるところです。
~こんなに多くの名前を持って、逆に不自由はなかったのかしら~

せっかくですから、その例に挙げた戦国武将の名前遍歴を追ってみることに
しましょう。
まず生まれて最初に付けられる名前が「幼名」ですが、これは原則的に、
子供時代はそのまま使い続けることになります。
しかし、元服を迎える、つまり一人前の大人として認められる年齢に達すると、
名前の方も大人用に衣替えすることになるのです。

ただし、せっかく定めた本名(諱)ですが、これを使う場面のほとんどは
公式の場に限定され、普段使いすることはありません。
名前というものは「個人(を特定する)情報」として、当時でも慎重な取り
扱いをされていたということかもしれません。

しかし、これではなにかと不便も生じますから、諱の他に普段使い用の名前も
整えました。
それを通称あるいは仮名(けみょう)と呼んだそうです。


 kawanakajima_kassen_01.jpg 川中島合戦図屏風

このラインナップで、この戦国武将が生涯のうちに使った全部の名が勢揃い
したのかといえば、世情はそれほどシンプでもありませんでした。
長男に生まれれば、原則として家督を継ぐ者としての扱いを受けることに
なりますが、これが次男や三男などともなると「(御家の)外に出」ることに
よって新たな名前を持つことも決して珍しくなかったからです。

えっ、なんで「御家を出」たの?
それは、家督継承の候補者が大勢いたのでは、それらの人たちによって将来
御家騒動を招いてしまうことを恐れたためで、それを防ぐ方法として跡取り長男
以外の次男・三男・四男などは出家したり、他家へ養子に出たりして、実家と
縁を切った存在になることもあったわけです。

いま例に取り挙げている武将も次男・三男の類でしたので、御家を出て僧と
なりました。
ところが僧になれば、俗人として名乗っていた俗名とは別に仏の世界での名を
必要とされます。
仏の世界には俗世と一線を画したルールがあったからです。

そして、このまま俗世を離れた仏の世界で一生を送れたのであれば、こうまで
複雑にならずに済んだのでしょうが、ところがこの人物は「家庭の事情」に
よって再び俗世界へカムバックせざるを得ませんでした。
当然ながら、名前も僧としての名乗りから再び俗世用のそれに変わることに
なります。

ところが、この武将の場合はこの程度の名前遍歴で容赦されることはありません
でした。
実は他家から頭を下げられてその御家の家督を継ぐこととなり、それによって
上の名字の方も下の名前の方もすっかり一新せざるを得なくなったのです。

しかしまあ、これほどの改名遍歴を辿ったなら、さすがにもうこのへんで
打ち止めに違いないと想像するのが普通でしょう。 ところが、ギッチョン!
この武将に場合は、その働きが評価されて「偏諱を賜る」ことになりました。
つまり、またまた「改名」に及んだということです。
えぇ、なんですか? その「偏諱を賜る」(へんきをたまわる)って?

概ねのところ、こんな説明になっています。
~偉い人(天皇・将軍・大名など)が、功績のあった家臣や元服をする者の
 名に自分の名の一字を与える~

そして、偉い方の名の下の字を、頂く側の名の上に付けるのが通常の
パターンとされています。

えぇ、この武将の場合も、頼りになる存在であったがために将軍から
「偏諱を賜」り、またそのことで何度目かの改名をすることになりました。
さすがにこれが最終回だったかといえば、実は「さに非ず」で、この武将は
法号も名乗っていたのです。


 uesugi_kenshin_51.jpg uesugi_norimasa_01.jpg
  上杉謙信(長尾景虎) / 関東管領・上杉憲政 
 
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とある合戦で、死傷者数千人という大敗北を喫したことで大いに悩むことになり
ましたが、本人の努力もあって、苦労の末にそこからの脱却を果したことが
ありました。
そうした経緯もあって、自ら法号「不識庵・謙信」を名乗るようになったと
されています。

えぇご推察の通り、その戦国武将とは一般的には「上杉謙信」(1530-1578年)
の名で知られている人物です。
せっかくですから、そこに至るまでの改名遍歴も辿っておきましょう。
いえね、これほどに改名を繰り返した経験を持つ現代人は少ないと思われ
ますので、こうしたこともまあ歴史の関心事にはなろうとの気分からです。

 <1>幼名を 虎千代
<2>元服して 長尾景虎
 <3>通称は 平三/ひょっとしたら三男だったか?
<4>出家して 宗心/臨済宗の僧になった
<5>還俗して 再び長尾景虎(通称平三)

この後にさらに、
<6>家督相続により 上杉政虎/室町幕府関東管領・上杉憲政
          (1523-1579年)から家督を譲られ偏諱を賜る
  <7>偏諱を賜る 上杉輝虎/第14代将軍・足利義輝(1536-1565年)
           の名の下の「輝」の字を
    <8>法号  自らを不識庵謙信と号した

関東管領・上杉家の家督を譲られたのは当主・憲政が、当時の長尾景虎(謙信)
という人物を見込んだからと言われています。
領土的野心も薄く、また室町幕府の尊重しその復権を願う謙信の姿が、関東管領
としての上杉憲政治の目には真面目で頼りになる人物だと映ったのでしょう。

養子に迎えることで、家督とともに関東管領の職責も譲っています。
この時にそれまでの長尾景虎から新しく上杉政虎という名に改まりました。
名字の上杉はその養子になり家督を継いだもので、名前が景虎から政虎に
なったのは同時に偏諱を賜り、憲政の下の字を名前の上の字に頂戴したから
ということになります。

ところが、謙信に対して同じような気持ちを、室町幕府のトップである
第13代将軍・足利義輝(1536-1565年)も抱いたようです。
おそらくは、諸大名に対しての権威をすっかり失ってしまった幕府を立て直す
ためには不可欠の人物と見込んだということでしょう。

その意思を示すためにも、ここでも「偏諱」が活用されました。
足利義輝の名前の下の字を、長尾景虎改め上杉政虎の名前の上の字に頂き、
新たに上杉輝虎の誕生となったわけです。
ああ、ややこしい。

「偏諱を賜う」ことは、つまり、偉い人自らが御褒美を与えるということ
ですから頂く方にとっては大変な名誉ということになります。
この褒賞の方法の優れた点は、与える側からすれば大したコストが
かからないというところです。

これが金銀なり土地なりのリアルなご褒美でしたら、それなりの原資も
必要になりますから、そうそう気楽に与えるわけにもいきません。
その意味で「偏諱を賜る」という顕彰方法は、与える側の懐にも響かず、
また頂く側には大きな名誉が付与されるわけですから、ある意味双方が
ウィンウィンの関係になる顕彰方法といえるかもしれません。

そうしたことはともかくとして、これほどに頻繁な改名に取り組む必要が
なくなった現代はある意味幸せと言えるのかもしれません。
なぜなら、もし一生に七つも八つもの本名を持ったとしたら、筆者なぞは
間違いなくこうなってしまいそうだからです。 
~(名前を問われ)えッちょっと待ってください、今の名前は何だっけ?~




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