日本史の「ツッパリ」27 事前情報は留め置きに

代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻のアメリカ海軍が
浦賀に姿を現した事件を一般的には「黒船来航」(1853年)と言い、そして
またこの事件から明治維新に至る期間を「幕末」と呼んでいます。

~泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず~
その幕末の黒船来航の折の日本側の対応ぶりを揶揄した狂歌です。
ただし、この皮肉は国民一般に向けられたものではなく、やはり幕府に
対して向けられたものと見るべきでしょう。

というのは、日本の海に外交を求める外国艦隊が出現するなんてことは、
それこそ未曽有の事態であり、仮に一般国民が慌てふためいちゃったと
しても当然だからです。
それでは揶揄の対象にはなりません。


 kurohune_raikou_52.jpg 黒船来航

実際、この折のアメリカ艦隊は、号令や合図を目的として湾内で数十発の
空砲を発射しました。
ところが、最初こそその凄まじい轟音に腰が引けた町民も、空砲だと分かると
まるで花火見物もどきの気分でそれを楽しんだそうですから「夜も眠れず」
にはほど遠い雰囲気があったように思われます。

それどころか、翌日になると浦賀の見物人は次第に増え始め、さらに翌々日
ともなると、今度は江戸からも見物客が殺到するようになったようです。
そうした好奇心旺盛な人々に混じって思想家・佐久間象山(1811-1864年)や
その門弟筋の吉田松陰(1830-1859年)など、後の「幕末日本」に大きな影響
を与えた人物の姿もありました。

ですから一般庶民の反応は、少なくとも幕府が演じた右往左往とは違ったもの
だったことになります。
そうだとすると、今度は逆にこのことが疑問に思えてきます。
~一般庶民がこんなノンキな案配だったとしたら、幕府が夜も眠れぬほどに
 右往左往したのは本当なのかしらん?~


実を言えば、多少のヒントになる史実もあるのです。
ひとつには、ペリー代将による今回の「黒船来航」の、その7年も前に
江戸幕府(日本政府)が経験したビドル司令官(1783-1848年)率いる
アメリカ艦隊との接触です。
後のペリー艦隊と同様に、日本開国を目的としたアメリカ側のアプローチ
でした。

この時の日本は言を左右にして頑なに開国を拒み続けたため、ビドル艦隊は
何らの成果を上げることもできませんでした。
そして7年の時を経て、今回改めてペリー艦隊がやって来たわけですから、
本来なら幕府が「浮足立つ」ことはあり得ません。
なにせ、7年前にその「予行演習」をしっかり済ませているわけですからね。

しかも、狂歌はペリー艦隊は突然日本に現れたようにイメージされる文言に
なっていますが、これは明らかに事実とは異なります。
なぜなら、既に前年(1852年)、長崎出島・オランダ商館長から長崎奉行に
宛てて「来航」が通知されていた事実があるからです。

実を言えば、これより以前のビドル艦隊来航の折も、オランダは事前に
その旨を日本側に通知しています。
長崎・出島におけるオランダへの特別待遇に対する謝意を表す意味もあった
のでしょう。
単なる通知内容だけでなく、そこには日本に対する親切心溢れるアドバイス
もありました。


abe_masahiro_71.jpg 老中首座・阿部正弘
 
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書き並べれば、たとえばこんな内容です。
○アメリカ艦隊の来航の目的は日本との条約締結(日本開国)にあること。
○世界の時流からしたら、日本の鎖国政策はもはや通用しないのではないか。
○艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているらしいゾ。


なんてことはない。
幕府はそうした情報を、実際の「黒船来航」の一年近くも前に、早々と
入手していたことになります。 
しかもその情報は幕府上層部に留め置かれたばかりか、結果としてほとんど
「何らの対策も取らなかった」のです。
要するに、来航が予想される現地・浦賀の責任者(与力等)にも伝えなかった
ということです。

こんな状況にあった夏の頃、老中首座・阿部正弘(1819-1857年)はこうした
オランダ情報を譜代大名にも開示し、それに対する意見を求めています。
なにぶんにも国家の一大事ですから、幕府が独断専行する形では相応しく
ないと判断したものでしょう。

その際にはこんな意見・見解も登場したようです。
○何年か前のオランダ情報にはガセもあったとこと考慮すれば、
 今回情報もあんまり信頼できないのではないか。
○アメリカが望んでいるとされる「通商条約」は断じて結ぶべきでない。


浦賀の現地責任者(与力等)には伝えられなかったこうした情報を、
外様(薩摩藩)の島津斉彬(1809-1858年)などは、なんとその年のうちに
掴んでいたとされています。
おそらくは、信頼関係の篤い老中首座・阿部正弘が直接に斉彬に伝えたと
いうことなのでしょう。

ここまでが大まかな流れですが、現在から振り返ると、この時の幕府の
態度におおきな不思議を感じるところです。
そのアドバイスに沿った姿勢を見せることで、わざわざ通知をくれた
オランダの顔を立てることだってできたのに、
~なぜ、ああまで頑なに「鎖国堅持/条約拒否」に拘り続けたのだろうか?~

結局突き当たるのが、幕府が公式学問としていた「朱子学」の思想です。
もっとも哲学思想というよりは、むしろ宗教信仰心と表現する方が実態に
近いのかもしれませんが、ともかくそうした信仰心のうち、キーワードに
なりそうな言葉を少しだけ挙げてみましょう。

まずは「祖法大事」。 要するに、
~御先祖様たちが取っていたライフスタイルを変えることは悪事である~
なんでそんなことになるのかと言えば、「朱子学」が「孝(親孝行)」を
最高最大の徳目としているからにほかなりません。

親を大切にするなら、その親も、そのまたその親にも、ついては御先祖の
皆様にも孝行を尽くさなくてはなりません。
となると、「御先祖様のやり方」に改良・改変を加えることは、
「御先祖様を否定した/顔を潰した」ことになって、「親孝行違反」を犯した
という判定になるのです。

だったら、御先祖様が敷いたはずのその鎖国路線を自分たちの世代で
変えてしまうことはできないのは当然ということになります。
頭の中の理論理屈では「鎖国は古い」と思い描いても、心には
「御先祖様否定」という感情が芽生え、それが邪魔してしまうわけです。

また、鎖国撤廃に踏み出すためには「士農工商/貴穀賤金」という
イデオロギーも大きな障害となりました。 ~開国し、貿易をする~
このことに朱子学の物差しを当ててみると、こんなイメージになるからです。

~身分最上位の武士たる者が、なにが悲しくて、身分最下位の商人風情の
 真似をして、賎しい金儲けに励まなくてはならんのだ、間違っている!~

朱子学の徒である武士の根底には、この心情が沈殿しているために、
開国通商に対する心理的抵抗にはメッチャ大きいものがあるのです。

ですから、アメリカ側から「通商条約」を持ち出された日本側は、ほとんど
ヒステリー状態になってこれを拒否し続けました。
しかし、その抵抗も限界を迎え、ついに条約締結に至ることになりましたが、
そのとき結んだ条約の名はそれまでの「通商条約」ではなく「和親条約」

~「通商」では国家そのものが商人の真似をする意味になって、いかにも
 拙いが、「和親」なら単に国家間の友好の意味であるからして、そこには
 賎しい金銭のやり取りを感じさせるものもない~
 ということです。

ホント、この頃に幕府(日本政府)って朱子学の権化だったようですね。
ところが、それから百年ちょっと経った1965年頃にもなると、国際社会から
今度は「エコニミック・アニマル」(経済的利益を追い求める動物)とまで
呼ばれるようになっていたのですから、その変わり身の激しさは
驚異に値すると思うのは何も筆者だけではありますまい、ってことです。




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