日本史の「列伝」13 戦国諜報員は悠々自適

「本能寺の変」(1582年)によって、織田家は絶対的な権力を有していた
織田信長(1534-1582年)と、その後継であった嫡男・信忠(1557-1582年)
を一挙に失ってしまいました。
ではこの後の織田家をいったい誰が継承したらよいものか?


 oda_nobukatsu_51.jpg 織田信雄

家臣団の挙げた候補者は信長次男・信雄(1558-1630年)と三男・信孝
(1558-1583年)でした。
当時の年齢などからしても常識的な判断です。
ところが、重臣の一人である羽柴秀吉(1537-1598年)だけが別に信長の
嫡孫(嫡男信忠の嫡男)である三法師(織田秀信/1580-1605年)を
「三人目の候補者」として打ち出したのです。
そのため、局面はいささか複雑な展開を迎えることになっていきます。

じつは、この時の家臣団のほとんどが「織田家の再建」を目指していたのに
対し、一人秀吉だけはそれとは異なる構想を抱いていたのです。
織田家を乗っ取る。
それは、それまでの主君筋・織田家を実質的な解体を意味しています。

秀吉がまだ赤子に過ぎない三法師を後継に推戴したのも、傀儡政権の
お飾りとして祀り上げ、自らが後見者の地位を占めることで実権を掌握
するつもりがあってのことです。
その上で、残った信孝と信雄に対しては早い時期に引導を渡し、カタを
付けてしまおうとするプランでした。

まず標的にされたのは信孝でした。
簡単に言うなら、秀吉はあらぬイチャモンをつけることで信孝を切腹に
追い込んだということです。

つい最近まで父ちゃんの家臣に過ぎなかった秀吉が、その主君の息子である
自分に対して、こともあろうに切腹を申し付けたのですから、信孝の腹の虫が
収まるはずもありません。
さりとで、イケイケドンドンにある秀吉をヘコませるだけの妙案もない
ままに、歯ぎしりの思いを抱いて尾張国・野間の地で果てました。

その際の信孝の辞世の句が、ちょっとスゴイ!
~昔より 主を内海(うつみ)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前~
切腹を命じた羽柴(筑前守)秀吉に対して込めた恨みがド迫力です。

この句は、昔のこと同じ尾張国・野間の内海の地で源義朝(頼朝の父/1123-
1160年)を騙し討ちにして、義朝の政敵である平清盛(1118-1181年)に
その首を献じた逆臣・長田忠致(生年不詳-1190年?)の故事にかけたもの
とされています。

ただし、出典は同時代ではなく、ずっと後の江戸時代以降の軍記物だそう
ですから、信孝のホンマモンの辞世の句とするにはイマイチ怪しい感じも
しないわけではないのですが。

信孝にケリをつけたら、返す刀で今度は信雄です。
鋭敏さに乏しい印象(平たく言えばボンクラ)、世間からこんな評判を頂戴
していた人物ですから、謀略に長けた秀吉にとってはそれほどの苦労も必要
としないはずでした。
ところが、いかにボンクラ信雄であっても自分の身の危険ということとも
なれば、さすがに敏感になるものです。

亡父・織田信長の盟友であった徳川家康(1543-1616年)の
フトコロへ緊急避難したのです。
信雄をどうにかしようとすれば、秀吉はいやでも家康を相手にしなくては
ならない状況を作ったのですから、これは意外に冴えた判断・行動でした。

~戦上手でもあり、父ちゃんの盟友でもあった家康に手を出すなんて
 ことは、さすがの秀吉も躊躇するだろう~

そう踏んでの避難行?でしたが、「織田家乗っ取り」の目標に向かって邁進
する秀吉の神経はそれほどヤワではありません。

信雄を追い詰めるためには一戦交えることさえ厭わなかったのです。
そこで起きた羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営による正面衝突が
いわゆる「小牧・長久手の戦い」(1584年)です。
ところが、開戦から半年以上も経った頃、家康があずかり知らないところで
秀吉と信雄の間で講和が整っていたのです。



 oosakano_jin_01.jpg 大坂の陣

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出し抜かれた形になった家康は、参戦する大義名分を失い本国・三河へ帰還
するよりほか方法はありません。
~(秀吉と信雄の)講和は天下にとってまことにめでたいことと存ずる~
おそらくその胸中は煮えたぎるほどにムッセムセだったはずですが、そこは
さすがに家康も大人の言動を示しました。

打倒秀吉のチャンスを逸した家康は内心はともかくも、これ以降の言動を
秀吉に恭順する姿勢を示したものにしていきました。
ところが、一代の権勢を築き上げた秀吉といえどもどうしても突き破る
ことができないものがあってのです。 ~人間は誰でもいずれ死ぬ~ 
この真実は時代の寵児・秀吉にも例外ではありませんでした。

重石になっていた秀吉が消えてなくなってみると、家康は誰にも遠慮が
要らない立場に立っていました。
そこで、かつて秀吉(豊臣)が主君筋・織田家を乗っ取ろうとしたように、
今度は家康自身がその豊臣家の取り潰しに動き出したのです。

豊臣家支持派と徳川家支持派の間で繰り広げられた実質的な「次期天下人
決定戦」である「関ヶ原の戦い」(1600年)がその手始めでした。
では、これまで秀吉と家康の間を泳ぐような立場にあった織田信雄は
この時どういう行動をとっていたのか?

現代人の「小牧・長久手の戦い」以後の信雄に対する注目度は、それ以前に
比べ明らかに低くなっています。
早い話が、それ以後の信雄については、あまりよく存じ上げていないと
いうことです。
もちろん筆者もその例外ではありませんから、そこはちゃっかり付け刃で
調べてみることにしました。

そうすると、早々にこんな説明に遭遇しました。
~関ヶ原の戦いでは、大坂にあって傍観的態度に終始している。
 一説には石田三成(豊臣方/1560-1600年)を支持したとも、(あるいは)
 畿内における西軍の情勢を密かに家康へ報じていたとも伝えられる~


信雄のこの「傍観的態度」が西軍(豊臣方)に与したものと判断されたせいか
改易されたとされていますが、その反面で徳川方の諜報員もどきの任務を
こなしていたとも伝えられているわけです。

続いてはこんな説明にもぶつかりました。
~(関ケ原の戦い)後は豊臣家に出仕したが、大坂冬の陣(1614年)の
 直前に徳川方へ転身する~

当時、この信雄が豊臣方の総大将になるとの噂もあったそうですから何とも
不可解な動きということになります。 しかしこれには、
~のちに家康から大名に取り立てられていることから、大坂城内での情報を
 流す間者であり、その働きが評価されるほどであったと推察される~


ということは、つまりは織田信雄は結局のところ徳川方の戦国諜報員として
活躍していたってことになるの?
もしそれが真相だとしたなら、その信雄を疑いもせず大坂城内に招き入れた
豊臣方のお歴々はあまりにお人好しだったといえるのかもしれません。
これでは戦に勝てなかったのも無理はない?

さて、その織田信雄のさらにその後の半生はこうなっています。
~(大坂夏の陣/1615年の)後に、家康から五万石を与えられる~
諜報員?としての働きが評価されてのご褒美だったかもしれません。

さらには、
~京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送った~
こうだったとすれば、ある意味、戦時の戦国時代と平時の江戸時代の双方で
それぞれに象徴的な時代的生き方を送ったことになりそうです。

そこで、ウラから考えてみると、
~織田信雄はデキが悪い~だなんて評判(世論)自体が、徳川方が
意図して流した謀略だったのかもね。
えぇ、徳川家康って何しろ「タヌキ親爺」ですから、世間を欺くなんて
ことは朝メシ前の昼メシ後なんですよねぇ、じつは。




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