日本史の「付録」11 アウェイ戦は負け続け

島国日本は、内弁慶とでも言うのでしょうか、その昔から海の向こうでの
喧嘩が得意ではありません。
多少のいざこざがあろうとも、即相手を叩き潰すなんて過激な態度は、
国内でも慎重でしたから、その延長線上にあったのかもしれません。

そうした「穏やかさ」の背景には、恨みを持って死んだら怨霊となって
この世に祟るという、いわゆる「怨霊信仰」があったとも考えられます。
しかし、そうであったにせよ、海の向こうの「外国」と一線を交えるという
局面も、長い歴史の中にはあるにはありました。
たとえば「白村江の戦い」(663年)もそうした海外戦争の一つと見て
よさそうです。

6世紀から7世紀の朝鮮半島の情勢は、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立
していました。
その中で他の二国に圧迫される存在、もっと遠慮なしの表現を用いるなら
「一番弱っちい国」が新羅でした。
このようにひしめき合った半島情勢の中で、新羅が百済から攻められると
いう事態が起こったのです。
「一番弱っちい国」だったから、眼を付けられたということでしょう。

自存のために、新羅は即座に君主国であり超大国である唐に援助を求め
ました。
うかうかしていたら亡国ですから、国を守るための行動ということです。
その結果、今度は逆に唐の標的となった百済が滅亡(660年)に至り、
これも後に滅亡(668年)に至ることになる高句麗と対峙します。

要するに、唐・新羅勢力と旧百済・高句麗勢力の2つのグループが敵対する
構図になったわけですが、こうした状況で「倭国」は百済から救援要請を
受けました。

「倭国」は百済に味方すべく決意を固めました。
当時の「倭国」が、朝鮮半島に存在したかつての飛び地「任那」を通じて、
それなりの影響力を保有していたことも影響したのかもしれません。
要するに、少なからず「領土自衛」(祖国防衛)の意識も働いていたと
いうことでしょう。

そのガンバリは、朝鮮南西部における唐VS倭国のいわゆる「白村江の戦い」
を招いてしまいました。
この直接戦闘でボッコボコにやられたのは「倭国」の方でした。

どのくらいのボッコボコだったかと言えば、こんな案配までに至ったほど
でした。
後に天智天皇(626-672年)となる、敗戦国「倭」のトップは、防衛前線と
して数多の山城や水城はもちろん烽火(ノロシ台)も築き、さらには
防人(沿岸防衛軍)も配備したのです。

国土防衛政策の一環です。
それだけに留まらず、都も飛鳥から近江大津宮(現大津市)へ遷都して
いますから、飾らずに言えば、「唐の反撃」を予想して、にすっかり震え
上がってしまったということでしょう。

このまま推移すれば、この後に「新羅VS倭国」戦争が勃発して不思議で
ない状況でしたが、実際にはそうはなりませんでした、
その理由は、親百済・天智天皇が崩御し、多少のゴタゴタを経たものの、
最終的には親新羅・天武天皇への政権交代を成功させたからです。

超大国・唐からすれば、柵封体制下(子分の立場)にある新羅と仲良く
する倭国であるなら、敢えて「征伐」する必要もありません。
もっとも日本史的には、このタイミングでの「天智天皇崩御」という経緯
をいささか疑問視する向きもあって、実際「天智天皇暗殺」を主張する説も
登場しています。

ともあれ、当時はまだ「倭国」だった日本は、「白村江の戦い」という
アウェイ戦(外地戦争)にボッコボコの大惨敗を喫したわけです。

白村江の戦い01.jpg 文禄の役01.jpg
白村江の戦い(663年)/文禄の役(1592-1593年)

 既読クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



アウェイ戦(外地戦争)というなら、ずっと後の時代のことになりますが、
豊臣秀吉(1537-1598年)の二度に渡るいわゆる「唐入り」、要する
「(中国大陸)大明帝国侵攻」も、その仲間に挙げることができそうです。
歴史用語で言うなら、「文禄の役」(1592-1593年)と「慶長の役」
(1597-1598年)ということになります。

「唐入り」事業の手始めとして、まずは大陸侵攻の通り道となる李氏朝鮮
に対し服属を強要しました。
しかし、李氏朝鮮が「うん」と返事するはずもありません。
なにせ、大明帝国の柵封国(子分の国)の立場ですから、ボスの意向に
逆らうことはできないのです。

しかし日本側からすれば、この李氏朝鮮の態度はちょっとアタマにきます。
~なんだぁ、木で鼻を括ったようなその態度はッ~ということです。
というのは、あくまでも独立国である朝鮮国にも関わらず、秀吉自身は
この朝鮮国を対馬藩の属国だと信じ切っていたからです。

なんでそんな「ボタンの掛け違い」が起こったのか?
そもそもは、当の秀吉と朝鮮国の間に立って交渉役を務めた対馬藩主・
宗義智(1566-1615年)の言動に端を発しています。

この宗義智は、秀吉の意向も、明国の柵封国の立場にある朝鮮国の
立場も理解していて、両者の言い分には何らの接点もないことも充分に
承知していたので、コトの真相を伝えることなく、両者に都合の良い
ことだけを並べて話を進めていました。

簡単に言えば、
~秀吉には逆らえない、しかし朝鮮国とウチとの付き合いは続けたい~
というところから始まった宗義智の二枚舌です。
こうした誤解が誤解を生み、結果として交渉だけに留まらず、日本側の
具体的な行動として始まったのが「文禄の役」でした。

ともあれ、一番隊の宗義智と小西行長たちの釜山上陸・陥落に始まった
戦争序盤は日本側のイケイケドンドンだったようです。
ところが、子分・朝鮮国が外国(日本)軍に痛い目に遭わされている
のですから、親分・明国も押っ取り刀で参戦することになります。
放っておいたのでは、親分国としての沽券にかかわるからです。

こうなると、なにごとにつけ今までのようには順調に運びません。
戦線を広げ過ぎた日本側は、物資輸送も十分に行えなくなってしまった
ということです。 そこで、今度は休戦協定に持ち込む算段です。

秀吉本人はともかくも、この戦争に対しては、日本側も明国側もあまり
高いモチベーションを持ってはいなかったようです。
その気分は、講和交渉の両国担当者の言動にも現れています。
~秀吉は明国降伏という報告を受け、明国朝廷は逆に日本降伏との報告を
 受けていた~


なんともワケの分からない経緯ですが、ともかく明国は「降伏した」秀吉に
こう伝えました。
~日本国王の称号と金印を授けるために使節を派遣する~
怒れちゃうのは秀吉です、
~おみゃあ(お前)の方が降伏しておきながら、日本国王(明国の子分)
 の称号を与えるだとぉ。 とろくさぇえことを言っとってかんぞぉ
(馬鹿を言ってはイカンっ!)~

興奮のあまり、ついつい御国(尾張)言葉になります。

こんな経緯もあって、再開された戦争「慶長の役」でしたが、こちらとて、
あまりモチベーションンの上がる戦いではなかったことは、多少の
ごたごたはあったものの、秀吉が死んだらすぐさま終戦撤退の準備に入った
ことでもよく分かります。

要するに二つの戦争とも、緒戦の破竹の勢いはともかくとして、結果として
日本側にとっては「勝利亡き戦い」だったわけですが、しかしこのパターンは
実は昭和の戦争(太平洋戦争/1941-1945年)でも再現されているのです。

緒戦の「真珠湾攻撃」(1941・12月)では、日の出の勢いだったものが、
半年も経たない「ミッドウェー海戦」(1942・06月)で大惨敗を喫し、
以降はジリ貧の濃度を次第に強めながら推移し、アメリカ軍による原爆投下、
ソ連軍による対日参戦によって息の根を止められた格好になりました。

こう見てみると、歴史的にも対外戦争が下手、要するに
~アウェイ戦は負け続け~なのが日本国なのかもしれません。
そうした点の歴史教育が注目されるなら、将来の日本が自らの手で対外戦争
を引き起こすリスクは、おそらくは、とっても小さいものになるのでしょう。


 既読クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



--直近の記事------------------------
596 日本史の「ライバル」03 源氏と平家は好対照物語
   とっても違う源平物語
595 日本史の「忘れ物」28 歴史人物だって浮き沈む
   往年の大スター今マイナー
594 日本史の「異国」07 朱と黒の幕末意地っ張り
   分かり合えない譲れない
593 日本史の「世界標準」26 国際派?KOBANの知名度
   交番制度に世界が注目?
592 日本史の「トホホ」28 大没落に遭遇した管領家
   名家を襲った下剋上の波
591 日本史の「アレンジ」20 草書風な五十三次宿場町
   名称にも草書はある?

"日本史の「付録」11 アウェイ戦は負け続け" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント