日本史の「列伝」15 鎌倉後継将軍たちの履歴書

鎌倉幕府の歴代将軍についての筆者の知識といえば、
~初代将軍には源頼朝が就き、続く第二代、第三代までは頼朝の嫡流。
 それが途絶えた以降は頼朝夫人の北条政子及びその実家である北条家が
 幕府の実権を掌握した~
 
せいぜいがこの程度のことで、言葉を換えるなら第四代以降の将軍については
「何も知らんゾ」という有様でした。

ところが、たまたまのことWikipedia「鎌倉将軍一覧」の項目に突き当たり、
そこでヒマつぶしも兼ねてその内容をチラ見していたところ、いわゆる
「鎌倉時代」(1185-1333年)における歴代将軍がこんな具合に整理されて
いたのです。


 fujiwara_yoritune_01.jpg 第四代将軍・藤原頼経

表記項目は、代数/名前/在任期間/通算年月/備考/の順になっています。
初代/源 頼朝/1192~1199年/06年06月/河内源氏
二代/源 頼家/1202~1203年/01年02月/頼朝嫡男
三代/源 実朝/1203~1219年/15年04月/頼朝嫡出次男

四代/藤原頼経/1226~1244年/18年03月/藤原氏九条家
五代/藤原頼嗣/1244~1252年/07年10月/頼経の子

六代/宗尊親王/1252~1266年/14年03月/88代後嵯峨天皇の子
七代/惟康親王/1266~1289年/23年02月/宗尊親王の嫡男
八代/久明親王/1289~1308年/18年10月/89代後深草天皇の子
九代/守邦親王/1308~1333年/24年09月/久明親王の子

あれぇ、するってぇと、こういうこと?
一・二・三代までが頼朝の血統、四・五代の二人が摂家(九条家)出身、
そして六・七・八・九代の四人が皇族出身。 

幕府創立者である頼朝の血統は、三代・実朝が暗殺されたことによって絶えた
わけだから、その後の血筋が変わることは理解できます。
でも、なんで摂家(摂政関白に任じられる家柄)・九条家へ? 

この疑問はそれほど突飛なものでもないでしょう。
なぜなら、何も摂家の人物でなくても、武家政権らしく武家の側から選ぶ
方法もあったと思うからです。

実は、三代将軍・源実朝が暗殺された後の幕府は、次なる将軍に皇族を迎え
ようとしました。 
そこには将軍という存在に対して箔を付けたいとする気持ちも働いたのかも
しれません。
ところが、後鳥羽上皇はこれをきっぱりと拒否しました。
~そんなことに朝廷の権威や血統を利用されてたまるものか~
といったところでしょうか。

そのために幕府はやむなく初代将軍・源頼朝の同母妹・坊門姫の孫にあたる
2歳の頼経を鎌倉に迎え入れました。
しかし、なにせ赤子将軍ですから、その後数年間は頼朝の妻だった北条政子
が尼将軍もどきに将軍職の代行をすることになります。
しかし、その赤子将軍の座は必ずしも安定したものにはなりませんでした。

幕府執権である北条義時(1163-1224年)と政子(1157-1225年)の姉弟が
担ぎ挙げた傀儡将軍にすぎなかったため、その義時と政子が相次いで死去した
後も、執権の座は当然のように義時の子・北条泰時(1183-1242年)と
その叔父・時房(義時の異母弟/1175-1240年)に引き継がれていきました。
この場合の執権とは、幕府の最高統括者と理解してもいいのでしょう。

さて、その四代赤子将軍・頼経も年齢を重ね官位を高めていくにつれ、次第に
反執権の姿勢を鮮明にし始めます。
傀儡からの脱皮を模索したということでしょうか。
ところが、そうした動きをみせたことで執権・北条経時(1224-1246年)との
関係は悪化し、結局は将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされることになります。 
執権の方が将軍より強い権力を持っていたということです。

父・頼経の後を受けて五代将軍に就任したのはわずか6歳の子・頼嗣(1239-
1256年)でした。
父・頼経が失脚(1246年)した後も頼嗣は将軍として鎌倉に留まりましたが、
ところがそれから5年も経ってのこと、父・頼経が他の謀叛事件にも関係して
いたとして、幕府は後嵯峨上皇の皇子・宗尊親王(1242-1274年)を六代新将軍
に迎えるべく決定します。

要するに、執権・北条家が今後の方針をこう結論づけたということでしょう。
~摂家将軍はいささか幕府に反抗的だったので、今度は親王将軍でいこう~
幕府の権力は、執権の地位にあった北条氏がすでにしっかり保持していたと
いうことであり、また、裏を返せば、六代以降のいわゆる「宮将軍」もまた
名目的な、いわばお飾りの存在だったことになりそうです。


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 蒙古襲来絵詞/第八代執権・北条時宗
 
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しかし、親王(天皇の子)を幕府将軍に迎え入れるにしても、そのことで幕府側に
何らかの制約が生じるようでは面白くありません。
あくまでも、幕府の「意のまま」になる将軍ということが大事なわけです。
そこでこんな流れを作りました。

~親王の将軍就任は十代前半までに行い、長じても二十代のうちに
 将軍職から離し都へ返す~

確かめてみると、確かにそのように心掛けた様子が窺えます。

六代将軍・宗尊親王(1242-1274年) 将軍在任:11~25歳
七代将軍・惟康親王(1264-1326年) 将軍在任: 2~24歳
八代将軍・久明親王(1276-1328年) 将軍在任:15~33歳
九代将軍・守邦親王(1301-1333年) 将軍在任: 8~33歳

朝廷側は多分、幕府のこうした自分勝手な行動を不快に感じたことでしょう。
それもあってか、じつはこの後の七代将軍・惟康親王の時代になって、
幕府側に対して朝廷側は大胆過激なしっぺ返しを放っています。

そのしっぺ返しは、鎌倉幕府にとって、というより日本国にとっての未曽有の
危機であった「元寇」、つまり当時中原(中国)を統治していたモンゴル帝国
(元朝)およびその属国である高麗による日本侵攻に遭遇した際の朝廷の
態度として現れました。

日本側ではその一度目を「文永の役」(1274年)、二度目を「弘安の役」(1281年)と
呼んでいますが、この戦争で日本側の最高司令官の立場で軍事指揮を執ったのは
鎌倉幕府第七代征夷大将軍・惟康親王その人ではなく、実は幕府第八代執権の
座にあった北条時宗(1251-1284年)でした。

その執権・時宗の指揮の下にあった、この時の日本国は鎌倉武士団による
果敢な戦闘をもって、元・高麗による侵略をはねのけたのです。
ですから、国土防衛を果たせたのは誰がどう見たって幕府執権・時宗の指揮と、
それに従って戦い抜いた鎌倉武士団の働きということになるはずです。

しかし、朝廷はまったく別の見解を示しました。
~我ら朝廷公家・寺社が心を一つにして、のべつ続けた祈祷の御稜威が
 「神風」を招き、それが元軍を撤退に追い込んだのだッ~

つまり、我らの祈祷こそが最大の勝因であり、武士団の奮戦なぞは無視すべき
子供だましの屁理屈にすぎない、という主張です。

ひょっとしたら、こうした主張の影には、親王将軍に対する幕府の対応に
朝廷側が不満を持っていたということがあったのかもしれません。
しかしともかく、元寇における時宗の働きを朝廷がまったく評価しなかった
(無視した)ことは、この後の時宗に対し何の「褒賞」も授けなかったこと
でも分かります。

この直後に死んだ時宗の位階は「正五位下」でした。
しかし現在は「従一位」と相当に高いものになっているはずです。
こうなったのは、当時の朝廷が授けたのではなく、グーンと後の明治の世に
なって、時の明治政府が追贈(1904年/明治37)したことによります。

国家滅亡の危機を救った「国家の英雄」と呼んでもいいくらいの活躍だった
のに、それが「正五位下」に据え置かれたままでは、あまりにもお気の毒に
過ぎるという意味からでした。

もっとも、この元寇という出来事は、幕府の基本を成していた「御恩と奉公」
という基本システムを大きなダメージを与えました。
参戦出征という「奉公」はきっちり果たしたのに、なんらの褒美「御恩」を
得られなかったのですから、武士団の不満は次第に大きく溜まっていきます。

考えてみれば、外国から侵略されそれを跳ね返しただけのことで、通常の勝利戦
に伴うはずの「戦利品」が一切ないわけですから無理もありません。
しかし、鎌倉幕府の基本システム「御恩と奉公」が崩壊してしまったのでは、
鎌倉幕府そのものの命運も尽きて当然ということになるのでしょうか。

ということで、嫡流将軍、摂家将軍、はたまた宮将軍など、内政的には色々な
創意工夫をこらしたものの、外国からの侵略「元寇」だけはまったく想定外の
出来事だったと言えるのかもしれません。




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