日本史の「トンデモ」05 江戸政界フィクサーの奔放

第10代将軍・徳川家治(1737-1786年)には、後継第11代将軍となるべく
嫡男・家基(1762-1779年)がいました。
幼年期より聡明であった家基は、文武両道の才能備えていたばかりか、
政治に対しても次第に関心を示すほどの人物でした。

また、その名には徳川宗家の通字である「家」が授けられています。
要するに、家治後継の第11代将軍として、血筋も能力も申し分ない存在だった
ということです。
ところが、その家基が第11代将軍に就くことは叶わず、現在では
「幻の11代将軍」という呼び方もされているのです。


では、次期将軍として文句なしの資格を備えていた家基の11代将軍が幻に
陥ったのはなぜか? その理由は「突然の死」を迎えたことでした。


 tokugawa_iemoto_61.jpg 幻の11代将軍/徳川家基
 
「家元の死」についてはこんな説明がされています。
~鷹狩りの帰りに立ち寄った品川・東海寺で突然体の不調を訴え、3日後に
 死去した。 享年18(満16歳没/1779年)~


体調を崩して病床にあったわけではありません。
鷹狩りという、体力も気力も必要とするいささかハードなレジャーに出かけた
くらいですから、当日もすこぶる健康で申し分なしの体調だったはずです。

そうした背景もあって、この「健康な若者のあまりにも突然の死」には
少なからず疑惑の目が向けられました。
何者かによって暗殺(毒殺)されたのではないかということです。
この出来事によって存命の子をすべて亡くしてしまった将軍・家治の嘆き
悲しみは尋常ではなく、食事も喉を通らないほどだったとされています。

この異変に関する様々な見方の中の一つに、一橋家・徳川治済(はるさだ・
はるなり/1751-1827年)の関与を疑うものもありました。
それも、この暗殺事件に何らかの形の関与があったというのではなく、
治済こそがこれを主導した張本人ではないかという疑惑です。

とは言うものの、この徳川治済なる人物のことは、学者や歴史マニアは別と
して、現代ではそれほど知られていません。
平たく言えば、その人間像を現代人はあまりよく承知していないということ
です。

そこでちょっと調べてみると、なるほど結構怪しい言動も窺えるのです。
今風に言うなら「政治フィクサー」ほどの雰囲気を漂わせた人物といった
ところでしょうか。
こうなると、その「フィクサー」という言葉の意味についても補足が必要に
なりそうです。

~(フィクサーとは)政治・行政や企業の営利活動における意思決定の際に、
 正規の手続きを経ずに決定に対して影響を与える手段・人脈を持つ人物~

「正規の手続きを経ずに」ですから、要するに、超法規的な立場にある存在と
いうことになります。
では、なぜ治済に疑惑の目が向けられるのか?

実は、この事件によって子供をすべて失ってしまった将軍・家治はのちに
養子を迎え入れています。 
将軍職というものは間断なく継承させていく必要があるからです。
では、その養子に迎えた人物とは?

名を徳川豊千代(1787-1837年)といい、驚くなかれ、実はその渦中にある
治済の長男なのです。 逆の言い方をすれば、こうなります。
~将軍・家治の嫡男・家基の死によって、その養子に迎えられた
 治済の長男・豊千代が後継将軍候補の順位ナンバーワンとなった~


この後が何事もなく普通に推移していくなら、その豊千代が将軍に就き、
その時点で当の治済は将軍の実父という立場に立つわけです。
そして、史実はその通りに運びました。
第10第将軍・家治が死ぬと、後継には予定通りに養子・豊千代が収まり、
第11代将軍・徳川家斉となったのです。


 tokugawa_harusada_01.jpg tokugawa_ienari_01.jpg
父・徳川治済 / 第11代将軍・徳川家斉
 
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~その事件の結果において最大の利益を得た人物が怪しい~
犯罪捜査の鉄則です。
これを当てはめるなら、この場合、治済・家斉(豊千代)父子に目が向くのは
当然です。

なにしろ、次期将軍職を最も身近なものにしたのがこの父子ですからね。
しかし、事件当時はまだ小学生の年齢だった豊千代が「家基毒殺」を企てた
と考えるのはさすがに無理ですから、やはり企みの黒幕は父・治済と
見るのが自然でしょう。

そして、この第11代将軍・徳川家斉は、結果として幕府史上最長不倒の
在任記録を打ち立てることになります。
先代・家治の死を受けて将軍に就き、自分の死によって手放すまでの
およそ半世紀(1787-1837年)の長きにわたってその職を務め続けたのです。

これはこれで確かに凄いことですが、実は家斉にはもう一つ目に付く行動が
ありました。
それは、家基の命日に墓参りすることを決して欠かかさなかったことで、
晩年に至るまでず~っと続けたのです。
それも、都合があって自らが出向けない場合は、他の者を代参させるほどの
熱心さでした。

養子になったとはいうものの、直接の血縁関係があるわけでもない先代将軍
の、そのまた子供に対する墓参りです。
ここまでの敬意を払うことは、確かに立派な行為かもしれませんが、しかし
まあ少なくとも「普通のこと」とは言い難い印象です。

つまり、家斉が心の底にこんな疑心を抱いていたのではないかとの勘繰りも
できそうだということです。
~ひょっとしたら、家基の死はボクを将軍の座に就けようとした
 父ちゃん・治済に暗殺された?・・・のかもしれん~

ひょっこり、この推測が当たっていようものなら、将軍の座は家斉にとって
いかにも座り心地の悪いものになります。

そこで、供養?というか鎮魂?というか、そんな思いから出た具体的な行動が、
「命日の墓参り」ということだったのかもしれません。 
もっとも、将軍になった家斉が生涯にわたって頭痛に悩まされていた事実も
あるようで、このことを家斉自身が家基の祟りのせいだと受け止めていたフシも
感じられ、その祟り封じのためにも「墓参り」は欠かせなかったということなの
かもしれません。

では、その問題の父ちゃん・治済とは、いったいどんな人物だったのか?
そもそも、自らの政治力をもって実現させた「第11代将軍」の実父に当たる
わけですから、幕政に対するその威力?影響力?もハンパではありません。

すなわち、上の説明のように、
~政治・行政や企業の営利活動における意思決定の際に、正規の手続きを
 経ずに決定に対して影響を与える手段・人脈を持つ人物~

だったわけで、その意味では正真正銘の「江戸政界フィクサー」と表現する
ことに、それほどの違和感はないと思われます。

治済の行動の奔放さは以下の出来事だけでも一目瞭然です。
○自らを黒幕的存在として松平定信(1759-1829年)らと組み、
 田沼意次(1719-1788年)派の動きをけん制した上に、念願の将軍・家斉
 が誕生するや意次を罷免させ、併せて田沼派の一掃を行わせた。

○後に、将軍・家斉から出された「父・治済を大御所待遇に」という要求
 (つまり治済自身の要求?)を、結果として拒否する形になった老中・
 松平定信を失脚に追い込んだ。

ちなみに、この場合の大御所とは~退位した将軍~の意味になります。
治済自身は将軍の実父ではあっても、自らが将軍職に就いたことはないの
ですから、もともとから筋違いな要求なのです。

要するに、自分の意に添わぬ者は誰彼構わず蹴散らして突き進むという姿
ですから、そこに「正規の手続き」なんぞが介在するはずもありません。
将軍実父として権勢をふるった治済は、没するまで幕政に隠然たる影響を
持ち続けたとされています。
ですから、まさに「江戸政界フィクサー」と呼ぶにふさわしい生涯だったとは
言えそうです。




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