日本史の「謎解き」30 陸軍省御用商人の自決

明治時代に入ってから初、つまり近代日本初の汚職事件とされる
「山城屋事件」(1872年)。
それは、当時の陸軍大輔(次官)・山縣有朋(1838-1922年)や、また事件の
名称にもなった陸軍省出入りの御用商人・山城屋和助(1836-1872年)らに
よる莫大な公金使い込み事件でした。


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山城屋和助/(長州)奇兵隊で山縣有朋の部下だった

ちなみに、山城屋和助(当時の名は野村三千三)は長州・高杉晋作
(1839-1867年)が創設した奇兵隊に参加した折に、山縣の部下として
戊辰戦争(1868-1869年)にも参戦しています。
そして、その目覚ましい活躍は、後に芝居にもなったほどでした。
そうした山縣との縁もあって、山城屋は次第に陸軍省・長州人脈に
食い込むようになっていったのです。

陸軍に向けた軍需品納入などのビジネスがウハウハに繁盛したのも、
おそらくはそうした「縁」を最大限に活用したということでしょう。
言葉にするなら、まさにイケイケドンドンの勢いでしたから、この
当時の山城屋自身は「怖いものなし」の気分だったかもしれません。

その勢いをもって山城屋は、山縣ら長州系の陸軍省官僚から莫大な額
の公金を借りることに成功しました。 
生糸相場投機の意図があってのことで、貸し付けに踏み切った長州系
軍人官吏たちの方も、「持ちつ持たれつ」ということでしょう、
その見返りとして山城屋から多額の献金(賄賂)を受けたようです。

その山城屋自身も、また公金を廻した長州系軍人たちも、生糸相場の
先行きについては何らの不安を感じていませんでした。
~まあ、公金を一次的に借りるカタチにはなるが、たちまちに
 ウハウハの儲けを生み出して、すぐさま返済するのだから、誰にも
 文句はあるめぇ~

山城屋自身はおそらくはこの程度の気分だったのでしょう。

また、陸軍省側も、
~まあ、公金を一次的に横流しすることにはなるが、すぐに全額返済を
 受ける手はずなのだから、そうした作業の中でウハウハの儲けの
 一部をフトコロにしたところで、バチは当たるめぇ~


ところが、取らぬ狸の皮算用とはまさにこのことで、ヨーロッパ
における、いわゆる「普仏戦争」(1870-1871年)勃発の影響をモロに
受けて肝心の生糸投機は大失敗。

焦った山城屋は陸軍省から更なる公金を借り出し、フランスに渡り
ました。
フランス商人と直接取引をすることで、事態打開を目論んだわけです。
しかし、滞在したパリで逆にこの山城屋の行動に注目が集まって
しまいました。
~観劇や競馬など連日ド派手に豪遊しているあの東洋人は
 いったい何者なのだぁ?~


それだけに留まらず、現地では女優との交際や富豪令嬢との婚約話
などの噂まで広がったこともあって、これを不審に思った駐仏公使が
日本の外務省に報告。 
このことによって総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚したのです
が、これ以後の不可解な出来事を含み「山城屋事件」(1872年/明治5年)
と呼んでいます。

「65万円程度では中古車1台さえ買えないではないか」
お若い方はこれくらいの印象を持つかもしれませんが、実は当時の
国家歳入のほぼほぼ1%に当たるともいわれた超大金なのですから、
疑惑は当然に山縣ら陸軍省にも向けられます。

~陸軍大輔・山縣有朋が、同郷で親交があった陸軍御用達の商人・
 山城屋和助に、勝手に陸軍省公金を貸し付け、その見返りとして
 金銭の享受を受けていたのではないか?~


結論から言えば、事件の全体像が解明されないうちに幕引きと
なりました。
事件発覚後、事件のカギを握る人物・山城屋和助が自殺してしまった
からです。


 yamagata_aritomo_01.jpg
山縣有朋/(長州)奇兵隊で山城屋和助の上司だった

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そのあたりの経緯はこのように説明されています。
~当時、陸軍省では長州閥が主導権を握っていたが、他藩出身官僚が
 ここに発生した公金疑惑を好機と捉え、陸軍長州閥の糾弾に出た~

要するに、派閥抗争ということでしょう。

追い詰められる形となった山縣は、事態打開のために、ついに山城屋を
日本に呼び戻しました。
しかしその結果は、山城屋には借りた公金を返済する能力がないことが
明らかになっただけのことで善後策は見つけられませんでした。

こうなると、山城屋と親しかった山縣ら長州閥官僚は一転、山城屋との
関係を一切絶つ行動に出ます。
~ワシは、山城屋とはハナから関りがないゾ~ということで、要するに
山城屋を見捨てたわけです。

さて問題はここからです。
~窮地に立たされた山城屋は手紙や関係書類を処分した後、
(発覚と同年の)1872年11月29日、陸軍省に赴き、山縣への面会を
 申し入れたものの、これを拒絶されたため、面会を諦めた山城屋は
 陸軍省内部の一室で割腹自殺した~


一般的にはこのように説明されていますが、当然ながら、これは
山城屋本人による説明ではありません。
山城屋本人はその場で「割腹自殺」したからです。

そこで、割腹自殺の経験もない未熟者の筆者なぞには、こんな疑問も
浮かんでくるのです。
~割腹自殺をするのに、こんな場所を選ぶものだろうか?~
自分を利用した挙句に最後には見捨てた「陸軍省」の本拠地なのです。

確かに「当てつけ」と理解することもできるのかもしれません。
しかし、逆にこうも考えられないか?
~山城屋の死は自殺によるものではない~
もっと直截な言い方なら、
~山城屋は陸軍の手で消されたのではないか~

なにせ、「陸軍省本拠地」での出来事ですから、アリバイ作りも
証拠隠蔽工作も自由自在であり、しかも死因が凄惨極まりない
「割腹自殺」とされているのです。
別の言い方をするなら、
~事件の行方に不安を覚えた陸軍省・長州派閥が山城屋を手に掛け、
 巧妙なシナリオに基づいて、その殺人行為を自殺と扱うことで、
 事件の幕引きを図った~
ようにも見えなくはない光景です。

こういう表現は大変に失礼なことかもしれませんが、長州という風土が
幕末の頃から既に「テロリスト体質」を備えていたのも事実です。
事態が行き詰まれば、丁寧な対応より「問答無用!」の行動に突っ走る
体質と言っていいのかもしれません。

家臣の意見具申を例外なく受け入れ、常に「うん、そうせい」と回答して
いたことから「そうせい侯」とあだ名された幕末の長州藩主・毛利敬親
(1819-1871年)もこう述懐しているほどです。
~あの頃は、そうでもしないことには殺されていたかもしれん~

そうした環境の延長線上で考えるなら、山城屋の死が公表された
「割腹自殺」でなかったとしても、さほどの驚きではありません。

そうだったとしたら、陸軍はシナリオ通りの実に巧妙なやり方で、
「死人に口なし」を実現したことになります。
この「自殺」によって「山城屋事件」は一件落着となり、その真相が
究明されることのないままに終焉となったからです。

そして、事件発覚によって、一旦は陸軍大輔を辞任せざるを得なかった
山縣は、翌1873年には初代陸軍卿(大臣)として復活を果たした
ばかりか、後には第3代(1889-1891年)・第9代(1898-1900年)の
内閣総理大臣も務め、さらには亡くなった1922年には国葬の栄誉まで
受けました。

そうした山縣の燦然と輝く栄誉を、山城屋和助は草葉の陰から、
いったいどのような気分で眺めていたものか。




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