日本史の「落胆」06 戦国の赤貧天皇三代記

第103代・土御門天皇(1442-1500年)の崩御を受けて即位したのが、
その第一皇子で、この第104代天皇は、その後崩御(1526年)されるまで
務められ、後柏原天皇(1464-1526年)と諡名されました。


sokuirei_reiwa_01.jpg 即位礼正殿の儀

「天皇」と認められるには、その血筋が問われるのは無論ですが、
儀式の上でも神経質で細かな約束事が必要とされています。
なにせ「神の子孫」という立場ですから無理もありません。

天皇を務めた経験がない筆者ですから、その詳細まで把握することは
できませんが、そうした中でも少なくとも「践祚」と「即位式」は
天皇として欠かせない儀式として格付けされているはずです。

折角ですから、以下の用語についても確認しておくことにします。
「践祚(せんそ)」
→いわゆる「三種神器」を先帝から継承し、同時に天皇の位を受け継ぐ
 ことであり、今回令和になって即位された第126代の天皇である
 今上天皇もそのための「剣璽等承継の儀」を行っています。
 <2019年(令和元年)5月1日>

これだけでOKかといえばさにあらず。
さらには「即位式(そくいしき)」を行う必要もあるのです。 
じつはこれがないと「一人前の天皇」?ではなく、瑕疵ある天皇という
見方をされる場合もあるようです。

「即位式(そくいしき)」

→天皇が践祚の後、皇位を継承したことを天下万民に公示する儀式で
 あり、今回の今上天皇もその「即位礼正殿の儀」を行いました。
 <2019年(令和元年)10月22日>

非常に特殊な例かもしれませんが、歴史上には、践祚のみを行い
即位式が行われ(行え)なかった天皇もおられます。
朝廷VS幕府の衝突した「承久の乱」(1221年)の影響を受け、
史上最短の在位期間(2ケ月余)の記録保持者である第85代・
仲恭天皇(1218-1234年)です。

こうした環境下にあり、しかも超々短期の在位だったため即位式も行えず、
いわゆる「一人前の天皇」と認められませんでした。
崩御の後でさえ、長きに渡って「九条廃帝/承久の廃帝/半帝/後廃帝」
などと呼ばれていたのです。
つまり「廃位扱い」ということで、天皇としてはカウントしないことに
されちゃったわけです。

なんとも、まあお気の毒な運びですが、じつは明治新政府も同じような
心証を抱きました。
~権威の中心に天皇を置く政権という性格上、廃帝・半帝の存在を
 認めるような態度では我が明治新政府の沽券に関わる~

といったところでしょうか。

そこで、この廃帝・半帝を「仲恭天皇」と諡名し、第85代に当たる
「一人前の天皇」として扱うようになったのです。
じつは、これと同様の危機を味わった天皇が、戦国時代に登場して
います。
そして、その危機の遠因を辿っていけば、「応仁の乱」(1467-1478年)
まで遡ることになるのです。

室町幕府管領家の家督相続に端を発した「応仁の乱」は、その後に
将軍家の後継争いも加わり、遂には全国規模にまで拡大した騒乱です。
朝廷の本拠地である京の全域は、主要な戦場となったことで壊滅的な
被害を受けました。
要するに、とことんの荒廃ぶりを呈したということです。

そんな有様でしたから、公家衆の中には生活が立ち行かなくなって
身分を棄てる例もあったようです。
そればかりか、天皇家自身も収入が激減し、献金による売官に精を
出すことで、なんとか糊口を凌ぐ始末です。
これでは「大喪の礼」や「即位礼」など、金のかかる儀式を思い通りに
運べるずもありません。
そうした社会情勢の中にあって迎えたのが、第103代・土御門天皇の崩御、
そして、続く第104代・後柏原天皇の即位だったのです。


ouninno_ran_01.jpg 応仁の乱

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この時期の三代に渡る天皇の貧乏ぶりときたら、それはもう尋常では
なく、それはもう胸を張って「超」と冠できるほどのレベルでした。
そこで、その「超貧乏ぶり」を順を追って眺めてみることにしましょう。

庶民ですら死ねばそれなりに弔われるのに、第103代・土御門天皇は
崩御されても、そのようにはしてもらえませんでした。
その理由は? 天皇家が葬儀費用を工面できなかったからに他なりません。
売官献金などでなんとかヤリクリできる貧乏とは格が違って、
~御遺体は40日も御所に置かれたままだった~
というほどの超貧乏ぶりだったのです。

先代の天皇にの崩御があれば、直ちに次代の天皇が即位されます。
それが冒頭の先代・土御門天皇とその後継・後柏原天皇の関係に
なりますが、その貧乏ぶりはここでも大きな問題を起こしました。
践祚し即位はしたものの、それはいわば天皇家の私事の範囲であり、
天下晴れての公式天皇と認められるには「即位式」なる儀式が不可欠、
というのがこの国のルールです。

ところが並大抵でない貧乏ぶりの上に、しかも少々生活を切り詰めた
くらいでは捻出できる額でもないために、即位式はずるずると先送り
されたのです。 では、いったいどのくらい先送りされたの? 
半年? それとも一年? ええぃ、思い切って三年?

世の中そんな甘いものではありゃあしません。
驚くなかれ、悲願の「即位式」は践祚から、なんとまるまる21年を
待たなければならなかったのです。
悲願の「即位式」を挙行できたのは、崩御の僅か五年前のことでした。

それでも「即位式」までこぎつけたことは幸運でした。
だってこれがないままだと、それこそ昔の第85代・仲恭天皇のように
廃帝・半帝の扱いを受け、歴代天皇にカウントされないリスクさえ
あったからです。

肩身の狭い思いをしながら60歳のすぐ手前にさしかかって、やっと
「即位式」を迎えることができた後柏原天皇は、さぞかし大きな安堵を
味わったことでしょう。
~やれやれ、これで朕も諡名される立場になり、間違っても廃帝と
 呼ばれる危険はなくなったわい!~


「即位式」に間に合った後柏原天皇は、確かに危機を脱することに
成功しましたが、その後柏原天皇崩御を受け、次代の第105代として
即位したのが後奈良天皇
こちらも即位式を迎えられたのは10年後のことだったされています。

その貧乏ぶりでは、決して爺チャン・土御門や父チャン・後柏原に
引けをとるものではなく、「世界史上最も困窮した君主」の有力候補に
挙げられるほどの迫力でした。

折も折、日本布教を目的として来日を果たしたキリスト教宣教師
フランシスコ・ザビエル(1506-1552年)は、まず国主である天皇を改宗
させることで布教活動に弾みを付けようと京を目指していました。
ところが、そのザビエルが目撃した御所は相次ぐ戦乱で荒れ放題。
「目論みは上手く運ばない」と踏んだザビエルは天皇への面会すら
望まなかったとされています。

もっともこれはザビエルによる一方的な主張であり、実際にはザビエルが
望んだところで、天皇面会は叶うことではなかったはずです。
なぜなら、伝統的慣習としても無位無官の人物ザビエルの天皇面会が
許されるはずがないからです。

それはともかく、ではこの後奈良天皇は、どんな方法で生計を立てて
いたものか?
分かりやすく言うなら、一種の「押し売り」でした。
自身の直筆、つまり「後奈良天皇の宸筆」を大量に作り、それを金を
持った連中に売りまくるわけです。

天皇から「朕の書を与える」と言われては辞退もできませんし、また
それを「タダで頂く」なんて厚かましい真似もできることではありません。
かくして、後奈良天皇は腕も折れよとばかり書きまくり売りまくり、
それで生活費を稼ぎ出したということです。

ですから、第103代・土御門/第104代・後柏原/第105代・後奈良の
戦国の世における三代に渡る天皇の筆者的印象を述べるなら、
どうしてもこれくらいのタイトルになってしまうわけです。
えぇ、「戦国の赤貧天皇三代記」・・・いささか不敬に過ぎますねぇ。




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