日本史の「事始め」20 古を推せばトップは女性

歴代天皇の男女比を眺めれば、一目瞭然で男性天皇の方が多い。
相当な迂闊者でもそれには気が付くほどですが、しかし、いかに少数派の
女性天皇とはいえ、その中の誰か一人には「史上初の女性天皇」という
称号?冠されるはずです。
そして、その「史上初の女性天皇」と冠された方を我々現代人は普通
「推古天皇」とお呼びしています。


 suiko_tennou_01.jpg 第33代・推古天皇
 
さて、最近の考古学・歴史学によれば「天皇」という称号の使用は
天武朝から始まったと考えられているそうです。
ならば、「最初の女性天皇」とされる第33代・推古天皇が「天皇」と
呼ばれていた可能性はなかったことになります。
その天武朝よりずっと以前の方だからです。

ついでに言うなら、その「推古」という謚号もまた後世に贈られたものと
いうことになります。 そのあたりはそれほど拘らないにしても、
~どんな事情があって、この時期に初めての女性天皇が誕生したのか?~
この点は、ちょっと知ってみたい気分になります。

そのためには、まずはその「推古天皇」御本人のプロフィールを知って
おく必要がありそうです。
ところがこれが結構厄介なことで、とてもじゃないが筆者の歴史知識レベル
では充分な理解に及ばないほどです。

でも、そうこうするうちに、そこら辺の人物相関を理解するためには第29代・
欽明天皇(509?-571年)の息子である三人の天皇(推古天皇の前三代の天皇)
をまず登場させる必要があることが分かりました。

欽明の息子である三人の天皇とは、この方たちのことです。
○第30代・敏達天皇(538?-585年)  廃仏派であり蘇我馬子とは対立
○第31代・用明天皇(生年不詳-587年)聖徳太子の父親
○第32代・崇峻天皇(553?-592年)  蘇我馬子側に暗殺される

ところがこれだけではまだまだ意味不明ですから、さらにお二方に
追加登場していただきます。
蘇我馬子(551?-626年) 敏達・用明・崇峻・推古の時代に54年に
              わたり権勢を振るった崇仏派の大物政治家
○(後の)推古天皇(554-628年) 第29代・欽明天皇の娘であり、かつ
              第30代・敏達天皇の異母妹/敏達天皇の妻

なにッ、ちょっと落ち着きなさいよ。
そうすると夫・敏達と妻・推古は母親が違うものの「兄妹婚」ってか!
現代人はちょっとばかり驚きますが、この時代はこうした結婚形態だって
セーフだったとされています。 ホントかなぁ。

それはともかく、朝廷にとってこの蘇我馬子が「目の上のタンコブ」的な
存在だったことは容易に推察できるところです。
なにしろ四代にわたる天皇に張り付いて離れず、そればかりか自分たちに
不都合と判断したなら現役天皇(崇峻)であろうが躊躇なく排除を考える
ほどの人物ですからねぇ。

崇峻暗殺事件を受けての後継天皇、その有力候補は、
厩戸皇子(後の聖徳太子/574-622年) 用明天皇の息子で崇峻天皇の甥 
押坂彦人皇子(生年不詳-600年頃) 父は敏達天皇/反蘇我派
この二人でした。
本来なら有力候補に挙げられるはずの父・敏達天皇と母・推古の間の
息子・竹田皇子(生年不詳-587年頃?)は既に亡くなっていました。

そこで、政界大物の蘇我馬子は頭をひねります。
~我らに対抗しようなんて生意気な押坂彦人なんぞは論外、さりとて次期天皇
 が長期政権になってしまうことは絶対に避けておきたい~

つまり、厩戸皇子(後の聖徳太子)を選べば政権の長期化が懸念される
ため、馬子にとっては決して望ましい姿ではありません。

そこで、差し当たりのツナギとして敏達天皇の皇后(推古天皇のこと)を
即位させ、後継ナンバーワン候補だった厩戸皇子(聖徳太子)をその補佐役
である摂政とする人事を打ち出したのです。
こうした状況下で「史上初の女性天皇」は誕生しました。


 susyun_ansatsu_01.jpg 崇峻天皇暗殺/592年

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こうした政治手法を、ウルトラC/政治的妥協の産物/三方一両損/
いったいどんな表現が適切なのかイマイチよく分かりませんが、ともかく
日本民族が大好きな「足して2で割る」という波風の立ちにくい方法を
採ったことにはなりそうです。

しかし、こうした方法で当事者同士が妥協できたということなら、
女性トップという存在は当事者たちにとって、それほどに衝撃的な出来事
でもなかったと考えられます。

というのは、もし純粋に「史上初」の試みであり、正真正銘まったくに
「開闢以来」の出来事であったとしたなら、「当事者間の妥協」などと
いう生ぬるいまとまり方はなかったと考えられるからです。

ですから、後世の我々現代人はこの「推古女帝」の誕生を「史上初」の
こととして、いささかエポック・メーキング的な受け止め方をしていますが、
当時の人たちにとってはそれほど仰々しいことでもなかったかもしれません。
言葉をかえれば、当時には「女性トップ」なんて存在はさほどに珍しくも
なかったのではないかということです。

その点を思案するならそれはあり得ることで、戦乱続きだった倭国時代の
社会情勢を安定に導いたのは、卑弥呼(生年不明-248年?)なる女王だった
からです。
一方、崇峻天皇暗殺事件が勃発したこの時期も、かつての卑弥呼の時代と
同様に社会は不安定でした。 
なにせ「天皇暗殺事件」が起こったほどですからねぇ。

さて、女性トップという存在はこの女王・卑弥呼の時代よりさらに遡った
神話の世界にも登場しています。
天孫降臨に際して天壌無窮の神勅を宣い、さらにその後ずっと皇祖神と
して崇められ続けている天照大神、この方も女性なのです。

崇峻の後継選びにあたって、朝廷側一同はこうした一連の歴史に思いを
いたしたかもしれません。
簡単に言うなら、推古は天照大神の再来であり、蘇我馬子はかつての
賊・大国主命と同じ運命をたどるべきだという思いです。
朝廷側の内心にこうした気持ちが芽生えていたとしても決して不思議では
ありません。

また各地には、女王・卑弥呼に限らず、巫女性を強く有する女性が
支配者的な地位に就いた(女性トップ)痕跡が数多く残されています。
男性より強い霊感霊力を備えていると考えられていたからでしょう。

~生命を生み出す~ 
この神秘の極致にある霊力は女性だけが備えたものであり、残念ながら
男性は(なにがしのお手伝いはできても)その能力を持ち得ません。

さて、天皇が崩御されたのちに、その天皇の功績や人となりを勘案して
付けられるものが「諡名」というもので、推古天皇の場合なら「推古」が
それに当たります。
そして、この「推古」という諡名もそれなりに意味深なニュアンスを備えて
いるのかもしれません。

では「推古」にはどんな意味合いが?
素直に解釈すれば「古を推し量る」となり、言い換えれば、
~温故知新/古きをたずねて新しきを知る~ほどの意味になるのでしょう。

そこで、この「古き」を昔々の女王・卑弥呼、「新しき」を推古とすれば、
こう言っているとも解釈できそうです。
~(今回の)推古女帝は昔々の女王・卑弥呼の再来であった!~

要するに、
~卑弥呼が女王として君臨することで騒乱社会を収めたように、
 天皇暗殺などというトンデモな事件が二度と起こらないように社会改革
 に努めたのが推古女帝である~
 
このように解釈することもできそうな気がするのです。

ただしこれらは諡名に込めた朝廷側の見解であり、それに対峙した
蘇我馬子側の見解が反映されたものではありません。
だったら、その馬子側はこの時代をどのように受け止めていたものか?

じつは推古の即位(597年)から半世紀ほど後になって蘇我氏の大凋落が
始まり、平安時代(794-1185年?)初期には歴史の表舞台から完全に姿を
消してしまう結果を招きましたから、そこらへんのことはよくわかりません。
えぇ早い話が「死人に口なし」という状況になっているのですねぇ、これが。




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