日本史の「事始め」18 だから不比等はミステリー

「藤原」姓は、中大兄皇子(後の第38第・天智天皇/626-672年)に協力し、
  後の国家改造を導くことになった中臣鎌足(614-669年)に下賜された~ 
通説ではこのように「藤原氏」の始祖は鎌足と説明されることが多いのですが、
しかし、その鎌足の子である「藤原不比等」(659-720年)と事実上の家祖と
見る向きもあります。
鎌足に下賜されたのがなんと「死の前日」・・・このあまりに劇的なタイミングに
いささか眉唾チックな雰囲気を感じてしまうということかもしれません。

まあしかし、ホントの家祖がどちらであるにせよ、この後の時代に披露される
「藤原氏」子孫の大栄華には、他の家には到底望めないほどの圧倒的な
迫力があったのは事実です。
最も分かりやすい例を挙げるなら、この不比等の時代よりほぼほぼ300年後
の子孫・藤原道長(966-1028年)の頃の「一家立三皇后」がまさにその通りで、
ざっとこんな案配です。
第68代・後一条天皇(1008-1036年)の際には、太皇太皇(長女・彰子)、
皇太后(次女・妍子)、皇后(三女・威子)の三人の各皇后全員を道長の娘で
独占・・・こんな離れ業を披露したのです。

しかし、その点はさすがに家祖の立場にある者の貫禄で、不比等も負けず
劣らずの実績を示しているのです。
第40代・天武天皇亡き後の天皇の座は、その皇后が第41代・持統天皇
(645-703年)として即位しました。
これは、後継適任者を定めることができなかったために、緊急避難的に
持統自らが即位するハメになったものですから、つまりはその政権地盤は
お世辞にも盤石とは言えないものでした。

そんなところへ不比等が。
~ワタシなら少しはお役に立てましょうほどに~
こうしたことで、持統+不比等の二人三脚スタイルの政権運営が始まった
ようです。

不比等のこうした申し出をスンナリ受け入れてしまった持統天皇の姿勢には
なにかしら用心深さに欠けた印象も受けるところですが、よくよく考えてみれば
必ずしもそうとは言い切れません。

なぜなら、持統天皇には第38代・天智天皇(626-672年)の娘という事実が
あり、また一方の不比等の出自に対しても、こんな認識があったからです。
~不比等のホントの父親は鎌足ではなく天智天皇~
もしそれが事実なら、二人の関係は母親違いの姉と弟ということになります。
ですから、赤の他人同士がタッグを組むことに比べれば、互いにそれ以上の
信頼感・親近感を覚えたとしても不思議ではありません。

ただ、持統は後継者作りには大変な苦労を強いられました。
その原因はといえば、天武・持統夫妻の長男・草壁皇子(662-689年)が、
皇太子のまま若くして亡くなってしまったことが挙げられます。
そのために、持統は孫(草壁の子)が成長し即位するまで、隠居抜きで
頑張らなければならなかったわけです。

その努力?は、第41代・持統から第42代・文武つまり祖母から孫への
継承という形を実現することで実を結びましたが、この辺りの経緯が
神話「天孫降臨」のモデルになっているとの指摘もあります。
ちなみに、「天孫降臨」とは、祖母・天照大神の命を受けて、男孫の
ニニギが高天原から日向国に天降ったこと、つまり、これも祖母から孫への
継承ですから、お話の構成は確かにソックリです。

この「祖母から孫へ」、要するに持統→文武への継承成就に際しても
不比等の尽力・功績は並々ならぬものがあったようです。
なぜそんなことが分かるかといえば、文武天皇が即位した直後になんと
当の不比等の長女である宮子(生年不詳-754年)が夫人
(天皇の妻で皇后・妃に次ぐ地位)となっているからです。

そしてこの文武天皇・宮子夫人の間に生まれたた皇子が後の第45代・
聖武天皇(701-756年)となり、さらに付け加えるなら、この聖武天皇の妻が
また、その宮子の異母妹(不比等の三女)に当たる藤原光明子(701-760年)
という構図になっています。

このとてもややこしい相関図を、不比等から見ればこんな景色になります。
~長女・宮子は第42代・文武天皇の夫人、三女・光明子は文武の子である
  第45代・聖武天皇の妻~


藤原不比等51 光明皇后01












(天皇御落胤?)藤原不比等/(非皇族初)光明皇后

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もっとも、不比等自身が「聖武天皇」を見ることは叶いませんでした。
聖武即位(724年)より、不比等死去(720年)の方が数年早かったからです。
ところが、家祖の死去という事態こそ招いた後も、「藤原家」の栄華に
陰りが出ることはありませんでした。

まず、不比等の息子たちの堅い結束が「史上初」の境遇?を誕生させて
います。 ちなみに、「藤原四兄弟」とは、
長男・武智麻呂(むちまろ/680-737年)
次男・房前(ふささき/681-737年)
三男・宇合(うまかい/694-737年)
四男・麻呂(まろ/695-737年) この四人を指しています。
(要注意:兄弟四人全員が同じ年に亡くなっているゾ)

彼らはいったい何をしたのか?
それはなんと、聖武天皇の妻に収まっていた不比等の娘・光明子を「皇后」
の座に就けることでした。
それまで皇族以外の女性が皇后になったことはありません。
(言うまでもありませんが、男性はもちろんのことです)

それはある意味当然で、直前では第41代・持統天皇(天武天皇の皇后)が
その通りだったように、状況によっては皇后が皇位を継承するケースも
考えられるからです。

要するに「非皇族出身者」の皇后とは、言葉を変えれば、同時に
「非皇族出身・女帝」を誕生させるリスクも背負っているわけで、その場合
「万世一系」の大鉄則すら崩壊させる危険性までもを包含していることに
なります。
ですから、「皇族以外の皇后」が認められることは一切ありませんでした。

ところが、イケイケドンドンの真っただ中にある藤原家の藤原四兄弟は
このタブー?への挑戦を目論んだのです。
スムーズな皇位継承がない場合などには、皇后が時即位することによって、
なんと「藤原家天皇」が誕生させることだって夢ではなくなるのですから、
ダメ元でチャレンジしても何らの損もありません。

しかし、この藤原氏のゴリ押しには、皇族側とて当然反対します。
その急先鋒が「長屋王」(ながやおう/684?-729年)でした。
~そうした事情から(藤原)光明子を「皇后」にすることはワシは認めんゾ!~
ところがギッチョン。
一皇族のこんな言葉にひるむような藤原四兄弟ではありません。

そんなもん、即座に逆襲!
罪をデッチ上げることで、長屋王を自殺にまで追い込んだのです。
さて、この後を「紙芝居」風に語るなら、光明皇后の誕生、長屋王の祟り、
四兄弟の連続死、聖武天皇の気鬱、奈良の大仏建立へと、波乱万丈の
お話へとなだれ込んでいくのですが、ただ、こうした出来事は単発的に
起こったものではなく、それぞれが因果関係が強く絡み合っている事実は
強調しておく必要があるかもしれません。

しかし、そこら辺のお話はまたのお楽しみとしてとっておくことにしましょう。
えぇ、筆者は本性的には結構ケチなんですねぇ、これが。

それはともかく、こうした一連の経緯を眺めてみると、藤原道長の頃の
「一家立三后」も確かに破天荒な出来事には違いないものの、それより
300年も前のとっくの大昔の時代に、すでに自分の娘二人を二代の天皇に
嫁がせていた家祖・藤原不比等の動きには何かしら超人めいたものすら
感じさせられます。

そうした行動の大胆さを考慮に入れた上で、その出自について考えれば、
やはり~不比等のホントの父親は鎌足ではなく天智天皇~だったのかも
しれません。
少なくとも、当時の人々がそう受け止めていたフシは感じられるところです。

なぜなら、その息子たち「藤原四兄弟」自身が、現役皇族を死に至らしめると
いう相当に荒っぽい手段を駆使して、史上初めての「非皇族出身の皇后」を
誕生させているのです。
いかに元気溌剌だったとしても、所詮「新興勢力」という立場であったなら、
そこまで大それたことは到底できなかったように感じられるからです。



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