日本史の「陰謀」31 血筋制覇は子作りから

以前にも取り上げたことがありますが、今回もまた江戸幕府代11代将軍・
徳川家斉(1773-1841年)のお話です。
この将軍、幕政を人任せで自分は大奥に入り浸っていたことから「俗物将軍」
とか、さらには精力増強のためオットセイの陰茎を粉末にしたものを好んで
飲んでいたことから「オットセイ将軍」とも呼ばれた、いささかユニークな
人物です。

ではその徳川家斉って一体どんな人物なの? 少し追ってみましょう。
御三卿一橋家の当主であり、かつ第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる
徳川治済(はるさだ/はるなり)。
その長男として生まれ、小学生の年齢で第10代将軍・徳川家治(吉宗の孫)
の養子に迎えられました。


 tokugawa_ienari_01.jpg 第11代将軍・徳川家斉 

これは、将軍・家治の世嗣・徳川家基(1762-1779年)が若くして急死した
ために次期将軍含みで急遽進められたことです。
しかし、この「家基急死」の成り行きには、何とはなしに治済の影が感じられ、
当の家斉自身もそういう雰囲気を感じ取っていたフシもあります。

たとえば、晩年になっても家基の命日には自ら参詣するか若年寄りを代参
させるなどの方法で、その供養を欠かすことがなかったのもそのせいだった
とも考えられます。
~家基は、ボク(家斉)を将軍の座に就けようとした父チャン(治済)に
 暗殺されたのでないかしら~

言葉を換えれば、こんな疑心を抱いていた可能性もあるということです。

確かに、こうした家斉による命日参詣は、養子に入った家の先代の子供(家基)
に対して払う敬意としてはいささか異例でもあるため、そのような推察が
生まれても無理はありません。
また、家斉が生涯頭痛に悩んだことも、ひょっとしたら内心には「家元の
祟りでは?」との思いがあったのかもしれません。

家斉は子作りに執念を燃やしました。
なにせ、特定できる範囲だけでも16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の
合計53人もの子供を儲けています。
もっとも成年まで生きたのは半分(28人)だったそうですが、それにしても
大層な人数です。

根っからの「子作り大好き人間」だったと考えることもできそうですが、
しかし、そうとも言い切れない側面もあるのです。
それはこの家斉本人の考えというよりは、むしろ父ちゃん・徳川治済がこんな
途方もない野望を抱いていたことが原因でした。
~御三家や御三卿を含む徳川家全体を、実家の一橋家の血筋に塗り替えて
 やるッ~


そのためには、家斉に大勢の子供が必要です
実際、家斉の子女たちは十二代将軍となった次男(家慶/長男は早世)を
除き、全員が徳川家の親類大名家をはじめとして全国各地の大名家の養子
に入ったり、または嫁いだりしました。

挙句、水戸藩を除く御三家と御三卿はすべて家斉の血筋に塗り替えられ、
このなんとも凄まじい野望をほぼ実現させたのです。
なぜ、こうまでうまく運んだのか?
家斉側・相手側双方にメリットがあり、いわばウィンウィンの関係になって
いったからです。

家斉の側からすれば、将軍家と諸大名との結びつきを強固なものにできたこと
がメリットとして挙げられます。 
なにせ親戚関係になったのですから、相互の信頼は固くなって当然です。
言葉を換えれば、諸大名を将軍家の統制下におくことができたわけです。

また反対に諸大名の側にとっても大きなメリットがありました。
将軍家から養子や嫁を迎えると、領地を増やしてもらえるなど特別待遇を
期待できるうえ、否応なく大名家としての「格」もアップします。
なにしろ、将軍家の親戚という立場になるわけですから、喜んで受け入れる
藩が多くあったのも不思議ではありません。


 fugaku36_kanagawa_01.jpg kurohune_raikou_55.jpg
富嶽36景(葛飾北斎) / 黒船来航

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家斉の将軍職は、なんと在任期間50年(1787-1837年)に渡り続きました。
もっとも、次の第12代将軍・家慶の時代になっても、大御所として実権を
手放さなかったそうですから、実質のトップ期間はもっと長くなります。

そして、同時代の思想家・頼山陽(1781-1832年)なぞは著書「日本外史」
の中でこの時代を「盛りを極む」と表現しているほどです。
ですから、家斉が将軍職にあった50年はまさに天下泰平・幕府の絶頂期
だったことは間違いないのでしょう。

しかし、いいことばかりではないゾ。
「俗物将軍」と綽名された政治の放任と幕府の長年の浪費は「政治の腐敗」
と「幕府財政難」という負の遺産は次の世代を苦しめ、結果として、
幕府崩壊への道に次第に近づけていったのです。

そうした深刻さが姿を現した反面、江戸を舞台とした町人文化の爛熟期でも
ありました。
文化文政年間(1804-1830年)のいわゆる「化政文化」です。

それは、遊芸・芝居・遊里・絵画・通俗小説の流行が一世を風靡する勢いを
見せ、遊蕩的気分が強まり、またさらには粋(いき)に象徴される世界や
虚無的風潮を生じた、とされています。  

ともかくそうした時期に家斉は最後を迎え、その12年ほど後には、いわゆる
「黒船来航」(1853年)に直面することになりました。
実は、ここから先の時代を「幕末」と呼んでいます。

さて、あまり楽しい話題ではありませんが、人の死には「孤独死」と呼ばれる
亡くなり方もあります。
~誰にも気づかれることなく一人きりで死ぬこと~と説明され、現代感覚を
混ぜるなら、さらにはこんな言い方もできるようです。

~地域社会から孤立した人が、医師や家族など周囲のだれにも看取られずに
 死亡すること~
 もう少し踏み込んだ表現なら、
~疾患ある独居者などが、助けを求めることなく急死し、しばらくしてから
 見つかる場合~
なども、こうした概念に該当すると説明されています。

こうした説明に触れると、こうした「孤独死」はどちらかと言えば社会的
経済的にも弱者の立場の人に多いイメージになります。
ところが、それとは真逆の境遇にあるセレブ人間にも
~急死し、しばらくしてから見つかる場合~
つまり、孤独死もどきの亡くなり方があるから歴史は面白い。

えぇ、誰ですか、その孤独死したセレブ人間って?
そんなもん、話の流れからしても決まっているじゃありませんか。
江戸幕府第11代将軍・徳川家斉です。
まさに~事実は小説より奇なり~と言うべきかもしれません。

ちなみに、これはイギリスの詩人・バイロン(1788-1824年)が残した言葉
だそうですから、時系列からしても当然ながら、この家斉の死の様子を語った
ものではありません。

もともと健康自慢の体を持っていた家斉も最晩年には疝癪(原因不明の腹痛)
を患うようになっていました。
そして、ある日その疝癪が元の急性症状(胃腸炎か腹膜炎らしい)を発症し、
誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられています。

日常の生活では大奥の女性たちばかりでなく、数多の人間が仕えていたはず
ですが、そんな環境にあっても、その最期を看取った人間はいなかったと
いうことです。
要するに、この場合も先の~急死し、しばらくしてから見つかる場合~
該当しそうですから、「孤独死」の一パターンと言えるかもしれません。

この突発事態には、さすがの幕府もすっかりビックリこいたのでしょう。
侍医長の責任を追及したのはもちろんですが、さらには死亡日を三週間余
遅らせた日付けで公表するなと、それなりのバタバタを演じたようです。
なにせ、半世紀にわたり将軍職を勤続した家斉の余りに突然の死ですから、
そうした幕府の慌てぶりも止むを得ないことだったかもしれません。




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