日本史の「ペテン」02 騙しが築いた和平の価値

日本史の中には「南北朝時代」という時代区分があります。
念のためですが、言葉は似ているものの「南北朝鮮時代」という隣国の
歴史のことではまったくなく、日本史における以下の時期を指しています。
~皇統が南朝と北朝に分裂抗争した1336年から両朝が合一した
 1392年までの 57年間をいう~


その分裂抗争となった経緯はこんな説明になっています。
~鎌倉幕府滅亡(1333年)後、後醍醐天皇(1288-1339年)と対立した
 足利尊氏(1305-1358年)が京都に光明天皇を擁立したため、
 後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、以後、朝廷は互いに争った~


朝廷が二つもできちゃったわけです。
そうなると両者の区別も必用でしょうから、両朝のうち京の光明天皇側を
北朝、吉野の後醍醐天皇側を南朝と呼んでいることになります。
その理由は京都と吉野の地理的な位置関係です。


 nannbokutyou _map_01.jpg 南北朝

では、打倒鎌倉幕府路線でそれまで協力関係にあった後醍醐天皇
足利尊氏が袂を分かつことになった理由は?
これも単純明解で、自らの天皇親政に拘り続ける後醍醐天皇に対し、尊氏は
鎌倉幕府に代わる武家政権の成立を目指していたからにほかなりません。

両者の青写真がこのように異なってしまったからには、後醍醐天皇が尊氏の
存在を認めるはずもなく、そこで尊氏は別に光明天皇を樹て、そこから
征夷大将軍に任命される形を取りました。
ここに室町幕府が成立し、室町時代(1336-1573年)が始まったことになります。

しかし、このあたりの歴史区分はいささか複雑で、じつは「南北朝時代」と
「室町時代」はスタート時期が同じになっているのです。
もっとも、日本史は必ずしも各々に完全独立した時代区分にはなっていません
から、一部分が重なりあっていてもそれほど奇異な思いを抱く必要はない
のかもしれません。

念のために、このあたりをウィキペディアで確認してみると概ねのところ
こんな時代区分になっています。
○鎌倉時代 (1185-1333年)   ※後醍醐天皇らによる倒幕
○建武の新政(1333-1336年)   ※後醍醐天皇の親政
○室町時代 (1336-1573年)   ※足利尊氏が征夷大将軍
  ◇南北朝時代(1336-1392年) ※室町時代の初期57年間ほど
  ◇戦国時代  (1493-1590年) ※室町時代の末期98年間ほど

うっへぇ~、ややこしいなぁ。
この区分に基づくなら、いわゆる「純正・室町時代」とは南北朝時代が
終焉した1392年から戦国時代の幕開きとされる1493年までの約100年間と
いうことになりそうです。
他の時代に比べ「室町時代」がイマイチ分かりにくい印象になるのも、
この辺りの複雑さが原因の一つなのかもしれません。

それはともかく、知ってみたいのは分裂を続けていた両朝が最終的に
「合一」(一本化)に至った経緯です。
それまで何かと睨み合っていた者同士が、よくよく話しあって最終的な
「合意」に至ったということなら、これはノーベル平和賞顔負けの実に見事な
「平和実現」と評価することもできます。

しかし、平和というものは、まあ普通は当事者間の話し合い程度のぬるい
やり方では実現しないものです。
このことは、おそらくは世の古今東西を問わず当たり前のことなのでしょう。
分かりやすく言うなら、清廉潔白なホワイト手段だけによる平和実現は
メッチャ難しいことであり、そこには必ずと言っていいほど騙しやペテン
まがいのグレー手段や、あるいはいささか後ろめたさを感じるブラック手段さえ
必要とするということです。

たとえば現代日本が平和国家となれたのも、先の戦争でアメリカの
ブラック手段(原子爆弾投下)に見舞われたことが大きく影響していたと
見ていいでしょう。
決して楽しい話題ではありませんが、それがなかったらあの時点で敗戦を
認め降伏に及んだ可能性も低く、その後の平和国家建設へ邁進した姿も
ひょっとしたらなかったかもしれないということです。

その点は「南北朝合一」とて決して例外ではありませんでした。
要するに、この場面でも歴史の法則に則った遠慮なしのブラック手段も
用いられたということです。
その中心的な役割を果たした人物こそ、室町幕府創立者・足利尊氏の死の
ちょうど100日後に生まれた孫の第三代将軍・足利義満(1358-1408年)
でした。


ashikaga_yoshimitsu_51.jpg 室町幕府第3代将軍・足利義満

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ではどんな解決策を採ったのか?
それについては、これくらいの説明になっています。
~1392年、南朝の後亀山天皇が皇位の象徴である三種の神器を北朝の
 後小松天皇に譲り、両者の合一が実現した~


しかし、これだけでは話が見えてきません。
そこで、もう少し突っ込むと、要するに義満はこんな意向を示し合一の
ための仲介を務めたということになります。
~現在のように二系列の皇統が続くことは朝廷の権威を損なうものであり、
 国家としても望ましい姿でない。 ゆえに今後は朝廷を一本化した上で、
 南北朝双方の天皇が交代で即位することにしたらどうか~


天皇即位の正統性を担保するのは、「三種神器」を所持している事実。
これは昔の昔から変わらないこの国の大原則です。
ですから、「三種神器」は歴史的にはいわば「日本国の権利書」もどきの
扱いがされてきたわけです。

そこで、各々の天皇が正式な権利書?である「三種神器」を備えて即位して
いくのであれば、皇統も自然に一系となり、南朝か北朝かという派閥意識は
氷解し問題は解決する。
義満はこのような仲介案?を示したことになり、両朝廷はこれに乗った
わけです。

ただし、北朝・後小松天皇に「三種神器」を渡す立場になった
南朝・後亀山天皇はさらに念を押しました。
渡す交換条件として、今後は両系が間違いなく交互に皇位に就くこと
強く強く求めたのです。
「日本国の権利書」?を相手側に渡すのですから、これは当然の念押しです。

「三種神器」を受け取る北朝側の、それに対する返事は素直なものでした。
~あい分かりました。 今後ともお互いによろしくやっていきましょうに~
しかし、実際に北朝側が皇位についた後、その固い約束は反故にされました。

要するに、これ以降南朝系の天皇が皇位に就くことはなかったということです。
早い話が、「南北朝合一」とは義満が仕組んだ大ペテンだったのです。
しかし、不満の嵐は吹きすさびましたが、このことによって南北朝の合一が
成り、両者間の抗争が希薄になっていったこともまた事実です。

さて、こうした経緯を知った上で、この室町幕府第三代将軍・足利義満の
行動を、現代日本人はいったいどのような評価を下すものか。
少なからずこうした意見が登場することが予想されます。
~和平をもたらしたと言ったところで、それは人を騙す・ペテンにかける
 などダーディなやり口であるからして高い評価はできない~


要するに、清廉潔白な手段で築かれた正々堂々の和平でないと何かしら釈然
としない、言葉を換えれば、どこかに何かしら後ろめたい気持ちが湧いて
きてしまうんですねぇ。

ですから、義満が果たした「南北朝合一」という大事業は、現代日本人に
とってはあまり有名な事件でもなく、また人気もそれほど高いものには
なっていません。
それどころか、卑怯臭い手段を用いたことに対しての批判・非難めいた心証を
吐露する現代日本人も少なくないと言っていいのかもしれません。

しかし、そうした汚れ仕事?を断固やり抜いたという点からすれば
足利義満という人物はある意味日本人離れしていたと言えそうです。
少なくとも、日本史の中で「時代を作った人物」の一人に挙げられる。
むしろ、そのように見るのが資源という気がするところです。




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