日本史の「落胆」07 戦国布教は花咲かず

未知の宗教であったキリスト教を日本に初めて伝えたのは宣教師
フランシスコ・ザビエル(1506-1552年)でした。
1549年に鹿児島に到着して以後、平戸、山口、京となどでその布教活動に
努めたとされています。

もっとも、ガチガチの一神教であるキリスト教の教えを日本に広めるには
多くの苦労が伴ったのは事実でした。
元から神仏習合スタイルで数多の神様・仏様を敬うことを自然としている
日本人に「唯一の神」という新しい概念を持ち込もうとしたのですから、
これは無理もないことです。


 senkyoushi_zabieru_51.jpg 宣教師・ザビエル

実際、しばらくの間はこの「唯一の神」という概念を日本人は十分に理解
することができなかったようです。
「八百万神」様がいて、さらには数多の「仏様」が存在する環境ですから、
「この神オンリー」とする教義に対してはこんな反応になりやすいからです。
~言っている意味がよく分かんない~

そうした経緯からすれば、キリスト教の教義そのものがハナから日本布教に
対するハードルになっていたとも言えるかもしれません。
ザビエルは日本に滞在した「2年余」(1549-1551年)という短い期間に
500人あるいは600人以上とも言われる日本人に洗礼を授けた、つまり
それだけの人数の日本人を改宗させることに成功したようです。

それまで「唯一神」という概念にはまったくの無知だった者に対して、
単純計算でも「20人/月」程度の信者を獲得し続けたことになりますから、
これはちょっとばかり驚きの数字です。

で、そうした基礎知識の中で、ひょっこり「キリシタン大名」という言葉を
挟まれるとどうなるか? 
普通の人はなんの誤解もなく理解していたのでしょうが、ところが
暗示にかかりやすい体質の筆者はこう受け止めていたのです。
~ザビエルたちの布教活動によってキリスト教に改宗した大名を
「キリシタン大名」と呼んだ~
 

ところが、念のためにその「キリシタン大名」を調べてみると、これくらいの
説明になっていたのです。
~戦国時代末期から江戸時代初期にかけてキリスト教を奉じた大名~
ええッ、なんだとうッ、ザビエルが改宗させた大名を「キリシタン大名」と
呼ぶのではないのか? 

九州や近畿に多いとされていたので、まず九州地域を探ってみると、
○肥前・大村純忠(1533-1587年)◇バルトロメイ/1563年
○豊後・大友宗麟(1530-1587年)◇フランシスコ/1578年
○肥前・有馬晴信(1567-1612年)◇プロタシオ/1580年
○豊前・黒田孝高(1546-1604年)◇シメオン/1583年頃 ※官兵衛(如水)
○和泉・小西行長(生年不明-1600年) ◇アウグスチノ/1584年

あっちゃー、揃いも揃って改宗時期の遅いこと遅いこと。
全員の改宗時期が、ザビエルが日本を去った1551年よりずっと後の出来事
ではないか。
それどころか、そのザビエル御本人が亡くなってからでも随分時間が経過して
からの改宗になっているゾ。

こうなれば、次は近畿エリアだ。
○摂津・高山右近(1552-1614年) ◇ジュスト/1563年
○近江・蒲生氏郷(1556-1595年) ◇レオン/1585年
さらに、大名本人ではないものの、その正室である、
○肥後・細川珠(1563-1600年)◇ガラシャ/1584年 ※細川忠興夫人

これもまた、全員の改宗が例外なくザビエル死後のことになっている。
つまり、ザビエルの宣教を受けてキリスト教徒になったのではないということに
なり、これまですっかり思い違いをしていたことに気が付いたわけです。


 tensyou_kenou_shisetsu_01.jpg 天正遣欧少年使節団 
 
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そうした筆者の大ポカ・不覚はともかくとして、この時代にはキリスト教の
教えに殉じた人もいました。
その信仰心が純粋だったということでしょう。

たとえば、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の将として奮戦し敗北の末、
捕縛された小西行長(アウグスチノ) 。
この頃の当然の作法として切腹を命じられましたが、これをきっぱり拒否
しました。

キリスト教の教えが自殺を禁じており、切腹による死は自殺にほかならない
からです。 では、どうなったのか? うーん、斬首されました。
武士の立場からすれば切腹は名誉を守った死であり。斬首は名誉どころか
それを投げ捨てた死に様ですから、行長は武士としてではなくキリスト教徒と
しての死を選んだことになります。

また、細川珠(ガラシャ)も同様な死を選択しています。
関ヶ原の戦いを前にして人質にすべく石田三成勢がガラシャを取り囲み、
もはや逃れられない状況になったとき、家老が介錯に及びました。
自殺禁止のキリスト教ですから、ガラシャもまたこの方法を選択したことに
なります。

また「天正遣欧少年使節団」(1582年)もそうしたキリスト教に心酔する
類の行動であったかもしれません。
~天正10(1582)年九州のキリシタン大名、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信が
 ローマ教皇のもとに派遣した少年使節~


少年使節団をキリスト教の本拠地に送ったことは、日本人側にとっては、
真摯な信仰行為の表明でもあったと思われます。
もっともそれを企画し実行した宣教師・バリニャーノ(1539-1606年)自身、
または、それを認めたキリスト教側からすれば、ヨーロッパにおける広告塔
もどきの意味合いも幾分はあったのかもしれません。

ところが、この使節団が帰国(1590年)を果たしたときには、国内では既に
天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)によるキリスト教禁圧(1587年)の時代に
入っており、この「天正遣欧少年使節団」は「忘れられた存在」になって
いました。

へえぇ、それにしても、この時代の日本人キリスト教関係者は、なんとも
まあやたらと真面目な信仰態度を貫いていたものだ。
そんな感心をしていた矢先に、どっこいこんな説明にぶつかったのです。

~豊臣秀吉による禁教によって次第に脱落者が出、江戸時代の禁教策で、
 大部分が転宗した~

この説明が正しいとすると、下の不等式が成り立つことになります。
~(天下人による)禁教命令 > イエス・キリスト(に対する信仰心)~

キリスト教に教義からすれば、これはメッチャ拙い現実です。
なぜなら、これではキリスト教より強いもの、キリスト教を上回る権威が
厳として存在していることを示していることになるからです。
そこで、こんな説明も登場します。

~大名相手の布教に励むキリスト教宣教師の中には、その見返りとして
 ポルトガル人やスペイン人相手のいわゆる「南蛮貿易」や、はたまた
 武器・弾薬の援助などを提示する者もあった~


要するに、純粋な勧誘ばかりでなく「オマケ付きの抱き合わせ販売」?を
する宣教師もいたということであり、さらに、
~大名側の中にも、どうせならよりデッカイ利益を手に収めるために、
 敢えて入信して宣教師の歓心を買う者もいた~


こうなると、キリスト教への信心はやむにやまれぬ気持ちから湧き出たもの
ばかりでもなく、いうなれば自分の都合(たとえば経済活動・政治的立場など)
を優先させた者も少なくなかった。 こう言っていることになります。

確かにそうした雰囲気が感じ取れるケースがあるのも事実です。
この雰囲気を突き詰めていくと、
~昔の昔から神仏習合のスタイルでやってきている日本人の気質体質から
 したら、そこにもう一人くらいの神様仏様が加わったところで、それほど
 気にもしなかったし、気にもならなかった~
ということになるのでしょう。

では、禁教令もなくまた逆に「信教の自由」までもが保証された現代日本に
おいて、つまり制限が撤廃された環境下においてキリスト教は爆発的な
人気を獲得するようになったのか?

キリスト教形式による「教会結婚式」が増加したのは事実でしょうが、
ところが葬式までキリスト教で行う日本人はまだまだ少ないという事実を
眺めれば、その答えは明らかなのかもしれません。




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