日本史の「怪人」22 史実彷徨さらさら越え

本格的な登山シーズンを迎えながらコロナ禍の影響で出かけられないアル
ピニストも多かろうという配慮からでしょうか、筆者の生息地(名古屋)の
地元紙・中日新聞(2020・6・5/朝刊)が史的伝説「さらさら越え」を取り
上げました。 歴史好きには少しは知られたお話です。

その見出しには~佐々成政 真冬の北アルプス踏破伝説~とあり、
一回り大きな文字で~「さらさら越え」実は初夏?~ さらには、
~利家の証言 高まる史料価値~となっています。
早い話が、これまでの通説に若干の疑問点が呈される状況もある、という
内容です。


sarasara_goe_02.jpg 雪中さらさら越え/歌川豊宣

そういうことなら、ここに登場する人物・時代・出来事など、基本的なデータを
押さえておく必要があります。 そうでないことには話が始まらないからです。 
そこで、まず人物について。
佐々成政(さっさ・まりまさ/1516-1588年) ※当記事の紹介から。
 尾張国比良村(今の名古屋市西区)出身。
 織田信長の馬廻(うままわり/親衛隊)から、富山城主に。
 羽柴秀吉に降伏後、隈本(熊本)城主に取り立てられるが、失政で
 1588年に切腹した


このことから、戦国の真っ只中の出来事だったことが分かります。
続いて、記事は伝説「さらさら越え」について紹介しています。
ここに登場するのは有名人?ばかりですので、改まった紹介は割愛しますが、
これが話題の核心部分ですから、通説については記事そのままを転記する
こととします。

~信長は1582(天正10)年夏、本能寺の変で討たれ、後継者争いが発生。
 羽柴秀吉が、大坂城拠点に勢力を広げた。
 これに対し、信長の次男で伊勢長島城主の信雄(のぶかつ)と浜松城主の
 徳川家康が1584年春、秀吉を相手に「小牧・長久手の戦い」を始めた。
 成政は呼応し、秀吉方の金沢城主・前田利家が治める能登・加賀(石川県)
 に攻め込んだ。
 が、同年暮れに信雄と家康は秀吉と和睦。
 はしごを外された成政は、風雪の北ア・ザラ峠(富山県)を辛苦の末に越え、
 1585年1月に浜松で家康に、吉良(愛知県西尾市)で信雄に会い戦い続ける
 ように訴えた― ―。~


この展開は、軍記「太閤記」(1625年)で初めて紹介されたもので、以降は
これが通説とされているとの説明になっています。
蛇足ですが、織田信長(1534-1582年)と羽柴秀吉(豊臣/1537-1598年)と
徳川家康(1543-1616年)の、「郷土の三英傑」と呼ばれる御三方の総出演
ですから、地元紙・中日新聞としても取り上げやすかったのかもしれません。

それはさておき、通説の他に、成政が東海地方を訪れた時期は初夏の頃だった、
と説く写本も実際には存在するのだそうです。
それが、前田利家の言行録「利家公御代之覚書」です。

前田利家(1538-1599年) ※大辞林 第三版の解説による
 安土桃山時代の武将。 加賀藩の祖。 尾張の人。幼名、犬千代。
 幼少より織田信長に仕える。 賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家についたが、
 のち豊臣秀吉と和を結び、金沢に封ぜられた。
 五大老の一人として秀頼を補佐したが、秀吉没後一年にして死んだ。


この「利家覚書」にはこんな展開が記されているとのことです。
~成政は、秀吉が後継者争いで柴田勝家を倒した「賤ケ岳の戦い」の
 一年後の1584年4~6月ごろに「越中ざらざら越を忍び参り」、信雄と
 家康に面会。 秀吉への抗戦を促しながら軍事支援を提案した~


つまり、成政が信勝や家康に面会した時期、これは北アルプスを踏破した
時期と言い換えてもいいのでしょうが、それが「太閤記」よれば「真冬」の
こととなり、一方の利家自らの証言である「利家覚書」に従えば「初夏」の
こととされているわけです。

もっとも、「真冬」説を裏付ける内容は徳川家康・家臣の日記にも残されて
いるそうです。
~(天正12年)12月25日、越中の佐々内蔵助、浜松へ越し侯~
それにしても、「真冬」と「初夏」では、時期があまりに違い過ぎます。


sassa_narimasa_01.jpg 佐々成政

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この後者の史料である「利家覚書」が研究者の間において、あまり知られて
いなかった、ということでもないようです。
ただ、写本は複数あるものの、誰がいつ写したかなどの点で、史料としての
価値が長らく定まらず、そのため、これまであまり重視されてこなかったと
いう事情はあったようです。

ところが、最近になって、この「利家覚書」が1595年から4年余り利家に仕えた
村井長明(1582-1644年)自筆の原本だと推測する論文が発表されました。

この論文によって、「利家覚書」にある利家の証言が、通説の元になっている
「太閤記」より古い史料になる可能性が高まったわけです。
ただ、このことによって通説である「真冬の訪問」が直ちに否定されるかと
言えば、先の家康・家臣の日記もあって、そういうわけにもいきません。

ですから、一応の結果として、この辺りに落ち着くことになるのだそうです。
~初夏の訪問は、小牧・長久手の戦いの当時に書かれた文書類では確かめ
 られない。 (だから)成政の真冬の訪問は、ただちには覆らない~

史料って、結構面倒くさいものなんですねえ。

ところが、今回の記事は、時期だけではなく踏破したコースについても、
別の研究結果から台頭してきた異説も紹介しているのです。
~成政の越えた所がザラ峠より40キロ南で降雪量も少ない安房峠周辺だった~
しかし、多分この異説にはあまり人気が集まらないかもしれません。
なぜなら、これでは「さらさら越え」にならないからです

佐々成政が成し遂げたとされる「北アルプス・ザラ峠(立山連峰)」越えが、
なぜ「さらさら越え」と言われているのか?
諸説があるようですが、これが一番分かりやすい説明になるのでは?
~「ザラ(佐良)峠」を「佐々成政」が踏破したことになり、
 「佐々の佐良(ザラ)峠越え」・・・「佐々佐良越え」、これがなまって
 「さらさら越え」なった~


つまり、「さらさら越え」は「佐々(成政)の佐良(ザラ)峠越え」でなければ
ならず、たとえば、「佐々(成政)の安房峠越え」では、「さらさら越え」
にはなり得ないのです。
これでは折角の「伝説」にキズがつくことにもなりかねません。

そして、今回記事はこう締めくくられています。
~「真冬説」が本当だったとしても、ザラ峠を実際に越えたかどうかは、
 少しあやしい。 伝説を巡る謎は、深まるばかりだ。~

う~ん、これではすべての点で未解決のままではないか。

真冬だったのか、あるいは初夏だったのか。
正しいのは、家康・家臣の日記の内容か、それとも利家の覚書か。
はたまた、成政が超えたのはザラ峠だったのか、そこから離れた場所の安房峠
だったのか。 なにがなんだかさっぱり分からんことになります。

もっとも分からんことがいっぱいあってこその伝説で、すべての謎が見事に
解明されきってしまうなら、それはもう伝説ではないわけですから、その辺は
痛し痒しといったところでしょうか。

でも、仮に数十人の供者はあったにせよ、20mほどの積雪の上に、また雪崩も
多く、さらには気温も零下20~30度と極寒という最悪条件下での真冬の
立山踏破を、当時なら後期高齢者?に当たる50歳に近いジイ様がやり通した
としたら、これは絶賛されてしかるべくでしょう。

この佐々成政に負けないくらいのパワフルさを皆様が持てば、決して
新型コロナウイルスに負けることはないッ! きっとなら。

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