日本史の「タブー」12 使者はなぜ殺されたのか

「蒙古襲来」あるいは「元寇」という当時の日本国にとって歴史的な
大事件は、概ねのところこんな説明になっています。
~日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として
 東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国
 である高麗によって二度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である~


早い話が、日本は元国と高麗の多国籍軍の遠征に対する防衛戦争を二度
までも強いられたということです。 そして、
~一度目を「文永の役」(1274年)、二度目を「弘安の役」(1281年)という~

さらには、こんな説明も補足されています。
~特に二度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界
 最大規模の艦隊であった~
ことと 地理的には、
~主に九州北部が戦場となった~ことも説明されています。

一度目の「文永の役」の後も、鎌倉幕府は相変わらず強気の姿勢を続けて
いました。 それには、こんな事情がありました。
そもそも「鎌倉幕府」とは、武士が組織した軍事政権であること。
そのために、いくら相手の強いと分かっていても、おいそれと頭を下げる
マネはできないこと。

うっかりそんなことをしようものなら、「軍事政権」という自らの
アイデンティティを自らが否定することになってしまうからです。
それにもう一つ、その軍事政権・鎌倉幕府の事実上のトップである執権の
座に就いていたのが、まだ二十歳代の若さの北条時宗(1251-1284年)
だったことも挙げられるかもしれません。
言葉を換えれば、血気盛んな年代のトップということです。

さらには、一度目の「文永の役」で元軍を撤退させることに一応は成功
したこともあって、「敵に勝利した」という気分が少なからず、その強気に
影響を与えていたかもしれません。

実は、この「文永の役」の経緯に対する日本側の朝廷、及び幕府、そして
遠征を企て実行した元国それぞれの、戦果に対する評価は三者三様で、
大きく異なっていました。
元々から武士の存在や戦争事態を「穢れ」と捉えている朝廷は、鎌倉武士の
奮戦をハナから無視する態度に出ています。
~神仏に対して、我らが全力真剣に祈願に努めたことで「神風」を招き、
 それこそが元軍を打ち負かす原動力になったのでおじゃる~


ところが、幕府はリアリストですから、そんなメルヘンチックなお話には
付き合いません。
~我らの渾身の戦闘が元軍をひるませ、撤退させたのじゃ~
朝廷と幕府は、これほどに異なる受け止めをしていたのですが、ドッコイ、
当の元王朝の皇帝・クビライ(1215-1294年)に至っては、日本側とは
まったく異次元にある感触を持っていたのです。

どうやら、元国は当初からこんなプランに基づいて動いていたようです。
~上陸を果たして大宰府を確保すれば、食料などの現地調達にもメドが
 立つから腰を据えて戦を続ければよいだけのこと。
 しかしまあ、そこに至らずとも、今回の接触で我が方の実力は日本側にも
 十分に伝わったことだろう~


早い話が、
~スーパー超大国・元国の実力を思い知ったのなら、チンケな日本人どもよ、
 無駄な抵抗はやめて、こちらが本気モードになる前に早く降伏しなさい~

この「文永の役」後の行動をみると、元国側は明らかにそんな気分に浸って
いたと推測されます。


kubirai_01.jpg genkou_takezaki_02.jpg
元・クビライ皇帝/「蒙古襲来絵詞」(部分)

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「文永の役」の翌年、元国は日本に向けて降伏を勧める「使節」を送って
います。
日本に到着したその「使節」五人は、とにもかくにも天皇や将軍に会って
国書を渡すという大きな役割を背負っていました。

「文永の役」で元国の実力を思い知らせた日本に対し、ダメ押しをしておく
意味があったのです。
ですから、その国書は、当然こんなイメージの内容になります。
~今回はこのくらいにしておいてやるが、次回はもっと多くの軍隊を送る
 こともできるのだから、今のうちに言うことを聞いた方が賢いよ~


ところが、勝ったつもりになっている日本側にしてみれば、元国側の
この行動は、まさに「ヘソで茶を沸かす」ほどにナンセンスなものでした。
~敗者が勝者に降伏勧告だなんて、チャンチャラ可笑しい~
こういう受け止めるのは当然です。

そこで幕府は、長門国(現山口県)に上陸した「使節」五人を捕え、
当人たちを本拠地・鎌倉へと送りました。
そして、執権・北条時宗は一行を幕府処刑場に引き出して、あろうことか
全員の首をはねてしまったのです。

おそらく、現代人の多くは時宗のこの行動を認めがたいと感じるでしょう。
~おいおい、なんと言っても外国の「使節」一行なんだぜ、それを問答無用
 で斬り捨てるなんて、いくらなんでも時宗のこのやり方は乱暴に過ぎや
 せんか~
同時に、こんな思いを抱くかもしれません。
~せめて、話し合いのテーブルにつくくらいのことはするべきだ~

確かに、外交使節を斬ってしまう事態は、当時としても普通と言える
出来事ではありませんでした
戦争・外交ルールの無視ということになりますが、幕府はそれを承知の上で
強行しているのです。 

なんでまた、そんな?
若く血気盛んな執権・北条時宗のイケイケドンドンの気分がそうさせたのか?
いいえ、鎌倉幕府はこの「使節」を穏やかに迎え入れることができなかった
のです。 なぜなら、鎌倉幕府は「軍事政権」だからです。

実はこの「使節」の正式な役職名に大きな問題がありました。
それは、ごくごく普通の外交の場合のように「元帝国大使」に類するもの
ではなく、なんとまあ、「宣諭日本使」といいました。
なんのこっちゃ、その「宣諭日本使」って?

日常会話でこの「宣諭」(せんゆ)という言葉を使う機会はほぼほぼ
ありませんが、まあ「(上意を)述べ(民を」諭すこと)」ほどの
意味合いになるようで、もう少し丁寧な説明なら
~目下の者に物事の道理をよくわかるように話し聞かせる。
 納得するように教え導く~
意味だとされています。

ですから、この「宣諭日本使」を素直に解釈すれば、
~クビライ皇帝が、バカな日本人に分かるように言い聞かせてやる~
その役目の者ということになり、明らかに「上から目線」です。

鎌倉幕府からすれば、この「宣諭日本使」という役職名も無礼千万なら、
ましてや、しらーっとそれを送ってきたクビライに至っては、それこそ
言語道断の厚顔無恥の輩ということになります。
~無礼にもほどがあるッ!~ということです。

しかし、世界一の国家、というより自国以外には「国家」はないとする
元国は、そうした日本の切歯扼腕の感情にとんと気がつきません。

日本からの返事がなかなか返ってこないところから、元寇側が
~愚かな日本人の「宣諭」には、ホント多くの時間がかかるよなあ~
と受け止めたのか、数年後には再度の「宣諭日本使」です。
幕府はハナから一歩も引かない決意ですから、今度は博多でこの使節一行
全員を処刑(1279年)しました。

こうなれば、両者の衝突は不可避の状況となり、実際史実としても二度目の
遠征「弘安の役」を迎えてしまいました。

  「使者はなぜ殺されたのか?」→それは「上から目線」だったから。
では「死者はなぜ殺されたのか?」→それは殺されて死者になったから。
ということで、どうでもいいつまらぬ駄ジャレのために話を引っ張って、
いやぁ申し訳ない、許せよ。



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