日本史の「アレンジ」24 どちらが似合うの?神か天

筆者が日頃生息しているエリアにはコンビニがあるのはもちろんですが、
意外なこと大学だってあるのです。
キャンパス内に一般教室棟の他にチャペル棟も建設されていることからも、
この大学がいわゆる「ミッション系」であることは誰にも一目瞭然です。

ご存知でない方以外はご存知のはずですが、念のために申し添えれば、
北側の名古屋国際会議場、南側の白鳥庭園、そのちょうど中間に位置して
います。
キャンパス端っこに立つ三角柱型の案内から、筆者のような部外者にも、
ここが「名古屋学院大学 名古屋キャンパスしろとり」であることが
分かります。 親切なお心遣いで痛み入ります。

そして、西側の車歩道に向けて設置された縦横数十センチほどのやや小ぶり
な石碑にこう記されていることが、下の写真でも確認できると思います。
~✟(十字架) 名古屋学院大学 建学の精神 
        敬 神 愛 人 (Fear God Love People)
   マタイ伝 22章 36-40節  1887 創設者 F.C.クライン博士 ~


 keishin_aijin_01.jpg 敬神愛人(名古屋学院大学)

筋金入りの宗教オンチである筆者は、マタイ伝なんて仰々しいものには、
もちろん触れたこともありません。
で、ちょいとばかり探りを入れてみると、こんな説明が登場したのです。
~この言葉は多くのキリスト教学校でもモットーとして掲げられている~

なんだ、「敬神愛人」って、地元・名古屋学院大学だけではなかったのか。
少しの肩透かしを喰らったところへ、こんな説明が追い打ち。
~イエスが告げた黄金律を4つの漢字(敬神愛人)に移した言葉~
とありましたから、結局のところ、宗教オンチはその「黄金律」にも首を
突っ込まざるを得ません。

すると、こんな説明です。
~何事も人々からして貰いたいことは,すべてその通り人々にもして
 あげなさい~

おいおい、ドンドン茶ノ木畑(迷路)に入り込んでいるゾ。
そこで、気を取り直して原点へ立ち戻ることにしました。

しかし、ちょっと待て!
この「敬神愛人」って言葉、この石碑だけでなく、はて、どこかヨソでも
見聞きした覚えがあるゾ。
そんな記憶を呼び戻しているうちに、ひょっこり思いだしたのが「敬天愛人」
という四文字熟語でした。 
「敬神愛人」「敬天愛人」、神と天の文字が入れ替わっているだけの違いです。

そこで早速、今度は「敬天愛人」です。
~天をうやまい、人を愛すること~ 
なるほど、その通りには違いないが、もう少し知りたいゾ。 

すると、こんな解説文が。
~常に修養を怠らず、天をおそれ敬い、人を愛する境地に到達することが
 大切であるということ~
  
さらには、~西郷隆盛の座右の銘として知られている~

ああ、そうだった。 
西郷どん(隆盛/1828-1877年)が揮毫の折に好んで使った言葉が
この「敬天愛人」だったっけ。
だとしたら、西郷どんはマタイ伝のこの言葉「敬神愛人」をパクって
「敬天愛人」なる言葉を造語したってことなのか?

ところが、どうもそうでもないようです。
というのは、こんな説明にぶつかったからです。
~イギリスの牧師・思想家のサミュエル・スマイルズの「自助論」を翻訳し、
 「西国立志編」の邦題で出版した中村正直が、この本の中で「敬天愛人」と
 いう言葉を使った~

あれれ、西郷どんのパクリという解釈は完全に勇み足だったようです。


 keiten_aijin_01.jpg saigou_takamori_51.jpg
 敬天愛人 / 西郷隆盛

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あまり記憶にない名前だけど、こうなるとその中村正直っていったい
何者なの、という展開になります。 こう説明されていました。
~中村正直(まさなお/1832-1891年)は明治時代の啓蒙思想家、教育者で
 あり、「明治六大教育家」の一人に数えられる~


ゲッ、「明治六大教育家」ってか! そこには、
森 有礼(1847-1889年) 初代文部大臣
新島 襄(1843-1890年) 同志社創立者
福澤諭吉(1835-1901年) 慶応義塾創立者 など錚々たる名が並び、
そのうちの一人とされているのですから、筆者が無知だっただけのことで、
その実像はこりゃまた随分と凄い人だったようです。

では、どんな経緯があって西郷どんはこの「敬天愛人」という言葉を
座右の銘にしたのでしょうか?
上の中村正直著「西国立志編」が刊行されたのは1871年(明治4)ですから、
西郷どんがこの「敬天愛人」という言葉・理念を知ったのは当然それ以降に
ということになります。

その辺りについては、こんな説明になっています。
~静岡で中村から訓えを受けた薩摩藩士最上五郎から「敬天愛人説」を
 伝え聞いた西郷は、敬天の思想に目を見はった~


最上五郎という人物についてはよく知りません。
しかしそういうことであれば、時期的には明治政府首脳部で構成された
岩倉使節団が欧米歴訪中の、いわゆる「留守政府」(1871-1873年)を、
西郷どんが預かっている頃、あるいは、その後の「明治六年の政変」(1873年)
で下野した時期のことだったかもしれません。

いずれにせよ、この頃の西郷どんは、自身でも不治の病ではないかとの疑念
を抱くほど異常な肥満体を抱え、下剤を用いる治療に悪戦苦闘していた
時期だったはずです。

しかし、思うのですが、この言葉の発明者?中村正直は「敬神愛人」を
意味する聖書の言葉に、なぜ敢えて「敬天愛人」という訳語を充てた
のでしょうか。 
「明治六大教育家」に数えられるほどに、メッチャ教養溢れる人物ですから、
そこにはそれなりの意志が込められていたと思われます

で、そこのところをトコトン教養に溢れていない筆者が推測。
なんとも傍若無人な所業ですから、死んだら地獄へ堕ちることになりそう
ですが、それはともかく、まず第一に考えられるのは「神」という言葉に
対する感覚です。

早い話が、日本語の「神」とは、普通には数多の、いわゆる「八百万神」の
ことを指します。
ですから、「唯一の存在」であることが売りであるイエス・キリストに対して、
「神」という言葉を充てた訳語自体がそもそもいささか歪なものだったのでは、
という印象になります。
ひょっとしたら、中村正直も筆者と似た感覚を持ったのかもしれません。

では、そこへどんな言葉を用いたらよいものか?
あるいは「主」なんて言葉も候補に挙がったかもしれませんが、これも、
日本人の感覚からしたら、イメージできるのはせいぜいが「君主」あるいは
「主人」程度のことで、あまり馴染みもなく親しめる言葉とは言い難い。
その上に、この世で「唯一絶対の存在」というイメージには程遠いからです。

確かに「天主」とか「天帝」いう言葉も頭の片隅に浮かんだことがあったの
かもしれません。
で、そうした試行錯誤の末に中村正直が選択したのが、結局は「天」だった
ということになりそうです。

この言葉は日本人にとっては「名作造語」だったと言えそうです。
なぜなら、あの西郷隆盛ですら愛用したのですからねぇ。
ただ、キリスト教自身にとってはどうだったのかといえば、多分「失敗訳語」
だったのではないでしょうか。

元々が神羅万象すべてを包含した概念である「天」という訳語にしたことで、
キリスト教が売りにしている「唯一絶対の存在」という概念が伝わらなく
なってしまった。 これがその理由です。

しかし、西郷どんは逆に~「天」とはまことに良い言葉ではないかッ~
おそらくは、そう受け止めて「敬天愛人」を座右の銘としたのでしょう。
もしこれが「敬神愛人」だったとしたら、これほどの入れ込みようを示さ
なかったかもしれません。




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