日本史の「異国」08 日本国王は辞退します

昔の昔、日本の卑弥呼の時代(紀元3世紀)よりもさらに500年ほど昔と
いうことになりますが、紀元前3世紀頃の中国大陸では、諸国どんぐりの
背比べの中から抜け出した(前221-前206年)が抜け出して統一国家を
実現しました。

つまりこの時、勝者・秦の国王は敗者である諸国の国王の上に立ったと
いうことになります。
こうなると、秦の国王である(前247-前210年)にこんな思いが芽生える
のは当然かもしれません。
~勝利国のトップであるワシの称号が、敗戦国のトップと同じ「国王」の
 ままではいかにも整合性を欠くではないか~


そこで、政は新しく「皇帝」という称号を誕生させ、さらに史上初めての、
つまり「初代皇帝」という意味合いを込めて「始皇帝」と名乗りました。

一般的にこの称号は、中国の伝説上の聖王である「三皇五帝」から採った
ものと言われていますが、それとは別に、他ならぬ政自身が古い称号の
「泰皇」から「皇」を、また「帝王」から「帝」を選んで「皇帝」という
ニュー称号を創作したとの説もあるようです。

その経緯はともかく、肝心なのは、ニュー称号「皇帝」を誕生させたことに
よって、従来の称号である「国王」はその下に置かれる位置付けになった
ことです。 そりゃあ、そうでしょう。
諸国の「国王」は「皇帝」に敗北しちゃったわけですから。

そこで「皇帝」は、自身の中国以外の諸国のトップに対して、中古品の
ままの「国王」という称号を与えたわけです。
いいや、この説明はちょっと違うなぁ。

中国自身は、中国以外に国はない、つまり「外国」なんてものはありゃあ
せんと受け止めているわけですから、(中国の)周辺地域に過ぎない、
しかもその一部エリアを治めるボスを「国王」と呼んだ、との説明に
するべきかもしれません。

ですから、ずっと後のお話になりますが、中国の「周辺地域」のひとつで
ある「倭国」(現在の日本)の各地を治めるボス連中も、中国皇帝からは
「国王」と呼ばれるようになりました。

志賀島(現福岡市)で発見(1784年)され、現在は国宝にもなっている
金印には「漢委奴国王」と彫られていますし、邪馬台国の女王・卑弥呼に
対しては「親魏倭王」との封号が与えられたとされています。
どちらの文言も、~中国皇帝がオマエを倭の国王として認めてやるゾ~
という意味合いになっているのです。

多分この頃の「倭国王」は、このことを素直に喜んでいたのでしょう。
なんと言っても、世界一のスーパー超大国がこの倭国の存在を認め、
そしてまた「このワタクシメを倭国王として認めていてくださるのダ」と
いった感じだったでしょうから無理もありません。

ところが、この倭国が群雄割拠の時代を経て、曲がりなりにも統一国家の
体を成すようになると、こんな思いも芽生え始めます。
~中国皇帝の臣下に過ぎない称号「国王」を頂いて喜んでいるようでは、
 一人前の独立国家ということにはならない~


つまり、中国皇帝から授与された「国王」ではなく、我が国独自の
称号が必要だと考え始めたわけです。
人間でいうなら、「自我の芽生え」と言ったところでしょうか。
ともかく、自分の国が一人歩きできる独立国であることを外国に知らしめる
ためには、それなりのチェンジが必要と考えたわけです。

たとえば、国内向けには「大和」で十分だった自分たちの領土・国家を
対外的には「日本」に変えていったのと同様に、国内では「大王」
(おおきみ)と呼んでいた存在を、対外的には「天皇」と呼ぶようにして
いったわけです。

shikoutei_zou_01.jpg kinin_shingiwaou_03.jpg
    秦・始皇帝像  /印・親魏倭王

 既読クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



要するに、
~中国が「中国」と名乗るのであれば、こちらは「日本」じゃい!~
~中国が「皇帝」と名乗るのであれば、こちらは「天皇」じゃい!~

ということで、中国と同格の存在であることをアピールし始めたのですから、
中華思想にかたまった超大国・中国からすれば、楽しい気分になれるはずも
ありません。

このように中国に対し、目一杯のツッパリ姿勢をみせていた日本でしたが、
時と場合によっては、それなりにヨイショする姿勢も見せています。

南北朝時代(1336-1392年)のこと、九州を掌握する南朝・後醍醐天皇の
皇子・懐良(かねよし)親王が、中国(明)皇帝から「日本国王良懐」※の
封号を頂戴しています。

内乱の時代ですから、懐良親王はイザの際には中国を頼りにすることで
コトを優位に運ぼうとしたのかもしれません。
※なぜか、名の「懐良」部分が封号では逆の「良懐」になっている。

こればかりか、室町幕府三代将軍・足利義満(1358-1408)が、
「国王源道義」※として日本国王に冊封されています。
実は、この見下した称号を義満は積極的に受け入れ、自らの経済活動に
活用しました。
中国を相手にした「国際貿易」は莫大な富を生み出したからです。
 ※ 源道義→足利義満本人のこと(本姓は源で号を道義としていた)。

もっとも、当の中国自身はこれを「貿易」とは認めていません。
~僻地の国王が中元・歳暮を貢いできたのなら、それなりの褒美を
 取らせないことには「皇帝」としてのの沽券に関わる~
という理由から「何倍返し」もしますから、これは国王連中からすれば、
ウハウハの儲け話ということになるわけです。

義満も、この「日本国王」という称号を最大限活用してメッチャ儲けた
はずで、さらには、その莫大な利益は、自らの政治基盤強化のために
使われたであろうことに疑問を挟む余地はありません。

この「国王」という称号を巡るエピソードは、戦国時代にも用意されて
いました。
他ならぬ豊臣秀吉(1537-1598年)で、要するに一度目の中国遠征
(文禄の役/1592-1593年)の後の、中国(明)側との講和交渉の
最中にそれは起こっています。

実はこの時、日本明国双方の講和担当者は穏便に講和交渉を進めるために、
それぞれ偽りの報告をしていました。
日本側は明国降伏という報告を受け、明国は明国で逆に日本降伏という
報告を受けていたということです。

この段で、「日本国王」という称号が登場しました。 
自分達が勝利したと信じている中国(明)側は「負けた秀吉」に対し、
~キミを日本国王にしてやろうゾ~
しかし、これまた自分たちが勝利したと信じている秀吉ですから、
~何を寝ぼけたことを言っているんじゃい、ミソ汁で顔を洗って出直して
 こいッ!~

秀吉はこの「日本国王」の意味をよく知っていたのでしょう。

余談になりますが、この時の秀吉はプッツンのあまりに国書を破り捨てた、
とのお話もあるようですが、それはどうやら「戦国の都市伝説」?の類で、
実際には豊臣政権三中老の一人・堀尾吉晴(1543-1611年)が保管し、
現在も重要文化財として所蔵されているとのことです。

こうした「国王」という言葉の歴史の流れからすると、たとえば「KING」と
いう英単語の日本語訳を「国王」とするのは、ちょっとばかりヘンなのかも
しれません。
「イギリス国王」なんて言い方だと、本来的には中国皇帝の臣下という
ことになってしまうわけですからね。

もっとも現代では「中国皇帝」という存在はありませんから、一党独裁体制
を堅持する中国共産党こそが皇帝である、と言えるのかもしれませんがねぇ。



 既読クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



--直近の記事------------------------
608 日本史の「タブー」12 使者はなぜ殺されたのか 上から目線は許せない
607 日本史の「デジャヴ」07 言霊商標の平和万能薬? メルヘン系平和論
606 日本史の「ライバル」04 神々の悠久なるリベンジ 連敗後に逆転勝利
605 日本史の「微妙」12 日本もじ文字バラエティ 多彩な種類とルール
604 日本史の「数字」01 文政テーマパーク殺人事件 天下の三蔵も罪連座
603 日本史の「ツッパリ」26 時世時節が変わるは悪だ 何事も先祖に倣え
602 日本史の「大雑把」03 昔年齢をイメージする 百歳超えの四十七士?
601 日本史の「陰謀」28 名君なおもて暗君をや 君は一代御家は末代
-------------------------------
ヤジ馬の日本史~超駄級・600記事一覧~ №501-599編 だがしか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・500記事一覧~ №401-499編 満腹握りめ史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・400記事一覧~ №301-400編 颯爽ろくでな史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・300記事一覧~ №202-299編 堂々肩すか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
-------------------------------

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント