日本史の「数字」05 十七条憲法と従軍体験

いつの時代の世にも、保守派と改新派がせめぎ合う状況はあるもので、そうした
切磋琢磨の中からグッド・アイデアも生まれ、それがまた新しい時流を作って
いくことにもなります。
たとえば、現代日本の政界だって、スッパリと二分とまでは言えないのかも
しれませんが、概ねのところは保守VS革新の勢力構図を示しています。

だったら、昔もこうした保守VS革新の構図があったに違いない。
そう思いついて、その周辺をほっつき徘徊していると、こんな歴史事件に
ぶつかりました。
その少し前に日本へ伝来した仏教を受け入れるべきか否かを問題にした、
いわゆる「崇仏論争」です。


 syoutoku_taishi_51.jpg
 最古のものと伝えられる「聖徳太子」の肖像画 ※異説あり
 
この言葉自体は、今までにも何回かは耳にしたことがあるはずですが、
正直なところほとんど覚えていませんでした。
その経緯の説明にはこんな名が挙がっておます。
仏教推進派の代表者として蘇我稲目(506頃?-570年)、そして
仏教反対派の代表者として物部尾輿(生没年不明)。

蘇我氏~いまやグローバル・スタンダードと呼ぶべき仏法を、我が国も早々に
    受け入れ、先進国の仲間入りを目指すべきです~

物部氏~我が国には古来から自然を神と崇める八百万神の信仰がある。
     にも拘わらず、さらに増やそうとするなぞは軽薄な「異国かぶれ」
     にすぎないっ!~


言葉を換えれば、国際派・蘇我氏/国粋派・物部氏というところになるのかも
しれません。
ところが、この2つの派閥の激しい対立はここにとどまらず、皇位継承問題
までをも巻き込む形に発展していき、最終的には、それぞれの次の世代である
蘇我馬子(551?-626年)VS物部守屋(生年不明-587年)による
直接対決「丁未(ていび)の乱」(587年)にまで行き着きました。

現代に生きる私たちは、この後に仏教が受け入れられ、しかも「神仏混淆」
いう姿をもって、神道と仏教が長きにわたって共存共栄した歴史を知っている
ために、この場面にさほどの緊張感を覚えませんが、その時代に生きていた
当時の人たちにとっては、それはもうメッチャ深刻な国家論争だったことが
想像されます。

この論争の重さは、現代日本に置き換えるなら、たとえばこのくらいの
二者択一感があったのではないでしょうか。
我が国は資本主義を取るべきなのか、はたまた共産主義を取るべきなのか。
あるいは、王制国家でいくべきなのか、共和制国家にすべきなのか。

で、その「丁未の乱」に最終的に勝利したのは蘇我馬子の仏教推進派でした。
この勝利により、仏教導入というこの後の日本の針路が決定づけられました。
実はこの戦に少なからぬ関りを持った当時16歳ほどの少年がいたのですが、
その人物こそが後に聖徳太子(572-622年)と呼ばれることになる厩戸皇子
でした。

現代は選挙という方針決定方法があるために、仮に自分の主張が受け入れられ
なかったとしても、せいぜいが「野に下る」程度のことで収まるものです。
しかし、そうしたシステムが整っていない当時は、戦で決着をつけるしか
方法がないわけですから、それこそ文字通りに「命懸け」の主張になります。

厩戸皇子は馬子の親戚ということもあって果敢に参戦し、追討軍の役割も
担いました。
しかし、敗走する敵の半端でない抵抗に遭遇した折には、人間同士が命がけで
戦うことの非情さを目の当たりにして、すっかり肝を潰してしまいました。

敗戦は同時に自分の死をも意味する。
そのことにハタと思い当った厩戸皇子は思わず「神頼み」に走りました。
いや、蘇我氏側という立場からすれば、「仏法の加護」と表現すべきかも
しれませんが、ともかくこのように誓ったと伝えられています。
~この戦に勝利させていただけたなら、仏塔も造り仏法の普及にも努めます~

その果てに、相手側大将・物部守屋が戦死し、蘇我馬子が率いる自軍が勝利
するという、祈念通りの結果を得られた厩戸皇子は、その誓いを空手形にする
ことはありませんでした。
摂津国難波(現:大阪市)に創建(593年)された「四天王寺」がそれです。

仏との誓いを律儀に果たしたということは、その時の厩戸皇子の体験がよほど
過酷なものだったことを示しています。
少々の恐怖・窮し方だったら、その時の誓いをしらばくれてチャラにしまうこと
だってできますからねエ。


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崇仏論争(蘇我氏VS物部氏) / 十七条憲法(和の精神)

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ともかく、この参戦体験がその後の厩戸皇子(以降、聖徳太子と記す)に
大きな影響を与えたことは間違いありません。
確認の意味で、その後の一連の出来事を追ってみましょう。

○592年/21歳 第33代・推古天皇(史上初の女帝)の摂政に就任し、
        その政治を補佐。
○600年/29歳 遣隋使の派遣(以後18年間に3回から5回派遣)
○603年/32歳 冠位十二階の制度(605年~648年まで行われた)
○611-615年/40-44歳 「三経義疏/さんぎょうぎしょ」を著わす。
            ちなみに「三経義疏」とは、「法華経/ほけきょう」
            「勝鬘経/しょうまんぎょう」「維摩経/ゆいまきょう」
            の三経それぞれの注釈書のことと説明されています。

このことから、摂政として政治実績を見せ始めるようになったのは30歳に
近づいてからのことだったことが分かります。
では、それまでほぼほぼ10年の間、太子は実務に傾注したというよりは、
いわば「政治活動空白期間」?として「摂政見習い」もどきの立場にあった
のでしょうか。

その疑問について登場するのが、この間の太子は一種の心身症の状況を
抱え込んでいたのではないかとする説です。
えぇ、多感な年頃で出征し、メッチャ凄まじい体験をしたことで、心に大きな
ダメージを背負ってしまったのではないかという見方です。

そして、その説に沿うなら、症状は決して軽度とは言えず、それなりの治療を
必要とするレベルだったのではないかとされています。
まったく根拠のない話でもありません。

実際この時期の太子は僧を供に連れ温泉地を訪れている事実があるからです。
しかも、現在でも全国有数の名湯とされる伊予・道後温泉には、聖徳太子ら
により596年に建立されたと伝わる碑も遺されています。

もしそういうことなら、供に連れた僧は今でいうカウンセラー、あるいは
セラピー、もどきの役割を担っていたのかもしれません。
ともかく、運が良ければ翌日にはすぐ「復活ッ!」の運びにもなる風邪や
擦り傷などとは違って、心療の治療は多くの時間を必要とするものです。

その心の復活までの時間が、太子の場合は10年ほどを要したということかも
しれません。
そして、戦場や疾病という自らの過酷な体験から、戦というものは決して
引き起こしてはいけないことを痛感し、おそらくはそのことを広く大勢の人
たちにも知らしめようとしたのでしょう。

~互いが抗い争うことは、負の影響や悲劇を生み出すだけだから、絶対に
 避けるべきだ~
とする強い強い信念です、
言葉を換えれば、~何事にせよ争うなんてことは最悪最低の所業だッ!~
つまりは、~争いのない環境を追い求めることが絶対的に正しいッ!~となり、
さらにくどく言うなら、~仲良きことは美しき哉~ということにもなるのでしょうか。

そこで、公務員が守るべき道徳的訓戒として定めた、これは本邦初の成文法
ということにもなりましたが、その「十七条憲法」の第一条に太子はこう
謳いました。 ~和を以って貴しと爲し 忤ふこと無きを宗と爲・・・~

せっかくですから、その現代語訳もカンニングしておくと、
~和(互いの協調)を大切にし、人とは諍いをせぬようになさい~
ここらへんはともかくも、しかし文言が進んでいくといささか論理が飛躍して
いるように感じられる部分も登場します。
聖徳太子自身も、思考中次第に気分が高揚していったのかもしれません。

~しかし、上司と下僚がにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから
 事は筋道にかない、どんな事でも成就するであろう~

つまり、「話し合って得た結果は必ず正しい」と断言しているのです。
しかしこれは、いささか強引な論理誘導であり、道徳的規範というよりは
既に信仰・宗教の範疇にまでのめり込んだ印象になっています。

逆に言うなら、「丁未の乱」において聖徳太子が味わった恐怖感や体験は、
こうした新興宗教?にのめり込むほどに凄まじいものがあったことになり
そうで、つまり、聖徳太子に言わせればこうなるのかも?

~いつの時代の世の中にも保守派と改新派(考えが違う者同士)がなにかと
 せめぎ合う状況があることは承知しているが、しかし仲むつまじく話し
 合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就するのだから、
 とにかく、とにかく、とにかく話し合いなさい~


そのエネルギッシュな助言を頼もしいと思う反面、たとえば北朝鮮を相手に
した場合でも通じてくれる理屈なのかなぁ。 そのへんがとちょっと心配。




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