日本史の「異国」13 発明電話機と最初の日本語
明治の改暦(明治6年1月1日)より以前の元号で表記すると、いささか
煩雑な印象になりそうなので、ここでは西暦での日付を優先します。
さて、明治新政府によって1871年から2年間にわたって欧米諸国に派遣された
使節団には、海外諸国の富強をつぶさに視察し、兼ねて国力の発展に寄与
すべく使命も与えられていました。
右大臣・岩倉具視(1825-1883年)を全権大使としたことで、「岩倉使節団」
とも称されましたが、木戸孝允(1833-1877年)、大久保利通(1830-1878年)、
伊藤博文(1841-1909年)ら新政府の中心人物が副使として、さらには
当時の指導的な官僚らが多く加わることになりました。

岩倉使節団 左から)木戸孝允 山口尚芳 岩倉具視 伊藤博文 大久保利通
使節団の総数は 108人に上り、うち 48人が官員、ほかにも幼年女子(今で
いうローティーン年代)を含む 54人が留学生として加わっていました。
念のために、その幼年女子たちの名前も少しだけ挙げておくと、
○津田梅子(1864-1829年) → 後に津田塾大学創立者
○山川捨松(1860-1919年) → 後に大山巌(西郷隆盛の従弟)と結婚。
○永井しげ子(1861-1828年) → 20年以上にわたって音楽と英語を講じた
キャリアウーマン。後に瓜生男爵と結婚。
そうした留学生に中に旧福岡藩主・黒田長知(1839-1902年)の顔もありました。
当時30歳代の壮年でしたが、何しろつい半年前までは五十万石の殿様だった
こともあって、単身留学ともいかず、お小姓が付きました。
その役目に選ばれたのが、金子堅太郎と団琢磨でしたが、但し、アメリカ
到着までの時限的?お小姓ということだったようです。
ちなみに、その二人についてもちょっと触れておくと、
○金子堅太郎(1853-1942年) → 後に司法大臣、枢密院顧問。
○団琢磨(1858-1932年) → 後に三井財閥の総帥。
アメリカに着いてからの留学生は、男は主にボストン、女は主にワシントンを
拠点にすべく分かれましたが、いずれにせよ多感な年代ですから、遥か日本を
離れた異国の環境に馴染むことができず、帰国を余儀なくされた事例もあった
ようです。
当時は、現代のように溢れるほどの情報に恵まれた環境ではなかったので、
年端のいかぬ留学生の中には、宇宙の果てに来てしまったような寂寥感を
抱き込んでしまった者もいたのかもしれません。
突然ですが、お話は、彼ら留学生がボストンで四年目を迎えた時期へと
ワープします。
金子はハーバート大学へ入って法律を修め、一方の団は「別の学校」で
鉱山学を修めたのですが、その「別の学校」の名前が、
~マサチューセッツ・インスチチュート・オブ・テクノロジー~
筆者だけでなく、当時の現地の人たちもこの名称を長すぎると感じたものか、
通称「ボストン・テク」と呼ばれたそうです。
そして、この当時この学校で教授をしていたのが、アレクサンダー・グラハム・
ベル(1847-1922年)でした。
えぇ、電話の発明者として有名な、あのベルです。
明治維新直後の「遣欧米使節団」と、文明の利器ともいうべき電話を発明
したベルの活躍の時期が重なっているなんて、ちょっとばかり意外にも
感じられますが、この時の日本人留学生とベル自身がバッチリ協力し合った
出来事があったのです。
さて、以下は、歴史に一家言を持つ作家・海音寺潮五郎(1901-1977年)の
とある随筆による内容であることを、前もってお断りしておきます。
それによれば、ベルが電話を発明して、その発表と実験をボステン・テクの
研究室で行うことになった・・・とされています。
これは凄いことになったぞ。
この成り行きにメッチャ心躍らせた団が、留学生仲間にも「ぜひ見に来る
ように」と触れを回したこともあって、日本人留学生ばかりでなく
アメリカの学生や市民までもが、ボストン・テクの研究室に集まるという
大変な盛会になりました。
発明者であるベル本人は、当時まだ32歳。
で、会場に集まった人々に向かって、まず初めに、電気振動の起こる原理
とか、さらには音波を電気振動に変える装置についても解説したのです。

アレクサンダー・グラハム・ベル / 最初の電話機
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雄弁であり比喩も適切で大変に明快な説明でしたが、ところが工学関係の
学生以外にはチンプンカンプンだったようです。
何しろ人類が初めて見、そして知る物なのですから、無理もありません。
そこでベルは、次のステップである実験へと進みました。
講堂の端から端まで電線を張り送話器と受話器を設置し、
~やってみたいという希望者がいたら、出て欲しいのですが~
日本人の中から真っ先に飛び出したのが、伊沢修二(1851-1917年)でした。
後に近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者と称された人物です。
金子堅太郎がそれに続きました。
この時に、会場から「やあ、ジャパニーズ、しっかりやれ」との声援?も飛び出し、
笑い声が渦を巻いたそうです。
このことについて、海音寺はこう言っています。
~後年、米国人は腹黒い政治家の扇動によって、日本人を排斥し、
毛ぎらいするようになったが、この頃までは東洋のけなげな行進国民と
して、非常な愛情を以って日本人を見ていた。
だから、この叫びも悪意あるものではなかった。~
そんな雰囲気の中で、金子は送話器に口を近づけ、受話器を耳にあてました。
受話器に口を近づけ、送話器に耳をあてたのではなかったところは、
さすがに留学生です。 すると、受話器から忽ち声が聞こえたのです。
「ハロー、ハロー」
間違いなしに伊沢の声だと分かった金子は、今度は自分から呼びかけて
みました。
「ハロー、ハロー、ベリ・グッド、ミスター・イザワ」
よほどの感動だったのでしょう。
以後は、その電話機で興奮気味な日本語が繰り返されました。
伊沢「ふしぎだ、ふしぎだ、実によく聞こえる」
金子「伊沢、この機械はすばらしいぞ。 日本語も聞こえるぞ。
君のひとりごとがはっきり聞こえたぞ」
伊沢「おお、おお、ほんとだ。 君の日本語も聞こえるぞ。
はっきり聞こえるぞ」
この興奮冷めやらぬやり取りに、日本人留学生たちは大いに盛り上がり、
どっと吹き出し、たとされています。 そりゃあ、そうかもしれません。
人間の話し声が電線を伝って離れた場所に届いたのですから。
ところが、興奮気味だったのは日本人留学生だけで、会場はすぐ静かに
なったそうです。
この実験の結果に驚いてしまったのか、会場の人々は声を挙げることも
忘れたように厳粛な顔つきになってしまったからです。
その意味でも、これがまごうことなき歴史的な瞬間だったことは間違い
ありません。
ちなみに、金子は後年になって発明者・ベルから、こんな説明を受けた
ことを述懐しています。 ベルはこう言ったそうです。
~えぇかね、アンタたちが行ったことは、英語以外での電話通話としては
初めてのことだったのですよ。~
ことのついでですから、もうひとつ、「ちなみに」を並べておくことに
しましょう。
こんな文章を見つけたのです。
~1876年にアメリカのグラハム・ベルにより世界初の実用的な電話機が
発明された。
日本へは1877年(明治10)にアメリカから輸入されたのが最初であり、
1878年には国産第1号機が試作されている。~
えぇ、つまり、発明の翌々年には、日本国内で電話機国産機試作が
始まっていた、ということです。
なにやら戦国時代の「鉄砲伝来」を彷彿とさせるお話です。
こちらも確か、伝来の翌々年くらいには国産品が登場していましたものねぇ。
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使節団には、海外諸国の富強をつぶさに視察し、兼ねて国力の発展に寄与
すべく使命も与えられていました。
右大臣・岩倉具視(1825-1883年)を全権大使としたことで、「岩倉使節団」
とも称されましたが、木戸孝允(1833-1877年)、大久保利通(1830-1878年)、
伊藤博文(1841-1909年)ら新政府の中心人物が副使として、さらには
当時の指導的な官僚らが多く加わることになりました。
岩倉使節団 左から)木戸孝允 山口尚芳 岩倉具視 伊藤博文 大久保利通
使節団の総数は 108人に上り、うち 48人が官員、ほかにも幼年女子(今で
いうローティーン年代)を含む 54人が留学生として加わっていました。
念のために、その幼年女子たちの名前も少しだけ挙げておくと、
○津田梅子(1864-1829年) → 後に津田塾大学創立者
○山川捨松(1860-1919年) → 後に大山巌(西郷隆盛の従弟)と結婚。
○永井しげ子(1861-1828年) → 20年以上にわたって音楽と英語を講じた
キャリアウーマン。後に瓜生男爵と結婚。
そうした留学生に中に旧福岡藩主・黒田長知(1839-1902年)の顔もありました。
当時30歳代の壮年でしたが、何しろつい半年前までは五十万石の殿様だった
こともあって、単身留学ともいかず、お小姓が付きました。
その役目に選ばれたのが、金子堅太郎と団琢磨でしたが、但し、アメリカ
到着までの時限的?お小姓ということだったようです。
ちなみに、その二人についてもちょっと触れておくと、
○金子堅太郎(1853-1942年) → 後に司法大臣、枢密院顧問。
○団琢磨(1858-1932年) → 後に三井財閥の総帥。
アメリカに着いてからの留学生は、男は主にボストン、女は主にワシントンを
拠点にすべく分かれましたが、いずれにせよ多感な年代ですから、遥か日本を
離れた異国の環境に馴染むことができず、帰国を余儀なくされた事例もあった
ようです。
当時は、現代のように溢れるほどの情報に恵まれた環境ではなかったので、
年端のいかぬ留学生の中には、宇宙の果てに来てしまったような寂寥感を
抱き込んでしまった者もいたのかもしれません。
突然ですが、お話は、彼ら留学生がボストンで四年目を迎えた時期へと
ワープします。
金子はハーバート大学へ入って法律を修め、一方の団は「別の学校」で
鉱山学を修めたのですが、その「別の学校」の名前が、
~マサチューセッツ・インスチチュート・オブ・テクノロジー~
筆者だけでなく、当時の現地の人たちもこの名称を長すぎると感じたものか、
通称「ボストン・テク」と呼ばれたそうです。
そして、この当時この学校で教授をしていたのが、アレクサンダー・グラハム・
ベル(1847-1922年)でした。
えぇ、電話の発明者として有名な、あのベルです。
明治維新直後の「遣欧米使節団」と、文明の利器ともいうべき電話を発明
したベルの活躍の時期が重なっているなんて、ちょっとばかり意外にも
感じられますが、この時の日本人留学生とベル自身がバッチリ協力し合った
出来事があったのです。
さて、以下は、歴史に一家言を持つ作家・海音寺潮五郎(1901-1977年)の
とある随筆による内容であることを、前もってお断りしておきます。
それによれば、ベルが電話を発明して、その発表と実験をボステン・テクの
研究室で行うことになった・・・とされています。
これは凄いことになったぞ。
この成り行きにメッチャ心躍らせた団が、留学生仲間にも「ぜひ見に来る
ように」と触れを回したこともあって、日本人留学生ばかりでなく
アメリカの学生や市民までもが、ボストン・テクの研究室に集まるという
大変な盛会になりました。
発明者であるベル本人は、当時まだ32歳。
で、会場に集まった人々に向かって、まず初めに、電気振動の起こる原理
とか、さらには音波を電気振動に変える装置についても解説したのです。
アレクサンダー・グラハム・ベル / 最初の電話機
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学生以外にはチンプンカンプンだったようです。
何しろ人類が初めて見、そして知る物なのですから、無理もありません。
そこでベルは、次のステップである実験へと進みました。
講堂の端から端まで電線を張り送話器と受話器を設置し、
~やってみたいという希望者がいたら、出て欲しいのですが~
日本人の中から真っ先に飛び出したのが、伊沢修二(1851-1917年)でした。
後に近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者と称された人物です。
金子堅太郎がそれに続きました。
この時に、会場から「やあ、ジャパニーズ、しっかりやれ」との声援?も飛び出し、
笑い声が渦を巻いたそうです。
このことについて、海音寺はこう言っています。
~後年、米国人は腹黒い政治家の扇動によって、日本人を排斥し、
毛ぎらいするようになったが、この頃までは東洋のけなげな行進国民と
して、非常な愛情を以って日本人を見ていた。
だから、この叫びも悪意あるものではなかった。~
そんな雰囲気の中で、金子は送話器に口を近づけ、受話器を耳にあてました。
受話器に口を近づけ、送話器に耳をあてたのではなかったところは、
さすがに留学生です。 すると、受話器から忽ち声が聞こえたのです。
「ハロー、ハロー」
間違いなしに伊沢の声だと分かった金子は、今度は自分から呼びかけて
みました。
「ハロー、ハロー、ベリ・グッド、ミスター・イザワ」
よほどの感動だったのでしょう。
以後は、その電話機で興奮気味な日本語が繰り返されました。
伊沢「ふしぎだ、ふしぎだ、実によく聞こえる」
金子「伊沢、この機械はすばらしいぞ。 日本語も聞こえるぞ。
君のひとりごとがはっきり聞こえたぞ」
伊沢「おお、おお、ほんとだ。 君の日本語も聞こえるぞ。
はっきり聞こえるぞ」
この興奮冷めやらぬやり取りに、日本人留学生たちは大いに盛り上がり、
どっと吹き出し、たとされています。 そりゃあ、そうかもしれません。
人間の話し声が電線を伝って離れた場所に届いたのですから。
ところが、興奮気味だったのは日本人留学生だけで、会場はすぐ静かに
なったそうです。
この実験の結果に驚いてしまったのか、会場の人々は声を挙げることも
忘れたように厳粛な顔つきになってしまったからです。
その意味でも、これがまごうことなき歴史的な瞬間だったことは間違い
ありません。
ちなみに、金子は後年になって発明者・ベルから、こんな説明を受けた
ことを述懐しています。 ベルはこう言ったそうです。
~えぇかね、アンタたちが行ったことは、英語以外での電話通話としては
初めてのことだったのですよ。~
ことのついでですから、もうひとつ、「ちなみに」を並べておくことに
しましょう。
こんな文章を見つけたのです。
~1876年にアメリカのグラハム・ベルにより世界初の実用的な電話機が
発明された。
日本へは1877年(明治10)にアメリカから輸入されたのが最初であり、
1878年には国産第1号機が試作されている。~
えぇ、つまり、発明の翌々年には、日本国内で電話機国産機試作が
始まっていた、ということです。
なにやら戦国時代の「鉄砲伝来」を彷彿とさせるお話です。
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