日本史の「信仰」17 初めに東と西があった

昔々の大和民族は太陽を特別な存在として崇める信仰心を持っていたと
考えられています。
そのことは、民族の長である大王の祖先神の名が「空を照らす神サマ」と
いう意味を備えた「天照大神」、つまり太陽神であることも一つの裏付けに
できそうな印象です。

東から上って西へ沈む・・・まあ、よほど特殊な事情がない限り、太陽は
日々この運動を繰り返しています。
ですから、そんな太陽を崇めつつ、その下に棲む。
こうした営みがこの頃の大和民族の姿だったと想像されます。

では、こうした環境下にある民族には一体どんな心理が芽生えるものか?
少なくとも方角に対しては、「南北」よりも「東西」に対する意識のほうが
敏感になるはずです。
信仰の対象が、南や北ではなく、毎日毎日「東から西へ」の運動を繰り
返しているのですから、これは当然のことでしょう。


 amaterasu_51.jpg 天照大神

「南北」よりも「東西」に対して敏感になる。
このことについての民族的な理由はほかにも考えられます。
~日向にいたとき都にするのによい土地が東の方角にあると聞いて、海路や
 陸路で近畿へ進み、地元勢力と戦いを交えながら大和入りを果たした~


これが、初代天皇とされる神武のいわゆる「神武東征」のお話ですが、
これもまた方角的な「東西」を強く意識させる物語になっています。
「東征」というからには、「西から東へ進んだ」と受け止めるのが普通で、
これを「北から東へ」だとか、あるいは「南から東へ」と受け止める人間は、
まあいないだろうからです。
もっとも、アナタのような思いっきりのヘソ曲がりは例外かもしれません。

それはともかく、この「東西」という感覚を強く意識させる他の言葉の一つと
して「関東/関西」を挙げることもできそうです。 
こんな説明になっています。
~奈良時代以来、鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三つの関所より
 東の地域が「関東」、同じく西の地域が「関西」~


折角ですから、その「三関」(三つの関所)をもう少し探ってみると、
○鈴鹿関(現・三重県亀山市/鈴鹿峠の麓)
○不破関(現・岐阜県不破郡関ケ原町)
○愛発関(現・福井県/愛発山あたり)
これが「関東/関西」の国境線?とされているわけですから、その言葉も
また意識も、現在なお強く残っていると言えそうです。

そこで、その当時の「関東/関西」のメッチャ大雑把なイメージは、
関東=武士階級地域/田舎/地味・野暮
関西=朝廷公家地域/都会/華やか・風雅の趣
くらいになりそうですが、ただし、さすがに現代ではそれほどの違いを
見出すことはできません。

いまひょっこり「不破関」の名が出たので、こんなことを思い出しました。
戦国時代のこの地「関ケ原」で繰り広げられたのが、そのまんま文字通りの
「関ヶ原の戦い」(1600年)でした。
直前まで天下人の地位にいた豊臣秀吉(1537-1598年)の死を受け、
豊臣家とニューリーダーを目指す徳川家康(1543-1616年)が正面衝突
した戦闘でしたが、じつはこの場面でも「東西」の言葉が使われています。

この後のことになりますが、関西を本拠地とする豊臣方を「西軍」といい、
関東を本拠地とする徳川方を「東軍」と呼ぶようになったのです。
ところが、もう少し時代を遡るなら、戦国時代の入口となった「応仁の乱」
(1467-1478年)でも「東軍/西軍」という用語が使われているのです。
細川勝元側を「東軍」、これに対抗する山名宗全側を「西軍」としています。

ただし、この乱における諸大名・小名の入り乱れ方はハンパでなく、
それどころか、時として東軍・西軍のメンバーが入れ替わることもあるほど
ですから、この辺りの整理仕分けは新型コロナの外出自粛要請でできた
ヒマを持て余している人には、格好の頭の体操になるのかもしれません。
ですが、「ややこし嫌い」ので筆者はハナから御免蒙ります。


 seinan_sensou_01.jpg 西南戦争
 
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さて、お話はまたまた横道に逸れていきますが、「東西」という文言を
用いた一風変わったこんな言葉もあります。
「東西東西」(とうざいとうざい/とざいとうざい)です。

現代人がこの言葉を使う場面にはほとんど遭遇しませんが、昔は興行物などで
見物人をしずめたり、口上を述べるに先立って注意をひいたりするときに、
~皆さん、お静かに願います。 静粛にしてください~
ほどの意味で用いたようです。

多数者へ向けた呼びかけ言葉が「南北南北」でなく、「東西東西」に
なっているのがまことに面白いところです。
ひょっとしたら、これなども大昔の太陽信仰の名残りなのかもねぇ。
何しろ「東西東西」っていえば、太陽の軌道そのものですからねぇ。

で、ここまで迂回して今やっと今回テーマとして取り上げたかった
「西南戦争/西南の役」(1877年)に辿りつけました。
ご存知の方は既にご存知のように、
~征韓論で敗れ下野した西郷隆盛(1827-1877年)を立てた
 鹿児島士族らが熊本や宮崎において明治政府に対して挙兵~


これが「西南戦争/西南の役」の大雑把な説明ですが、ところがここに
示されている名称がイマイチ不可解なのです。
たとえば、源氏の対平家三連戦三連勝となった「一の谷の戦い」(1184年)/
「屋島の戦い」(1185年)/「壇ノ浦の戦い」(1185年)などは、
いずれも戦場となった土地の名称を冠しています。

また、土地の名称ではないものの、このずっと後に起きた織田信長暗殺事件
「本能寺の変」(1582年)でも、現場となった場所名が冠されています。

また先に触れた「応仁の乱」や、武士政権確立を決定づけた
「承久の乱」(1221年)などの名称には元号が使われています。
さらに言うなら、最近でこそ「平城太上天皇の変」(810年)との表現が
増えているそうですが、一昔前なら普通に使っていた「薬子の変」(藤原薬子)
という名称には、これに関わった人物の名がバッチリ謳われています。

ところが、この「西南戦争/西南の役」にはその場所も、勃発時の元号も、
はたまた関わった人物の名前すら含まれていないのです。
では、その「西南」とは一体何のこと?
驚くなかれ、呆れるなかれ、単に方角の「西南」を指しているだけとの
説明になっています。

ええ、早い話が、この場合の「西南」とは、単に
~西と南の中間にあたる方角~を意味しているに過ぎないわけです。
ですから、ここには地名(たとえば鹿児島・熊本)も、元号(明治)も、
また大昔の「壬申の乱」(672年)のような干支(丁丑/ひのとうし)も
さらには、これに関わった人物の名(たとえば西郷隆盛)さえバッサリ
省かれていることになります。

無駄のないスリムな名称というべきか、トコトン素っ気がないというべきか、
いずれにせよ木で鼻をくくった印象にもなるところです。
そこで、この「西南」という名称をさらにヒツコク拘ってみると、
~日本の南西の方角を戦場としたから~

それじゃあ、なんで「南西戦争」と呼ばずに「西南戦争」と呼ぶのだ?
この疑問に対する回答もいたって単純なもので、
~当時の日本が中国の影響で「東・西」を先に書いたからであり、
 「南・北」が先になる現在の表記は欧米の影響によるもの~

とされているのです。

こんなスカスカの説明で筆者が納得すると思ったら、それは考え方が
甘すぎるぞよ。
この命名にはきっちり確かな根拠があるハズだ・・・このことに誰も気が
付かなかったのだろうが、ところが筆者だけは気が付いたのだ。

この機会だから、好奇心旺盛なアナタにだけは披露しておきましょう。
他の歴史事件と同様にそれに関わった人物の名を冠しているのです。

えぇ、首謀者・西郷隆盛号・南洲)の名字から「西」を、号から「南」
を頂戴して「西南戦争」・・・
文句なしスキなしのさすがに鋭い考察と自画自賛している今日この頃です。




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