日本史の「陰謀」29 女傑は婚家粛清も厭わない

歴史の劇的変化の時期には、その主役もどきの人物が登場するものです。
例を挙げるなら平家滅亡に至る時期がまさにその通りで、実際ここの局面
では「奇跡の三連戦三連勝」※を成し遂げた源義経(1159-1189年)の活躍
に目を奪われて他のことにはあまり意識が向かないものです。
※一の谷の戦い 1184年/屋島の戦い 1185年/壇ノ浦の戦い 1185年


yoshitune_dannoura_01.jpg 源義経・壇ノ浦の戦い

この局面における義経のカリスマ的行動は、敗者平家側はもちろんのこと、
勝者側のトップである兄・源頼朝(1147-1199年)の存在さえ影が薄くなって
いるということです。

但し、平家滅亡後はその状況がすっかり様変わりします。
活躍の場を失った弟・義経はすっかり過去の人となり、今度は兄・頼朝に
新たな注目が集まります。
武士という新たな階層の代表者の立場に立ち、史上初の武士政権樹立に
挑戦したという事実からしても、それはある意味当然なことかもしれません。

ここからの歴史の展開、すなわち奥州に追い詰めた義経を死に至らしめたこと、
またその義経を匿った奥州藤原氏を滅ぼしたこと、さらには征夷大将軍の
地位を要求して朝廷・後白河法皇(1127-1192年)とサシの会談を行ったこと。
これらについては頼朝抜きで語ることはできません。

ちなみに、この際の「サシの会談」では征夷大将軍を要求した頼朝に対して、
後白河法皇はにべもなくそれを拒絶したとされています。
武家の棟梁である頼朝としてはちょっとばかりトホホな姿でしたが、その
ガンコ親爺・後白河法皇の崩御の直後には早速に新天皇・後鳥羽からOKを
取り付けています。

ちなみのちなみになりますが、頼朝が多くの御家人を集めて開催した
いわゆる「富士の巻狩り」(1193年)に際しては、兄・祐成と弟・時到の
曾我兄弟が、父親の仇とした工藤祐経(1147-1193年)を討ったいわゆる
「曾我兄弟の仇討ち」が起こっています。

その頼朝が悲願の征夷大将軍に就いた後の状況はまた少し違った印象に
なります。
妻である北条政子(1157-1225年)及びその実家である北条家の行動に
なんとも微妙な雰囲気が感じ取れるからです。

この頼朝政子夫婦の間に子は四人いました。 年齢順にこうなります。
大姫(1178-1197年)木曽義仲嫡男・義高と婚約/享年20歳
頼家(1182-1204年)後の第二代将軍/暗殺死/享年23歳。
三幡(1186-1199年)乙姫とも/頼朝死の五か月後病弱死/享年14歳。
実朝(1192-1219年)後の第三代将軍/暗殺死/享年28歳。
よくよく眺めてみると、この姉弟四人全員が結構若い年齢で亡くなっている
ことに気が付きます。

中にはとんと気が付かなかったという迂闊者もおられるかもしれません。
しかしまあ、いくら昔のこととはいえ、揃いも揃って30歳に届かない年齢で
亡くなっていることはやはり尋常とは言い難い。
そこで、この時代に起きた一連の史実を主役・頼朝側からではなく、
脇役であるはずの妻・政子とその実家・北条一族の側から眺めてみると
いったいどうなるものか。


minamoto_sanetomo_ansatsu_01.jpg 源実朝・暗殺事件

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頼朝の後の征夷大将軍の地位を継承した頼家・実朝の兄弟は二人揃って
暗殺に倒れていますが、まず兄・頼家の場合はこんな説明になっています。
~兄・頼家の後ろ盾である比企氏と、弟・実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、
 北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した~


さらにその後に、
~将軍職を剥奪された頼家は、伊豆国修善寺に幽閉された後、北条氏の
 手兵によって殺害(1204年)された~

念を押せば頼家の死には北条氏、つまり母・政子の実家である北条家の
関与があったと言っているわけです。

これが弟・実朝の場合になるとこんな案配です。
~雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎え、夜になって神拝を終えて
 退出するときに「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁(兄・頼家の次男)
 に襲われ実朝は落命(1219年)した~


要するに甥っ子の手によって暗殺されたということですが、但しこの時
公暁(1200-1219年)と名乗った者が本当に公暁本人だったのかはイマイチ
疑問が残ります。

というのは、齢十代である公暁の顔を知った者もなく、またこの直後には
その公暁本人も殺されてしまい、確かめる術も失われたからです。
「死人に口なし」の状況がものの見事に出現しています。

では、この時もまだ以前通りに~弟の実朝を担ぐ北条氏~だったのか?
じつは、この点は大いに疑問です。
というのは、この頃の実朝は武士の棟梁という身にありながら朝廷社会に
擦り寄る姿勢を色濃く見せていたからです。

~朝廷に媚びを売るような将軍では埒が明かん~
武士側からすれば、実朝は朝廷側に取り込まれたアブナイ将軍ということに
なります。
少なくとも、政子の実家・北条家はそう考えたことでしょう。

平家を滅ぼした功労者である源氏の人間を金看板としてトップに据えて、
その後援会長もどきの立場で権力を握っているのが政子の実家・北条家
なのです。
その金看板・征夷大将軍が、対峙する朝廷側に取り込まれてしまったのでは、
それまでの苦労も水の泡であり大失態です。
つまり、兄・頼家の場合も弟・実朝の場合も、その時点の北条にとっては
もはや役に立たないだけでなく、いささか危険人物的な存在になっていた
ことになります。

では、政子自身はそうした将軍排除という実家・北条家の方針・企て?に
まったく気が付かなかったものか? おそらく、そんなはずはありません。
頼朝亡き後の鎌倉幕府で「尼将軍」と呼ばれ、朝廷との正面衝突「承久の乱」
(1221年)に怯むことなく臨んだ女傑ですから、政治の機微にもすこぶる
敏感だったに違いないのです。

要するに、頼家や実朝に対する武士団の処置(暗殺)には母・政子も
それなりの関りがあった、それが言い過ぎなら、そうした企てにうすうす
気づきながら黙認していた、これくらいはいえそうです。

なんとも凄まじいお話になってしまいましたが、まんざら絵空事でも
ないと感じられるのは二人の子供の暗殺だけではなく、夫・頼朝もが
いささか不可解な死に方をしているからです。
~死因は落馬と言われるが定かではない~

それに先の「富士の巻狩り」における曾我兄弟の仇討ち騒動も、
その真相は「頼朝暗殺未遂事件」だったとする見方もあります。
ですから、ひょっとしたら、武家政権・鎌倉幕府創立の大功労者であり
初代将軍に納まった頼朝でさえも、北条家にとっては危険な言動を見せ
始めた御用済みの存在になっていたのかもしれません。

それで思い当たるのが頼朝長女・大姫の存在です。
対立した木曽義仲との和睦のため、頼朝は義仲の嫡男・義隆高と
僅か6歳の娘・大姫を婚約させました。
実態としては、頼朝が義高を人質に取ったということです。

ところがその後、頼朝と対立した義仲が敗北したことで義高が処刑されて
しまいました。
そして、この出来事に大きな衝撃を受けた大姫は心と体をすっかり病んで
しまったのです。
その後に至って父・頼朝が後鳥羽上皇へ入内させるべく躍起になったものの、
大姫自身はこの縁談を拒み通し、病が癒えることなく20歳で早世しました。

~対峙するはずの朝廷に取り込まれてしまいそうな将軍~
この時の頼朝の姿には後の三代・実朝と重なるものがあります。
ですから、頼朝も頼家や実朝と同様に妻・政子の実家である北条氏の
手にかかったという顛末も考えられないわけではないということです。

要するに政子の実家である北条家からすれば、頼朝・頼家・実朝の源氏三代
にわたる将軍のお歴々はハナからお飾りの存在に過ぎなかったということ
だったのでしょう。
この後の「北条」政子がいわゆる「尼将軍」と目されるほどの力を発揮し、
幕政をリードしていった事実をその傍証として挙げることができるのかも
しれません。




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