日本史の「大雑把」03 昔年齢をイメージする

「関ヶ原の戦い」(1600年)に勝利し、戦国乱世の最終勝者となったのは
豊臣政権五大老の一人である徳川家康(1543-1616年)でした。
その数年後には自らが征夷大将軍に就き「江戸幕府」を創立していますから、
家康はこの時点で事実上天下を掌握したことになります。

そうした家康に対して、数多の大名は抵抗姿勢を改め、そのことによって
「戦国の世」にも落ち着きが感じられるようにもなりました。
しかし、それは「関ヶ原」で負けた側の全部が全部、滅亡してしまったと
いうことではありません。

家康が台頭する前の天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の後継秀頼
(1593-1615年)を擁した豊臣家も、現に存続していましたし、同様に
負け組?になった中国・毛利氏も九州・島津氏もまたその通りでした。

確かに「関ヶ原の戦い」に対する敗戦ショックは小さくはありませんでした。
しかし、すっかり意気消沈してしまうほどの絶望とまでは言えず、むしろ
捲土重来を睨んだ前向き?の受け止めすらあったように感じられます。

もしそういうことであったなら、徳川勢力が実績を積み重ねてしまわない
うちに早目早目に動いた方が有利に運ぶような気もするのですが、
ところが、どの勢力も急ぐ姿勢を示すこともなかった印象で、この辺りが
ちょっと腑に落ちません。

~チャンスは遠からずやってくるのだから、なにも慌てる必要はなく、
 ここはむしろ拙速を避けることが賢明である~

つまり、こうした気分が多くの者の共通認識になっていたようなのです。

「関ヶ原」に負けちゃったのに、なぜそこまで悠然と構えていられるのか?
おそらくは、勝者・徳川家康の年齢に対してこんな胸算用を抱いていたの
でしょう。 
家康は「関ヶ原の戦い」の折でも、すでに60歳近くに差し掛かっており、
幕府創立に至っては60歳を優に超えていました。

「人間五十年」と謡われた時代の60歳ですから、誰の胸にもこんな思いが
巡っても不思議ではありません。
~敢えて戦を仕掛けずとも待ちの姿勢を保っていさえすれば、数年後には
 家康殿の寿命も尽きる・・・だから今、なにも慌てる必要はない~


家康の台頭を一番苦々しく思っていた、それまでの主家・豊臣家の淀殿
(1569?-1615年)もおそらくは同じ気分を抱いていたことでしょう。
家康よりもなにせ二十歳以上若いのですから、「待つ」ことはちっとも苦に
なりません。

ではこの時の家康の「60歳」を現代の齢感覚に直すなら、いったい
どれほどの印象になるのか?
ただしこれは感覚のぶんやですから、精緻な科学的手法が存在しているわけ
ではありませんが、ひょんなところでこんな公式?に出くわしました。

たまたま、「逆説の日本史」の著者・井沢元彦氏の日本史本の一説に、
こんな意味の文言が掲載されていたのです。
~試案ながら、「昔の人の年齢を0.75という係数で割り算」することで、
 概ね現代の年齢感覚に近いものになるのでは?~


たとえば、昔は15歳くらいで元服、つまり一人前の大人扱いされるように
なったのですが、これを上式に当てはめると、
「(昔)15歳、割ることの0.75で(現代の)20歳」となり、ほぼほぼ妥当な
換算式になるのかもしれません。

ただし、これが「適正体重=(身長m)2乗 ×22」のように複雑で面倒くさい
公式?なら、筆者のようなズボラ人種はハナから無視しますが、単純に
「0.75で割る」だけのことですから、なんとか我慢もできようというもの
です。

そこで、この公式?に基づいて征夷大将軍に就いた頃の家康を現代感覚の
年令に直してみると、「60歳割る0.75」で概ね80歳になります。
ウーンそうなると、誰もが~家康殿の寿命は先が見えている~と考えたのは、
むしろ常識的な判断だったように思えてきます。

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吉良邸討ち入り(1703年)/堀部弥兵衛(77歳)

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ところがギッチョン!
数年後どころか、実際に家康が死んだのは、なんと75歳の時だったのです。
これも現代感覚に直せば、「75歳割る0.75」で、なんと100歳。
超長寿時代と目されている現代ですら、100歳まで長命は「誰でも」という
わけにはいかなくて結構難しいものがあります。

要するに、家康の「享年75歳」はそれくらいに考えにくいことだったわけ
ですから、多くの者が待ちぼうけを食わされたまま、「捲土重来」の
チャンスを失ったことになります。
その意味からすれば、「家康の長命」は、徳川家以外の多くの者にとっては
大迷惑以外の何物でもなかったわけです。

しかも、死を迎える前年には豊臣家を完全に滅ぼして、徳川家子孫の後顧の
憂いを取り除いておいたのですから、家康と言う人物はやはり只者では
ありません。

ここでお話はひょっこり飛んでしまいますが、「長命」繋がりでお話を
展開するなら、その家康より百年ほど後の時代の堀部金丸弥兵衛
/1627-1703年)も取り上げたいところです。

金丸と呼ぶよりは弥兵衛の通名の方が親しみが持てるかもしれません。
要するに、後年人気を博した芝居などの「忠臣蔵」のモデルになった
「元禄赤穂事件」(これは史実)において、殿中刃傷事件を引き起こした
主君・浅野内匠頭(長矩/1667-1701年)が切腹を申し渡されたのは
腑に落ちないとして、後日、「吉良邸討ち入り事件」(1703年)決行
した実行部隊四十七人のうちの一人です。

堀部弥兵衛はこの「討ち入りメンバー」の中の最年長者でした。
1627年生まれとされていますから、単純に数えても、討ち入り時の年齢は
かれこれ77歳、いわゆる「喜寿」の年齢になり、これも先の公式?で
現代感覚年齢に換算してみると「77歳割る0.75」で、ナント優に100歳超え!

芝居「忠臣蔵」の描き方に沿えば、その100歳超えの超高齢者が、他人様の
屋敷に果敢に武装突入したばかりではなく、刀を振り回してのケタ外れの
行動まで披露したことになり
~堀部弥兵衛は、スーパーマンやバットマン並みの超人ヒーローなのか?~
こんな思いにも駆られてしまいます。

ところが実際には、吉良邸に討ち入る際の弥兵衛は、
~高齢のため、梯子を使って屋根に上るにも連れてきた家僕の助けを借りた~
とも伝わっており、そこまでの超人ぶりは発揮できなかったようですが、
現代だって、100歳超えの超老人が梯子を上るのは実際チョックラチョイと
容易なことではありません。
ですから、家僕の手助け程度のことで上れたとしたなら、逆にこれまた
メッチャ凄いこととの評価になりそうです。

また、その「100歳超え」?超老人の、討ち入った後の行動には、
~両国橋前の広場から泉岳寺まで籠に乗って行った~とか、
~泉岳寺から行程が必要になった折も籠に乗った~とかもあったと伝わって
いますが、これは現代ならさしずめ「介助スクーター」を使って外出した
ほどのイメージになるのでしょうか。

100歳を超えた年齢時のアナタ自身を想像してみてください。
ちょいとした手助けを貰えば、梯子を上り切れますか?
「介助スクーター」があれば、外出して用事を済ますことができますか?
こうしたことを想像するなら、堀部弥兵衛がちょいと「凄過ぎる超高齢者」
であったことは間違いなさそうです。

また、「昔の人の年齢を0.75という係数で割り算」して現代年齢感覚を
イメージする井沢元彦氏の試案公式?も、これはこれで案外のこと的を
射たものと言うことができるのかもしれません。



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