日本史の「災難」17 ウップン全開放の箇条書き

平手政秀(1492-1553年)は、尾張の虎とも呼ばれた織田信秀(1511-1552年)
と、その嫡男・信長(1534-1582年)の二代に仕えた人物でした。
ところが信秀が死ぬと後を追うように自刃しています。

その理由については、
○信秀亡き後の織田家の派閥争いが原因
○後継者となった信長とは以前から反りが合わなかった
○その若殿・信長のあまりのうつけぶりを諫めるため
など諸説あるようですが、いずれも確実なものとはされていません。


 sakuma_nobumori_01.jpg 佐久間信盛 

その平手政秀死後の織田氏家臣団を、筆頭家老として率いることになったのが、
これまた先代・信秀の代から仕えている佐久間信盛(1528?-1582年)でした。
信盛には、信秀死後の信長とその弟・信行(信勝/生年不詳-1557年)との
家督争いの中で明確な信長支持の姿勢を打ち出しばかりか、反対派の一部を
寝返らせるという手柄もあったのです。

さらには、その「稲生の戦い」(1556年)においても信長方の武将として戦い、
その功によって信長の厚い信任を得、以後家臣団の筆頭格の地位を占める
ことになりました。
また戦においては、殿軍の指揮を得意としたことで「退き佐久間」とも謳われた
ようです。

ちなみに、この殿軍(しんがりぐん)とはこう説明されています。
~敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。
 そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の
 追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。
 このため古来より武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきた~


つまり、佐久間信盛その人もまた~武芸・人格に優れた武将~だったという
ことです。
ですから、信長最大の敵となった石山本願寺に対する包囲戦(石山合戦
1570-1580年)においても当然のことのようにその中心的な立場に就きました。

三河・尾張を初めとする七カ国の軍勢を配下に収めたこの信盛軍団が、当時の
織田家中で最大規模を誇っていたのです。
ところがその石山本願寺に対し、信盛は積極的な攻勢に出ることはありません
でした。
そのため、戦線は膠着した状況が続くことになってしまったのです。

ただ、その間にも紀州征伐(1577年)や信貴山の戦い(松永久秀討伐/1577年)
にも織田軍の部将として出陣もしていますから、なにもヒマにしていたわけ
ではありません。

そして、朝廷を仲介役とすることでようやくのこと信長と石山本願寺との間に
和睦が成立したのが1580年のこと。
同年に石山本願寺トップ・顕如(1543-1592年)が退去した後に、信長が現場・
石山本願寺を見分したのは当然のことです。

ところがここにおいて信長は、石山本願寺攻めの責任者である佐久間信盛と
その補佐を担った信盛の子・信栄(1556-1632年)に対して十九ヶ条にも及ぶ
折檻状を自筆で書き上げ、その激しい怒りをぶつけたのです。

普通に「頭にきた」だけなら言葉で済みます。
また一つや二つ程度の叱責なら、これもまた口頭で伝えれば済むお話です。
ところが、わざわざ書面(文字)にして、しかも十九ヶ条にもわたる譴責をした
のですから尋常な成り行きではありません。


 sekkan_19jyou_01.jpg
 十九条の折檻状 

 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



では、十九ヶ条もの叱責で、信長はいったいなにを言っていたのか?
少し見てみましょう。
その根底に信長の無念の気持ちがあったことは間違いありません。

なぜなら十年余も戦ったのにかかわらず、勝利を収めるどころか、朝廷の仲介
を得る形でやっとのこと和睦に持ち込んだのですから、天下人を目指す信長に
とってはメンツまるつぶれです。
ですから、この時の信長がメッチャ大きな屈辱感を抱えていたとしても不思議
ではありません。

その折檻状にはこんな意味のことも書いています。
文字を連ねた文章よりは話し言葉の方が分かりやすいでしょうから、信長が
日頃使っていたであろう尾張弁にアレンジしてみました。

~おみゃあ達(佐久間父子)は七ケ国からの与力を付けられながら、眼前の敵で
 ある本願寺と合戦をするでもあれせんし、さりとて調略を用いるでもあれ
 せんし、ただただ守りに徹し己の蓄財に励んどっただけだがや~

頭に血が上っていますから、表現が露骨になります。

職務怠慢の判定を下すために、比較する対象として佐久間信盛の同僚たちの
活躍にも触れています。
~えぇきゃあ、おみゃあ(佐久間信盛)の同僚たちの働きをみてみやあ。
 明智光秀(1528-1582年)は丹波平定で、羽柴秀吉(1537-1598年)は中国方面で、
 池田恒興(1536-1584年)は花隈城(兵庫県)攻略、柴田勝家(生年不明-1583年)
 なら加賀平定と、それぞれがどえりゃあ精を出しとっただろうにッ!~


つまり、
~それに比べたら、その間のおみやぁ(信盛)はどえりゃあサボっとったがや!~
という叱責です。 
ところがよほど腹に据えかねたものがあったのか、叱責はこれだけではなく、
何年も以前の出来事にまで遡っています。

~「三方ケ原の合戦」(1572年)の折には、自軍から一人の討ち死にも出さんよう
 にと図って味方を見殺しにしてまったろうが。 
 そればっかではあれせんでぇ。
 朝倉攻め(1573年)の際には、おみやぁ(信盛)を説教したワシに口答えを
 返しやがったことも、ワシは全然忘れとれせんぜぇ~


ちなみに、この「口答え」とは以下の経緯を言っています。
この朝倉攻めの際、家臣たちに対して朝倉を逃がさないように厳命していた
信長は、朝倉軍が撤退したときの先陣の追撃が遅れたことを叱責しました。

この時に、自らの落ち度を認めたものか、柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・
羽柴秀吉ら先陣の諸将らは謹んで陳謝したのですが、ひとり信盛だけは涙を
流しながら弁明しました。
~そのように言われましても、我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれ
 ますまい~


要するに、
~我々のような優秀な家臣団でも成し得なかった事案なのだから、
 殿の要求の方が高すぎる~
という気持ちを滲ませての言葉でしょう。
その時の信長は信盛のこの発言を不問の形としましたが、実際には相当アタマ
へ来ていたようです。

なぜそんなことが分かるかといえば、七年も前のこのやりとりを蒸し返し、
今回の「十九ケ条の折檻状」に改めて書き記しているからです
手元に届いたこの折檻状を目にした佐久間父子が驚愕するのは当然です。

信盛は畿内方面軍・軍団長と筆頭家老の地位を捨て、早々に嫡男・信栄と
少数の郎党達らと共に高野山へと上りました。
実質的な失脚であり織田家追放です。

しかし、信長のこのやり方は、自身が天下の主であることをアピールするには
有効だったでしょうが、長期的に見ればマイナスの方が大きかったのかも
しれません。
というのは、長年の家臣たちの気持ちに大きな影響を与えたとも思われるから
です。

~一旦不興を買えば、殿(信長)はそれを生涯根に持つのだ~
それだけではありません。 自分の立場から言えばこうなります。
~自分に些細な落ち度でもあろうものなら、それは決してリセットされる
 こともなく死ぬまでついて回るものなのだ~


30年もの長きに渡って筆頭家老を務めた佐久間信盛ですらツルの一声で追放
されたのだからから、その立場にない平の家臣などなら、さっぱり殺されて
しまうかもしれない。
このような受け止めになっても不思議ではありません。

事実、羽柴秀吉などは、あまりテキパキと進めると却って機嫌を損ねてしまう
のではないかと危惧したものか、中国攻め(1577-1582年)では最終段階になって、
信長に対して援軍を要請しています。
睨まれないための、秀吉なりのヨイショ・気配りだったかもしれません。

この辺りは秀吉の器用さの現れと言えそうですが、明智光秀のその点の受け止め
はまた別で、
~些細な落ち度でも、殿(信長)の場合は時効もなければ弁明も通用するもの
ではない~
 こうした思いを心の奥底に沈殿させたことも考えられます。

つまり、数年後に起きた主君・織田信長に対する家臣・明智光秀の謀反
「本能寺の変」(1582年)の遠因の一端は、案外、佐久間信盛父子に対して
放ったこの「十九ケ条の折檻状」にあったかもしれないということです。
えぇ、この折檻状から光秀の謀反まで、わずか二年のことですからねぇ。




 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



--直近の記事---------------------------
709 日本史の「数字」08 お歴々は五世孫を主張した それが正統性の限界か
708 日本史の「微妙」18 五つ金と五つ輪の四方山話 万葉集と五輪の金銀銅
707 日本史の「列伝」15 鎌倉後継将軍たちの履歴書 嫡流から摂家や親王へ
706 日本史の「忘れ物」30 日本製ワクチン出遅れる 細菌戦争に直結する?
----------------------------------
ヤジ馬の日本史~超駄級・700記事一覧~ №601-699編 貧乏ヒマな史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・600記事一覧~ №501-599編 だがしか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・500記事一覧~ №401-499編 満腹握りめ史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・400記事一覧~ №301-400編 颯爽ろくでな史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・300記事一覧~ №202-299編 堂々肩すか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
----------------------------------

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント