日本史の「微妙」13 幕府と外様のネジレ相関図

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豊臣秀吉(1537-1598年)亡き後、「関ヶ原の戦い」(1600年)に勝利し、
その豊臣家を押し退ける形で実質的に天下を掌握したのは、豊臣政権の
中枢にあった徳川家康(1543-1616年)でした。
その「関ケ原の戦い」において薩摩藩は、島津家当主の弟・島津義弘
(1535-1619年)が少数の兵を率いて反家康側に立ちました。

もっとも、義弘は当初家康に味方するつもりだったようですが、しかし
根回し不足とでもいうのでしょうか、徳川軍の現地指揮官に、その申し出を
拒絶され、仕方なく豊臣側に陣を構えざるを得なくなりました。

また国許の事情もあって、率いた兵力も必ずしも十分と言えるものでは
なかったのですが、それでも義弘は勝利に向けた作戦提案に努めました。
しかし、これをにべもなく豊臣側に無視されたこともあって、すっかり
ヤル気をなくしたばかりか、とことんヘソを曲げてしまったのです。

実際両軍の激突が始まっても、義弘は陣から動こうとはしません。
やっと動きを見せたのは、家康側の勝利という情勢がはっきりしてからの
ことで、それが今に語り伝えられる「島津の退き口」です。

これは一口に言えば、義弘を脱出させるべく、味方の護衛兵を捨て石に
しつつ、徳川陣営の真っ只中を「正面突破」する壮絶極まる作戦です。
当初1600名ほどいた島津隊でしたが、無事薩摩まで戻れたものは僅かに
80名そこそこだったと伝えられています。
そうした経緯の末に義弘は奇跡的に帰国を果たしましたが、しかし
このことで逆に頭に来ちゃったのが、まんまと脱出された家康でした。

さらにこの後においても反抗的姿勢を隠さない島津家に対し、ついに家康は
九州諸大名に島津討伐軍を号令するに至りました。
しかし、考えてみれば、関ヶ原に主力を送らなかった島津家の本国には
一万を越す、しかもそれはあの壮絶極まる「島津の退き口」を演じた兵の
同僚たちで構成されているのです。
そうなると、簡単に決着が付くとは思えず、長期戦は必至の状況ですから、
さすがの家康も結局は沙汰止みにせざるを得ませんでした。

つまり、以後の薩摩藩・島津家は、幕府・徳川家にとっての
「潜在的仮想敵国」という存在になったわけです。
このことは、幕府・徳川家からすれば、もし謀反があるとするなら、
それは薩摩藩の可能性が最も高いという受け止めになります。

それと並行して幕府は、薩摩藩だけに限らず諸大名が潤沢な資金を持つ
ことを大変に警戒していました。
そうした資金が、幕府に反抗するための軍備拡張に使われたのでは
たまらないからです。

その予防策の一つとして、幕府は諸大名に対して「お手伝い」を命じる
ようになりました。
お手伝いと言っても、お買い物やお掃除ほどにお手軽なものではありません。
「御手伝普請」といって、諸大名にやたらの大金を使わせる、いわば
徳川幕府による有力藩に対する財政弱体化政策です。

そうした中でも、薩摩藩が命じられた木曽三川(木曽川/長良川/揖斐川)
改修工事(1753年/宝暦治水)は、通常の「御手伝普請」レベルをはるかに
超えた過酷なものでした。

いずれも暴れ川であるために、治水工事そのものが難工事であっただけで
なく、その裏では幕府自らが工事の妨害に出た気配も伺えたのです。
そのために、やり直しの再工事なども重なり、薩摩藩の財政が危機に瀕した
ほどでした。
工事完了後には、工事を指揮した薩摩藩家老・平田靱負(1704-1755年)が、
多くの犠牲者を生んだことと、藩財政を疲弊させた責任を取って、自害に
及んだほどでした。

幕府に対する薩摩藩の、こうした溜まりにたまったうっぷんが幕末になって
ひとつの形として現れます
江戸幕府を倒した功労者として薩摩藩の名が挙げられているのも、
そのうっぷんが爆発したものと見ていいのかもしれません。
そのため一般的には、薩摩藩は幕府に対する「関ヶ原」のリベンジを、
ここで果たしたとの見方もされるところです。


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  島津重豪/     広大院・篤姫/
 
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そのように幕府・徳川家と薩摩・島津家との間で展開された大きな衝突を
時系列に並べてみると、
「関ヶ原の戦い」(1600年)/「木曽三川・御手伝普請」(1753年)/
そして幕末期(1853-1869年)の「倒幕活動」/ こんな感じになり、
一見すれば、江戸時代の全期間を通じて、両者が心底睨み合っていた
ような印象になります。

ところがギッチョン!
意外なことに、それとは打って変わって両者が蜜月関係?だった時期も
あるのです。
お話は薩摩第8代藩主・島津重豪(しげひで/1745-1833年)に始まり
ます。
この重豪は「蘭癖大名」(オランダかぶれ)との陰口も頂戴するほどに、
新しいものに好奇心を寄せるという、この時代にはいささか珍しいタイプの
人物でした。

あろうことか、その重豪の娘(後の広大院・篤姫/1773-1844年)の
結婚相手・一橋豊千代(後の徳川家斉/1773-1841年)が、なんと
第11代将軍に就くことになったのです。
正当な後継者と見られていた、第10代将軍・徳川家治の嫡男・家基の
急逝によるハプニング的な流れだったとはいえ、幕府・徳川家すれば、
仮想敵国である外様大名の娘を将軍の正室に迎えることになります。

なにしろ、将軍と外様の娘の夫婦という運びですから、実際このことには
あれこれのスッタモンダもあったとされています。
しかし、無事婚儀(1789年)に漕ぎつけたことで、結果として
「外様大名が将軍の岳父」というなんとも奇妙な関係が出現しました。

「木曽三川・御手伝普請」の工事費膨張の責任を取って家老・平田靱負
自害したのが1755年、家斉の婚儀が1789年ことですから、これを睨めば、
人間も組織も、三十年ほどの時間が経過すれば恨み辛みなぞはすっかり
卒業できるということになるのでしょうか。

さて、幕末の名君と評された島津斉彬(1809-1858年)は、曽祖父である
重豪から随分可愛がられ育ちました。
そして結果として、曽祖父・重豪とは少なくとも二つの共通点を持つことに
なったのです。

ひとつは広く外国にも目を向けた「進取の精神」に富んでいたこと、
二つには「自分の娘を将軍の妻」に送り込んだこと。
もう少し言葉を費やすなら、斉彬の場合は第13代将軍・徳川家定
(1824-1858年)の継室に養女を送り込んだということです。
それが大河ドラマ(2008年「篤姫」)でも取り上げられた、広大院の後の
天璋院篤姫/1836-1833年)」です。

ここでも薩摩藩の娘を将軍の室に迎えているのですから、薩摩藩に対する
幕府の感情はそれほど悪いものだったとは思えません。
事実、斉彬が亡くなった後に、藩主ではなかったものの幕政に関り、
それをリードした(斉彬の異母弟)島津久光(1817-1887年)も当初は、
朝廷と幕府が協力し合い現体制を維持するように公武合体路線の実現を
熱心に模索していたほどでした。

「関ヶ原」以来の幕府・薩摩の関係は不倶戴天の敵のようにも感じられ
ますが、こうして眺めてみると、意外なことに途中からは親戚同士に
なるなど結構良好な関係を築いていることに気が付きます。

では、そうした幕府と薩摩の間の蜜月関係?がどうして崩れ、再び戦い合う
羽目に陥ったのでしょうか。
不思議と言えば不思議なことですが、その点については第15代(最後の)
将軍・徳川慶喜が抱いた疑心暗鬼にあったようです。

~久光があれこれ動いているのは自分が将軍になりたいからではないか~
要するに慶喜のこうした露骨な不信感に、ついには久光の方がプッツン
してしまい、最後には幕府の存在までをも見限ったことになります。

ひょっとしたら、幕府自身には薩摩藩に対する「後ろめたさ」が、
いつまでもつきまとっていて、そのために、最後の最後まで心底の信頼を
寄せることができなかったということなのかもしれません。




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