日本史の「トホホ」28 大没落に遭遇した管領家

戦国英傑・織田信長(1534-1582年)については、こんな説明もされています。
~その出自は、尾張守護・斯波氏に仕える守護代・織田氏の、そのまた
 家老家の織田家である~
 また別には、
~越前朝倉氏の創始者・広景(1255-1352年)は斯波氏に仕えていた~
こちらも越前を拠点として戦国の世に存在感を示した家です。

このどちらの説明にも、「斯波氏」という名称が登場するのですが、
さてその「斯波氏」がイマイチよく分からない。 そこでしばし沈思黙考。
いえね、ここでの「しばし(暫し)」は「斯波氏」に掛けたダジャレに
過ぎませんから、あまり気にしないでください。

それはともかく、この「斯波氏」には、信長の「桶狭間の戦い」(1560年)
もどきの逆転大勝利や、あるいは武田家滅亡に至った武田勝頼(1546-1582年)
の「天目山の戦い」(1582年)のような大惨敗など、戦国時代ならではの
エピソードが語られることが多くはないようです。
そのため、筆者的にはそのイメージ・輪郭すら浮かんできません。

こうした前途絶望・どん詰まり状態を打開する方法として、ダイレクトに
「斯波氏」そのものに挑んでみることにしました。 それによれば、
~室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、細川氏・畠山氏と
 交代で管領に任じられる有力守護大名であった~
ということです。

言い換えるなら、~幕府の副将軍家ほどの家格を誇った~わけですから、
その守護代に過ぎない尾張国・織田家や、越前国・朝倉家に比べたら、まさに
月とスッポン、提灯に釣鐘ほどに違う群を抜くセレブだったワケです。 
それにしては、筆者的には何かしら影が薄い。

たとえば、尾張の織田家・織田信長/越前の朝倉家・朝倉孝景(敏景)/
越後の上杉家・上杉謙信/甲斐の武田家・武田信玄/といった具合に、
この時代には家名とともに、まあ大抵一人や二人の個人名が連動して浮かぶ
ものですが、斯波氏にはそれが思い浮かばない。

うーむ、どういうことだろう? またまた、しばしの沈思黙考です。
すると、どうだろう、こんな説明にぶつかりました。
~室町幕府三管領のひとつである斯波氏嫡流は、室町時代にも斯波姓で記述
 される例はほとんどない~

じゃあ、なんだぁ、「シバ」を用いなかったとすれば、「サバ」とか
「ソバ」って呼んだってか? 隔靴掻痒、勢いあまってのツッコミです。

しかし、落ち着いてみれば、やはりその点もしっかり説明されていました。
~基本的には「勘解由小路武衛」や「武衛屋形」と記されており、
 と呼ばれた~

こうした文字情報を目の当たりにしながら、情けないことに、さあ今度は
その読み方が分からない。
「カンゲユウコウジブエイ」ってか?「ブエイヤカタ」ってか?

ここで挫折するのも悔しいので、もう一歩踏み出してみると、
~勘解由小路家(かでのこうじけ)は日本の氏族の一つで、
 今日日本の戸籍に記載される姓では最長のものである~


自慢じゃないが、「武衛」だって知らないゾ。
~「武衛」(ぶえい)とは、兵衛府(ひょうえふ)の唐名であり、
 天子の側近くいて守護する武官、また将軍のこと~

どちらにせよ、由緒も格式も兼ね備えた御家ということになりそうです。

しかし、まあそうなると、なぜ戦国の世に至ってこれほどまでの実力派
名家が、田舎者の成り上がり者に過ぎない織田信長や朝倉孝景の台頭を
やすやすと許したのか、そちらの経緯が不思議に感じられてきます。
だって、そうでしょ。
天下のメガバンクが地方の信用金庫に食われてしまったようなものですから、
これを不思議と感じないほうがよっぽど不思議です。

斯波氏の本01.jpg 斯波氏武衛陣01.jpg 

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巨大名家(斯波氏)はどうして、田舎者(織田家・朝倉家など)に対抗
できなかったのか?
それについては、こんな説明を見つけました。

信長が生まれる100年ほど前のことになりますが、この武衛家は管領を辞任
した当主が亡くなったあとも、後嗣となった弟や子の早世が相次いだことに
よって、その存在感は管領としてのライバルである細川氏や畠山氏に大きく
水をあけられる形になった、と説明されていて、つまりは、その影響力まで
をも大きく低下させてしまったようです。

しかし、どうやらそればかりの理由ではなかったようで、その説明によれば、
管領ライバル・細川氏が畿内、また同じく畠山氏も畿内近辺に分国を保有
していたのに対して、この武衛家の分国は尾張・越前といった京都から遠い
場所に分散していたことが挙げられています。
当主は当然のこと京滞在が多いわけですから、管領ライバルの両家に比べ、
なにかとより大きな不便・ハンディを背負わなければならなかったといこと
でしょう。

逆に言えば、
~分国の支配・管理は守護代に委任せざるを得なかった~ということです。
そればかりか、その後の部分の説明は、こうなっています。
~このため次第に分国の実権は越前守護代甲斐氏・朝倉氏や尾張守護代・
 織田氏等の重臣らに牛耳られるようになっていった~

重臣が主家を牛耳るのですから、まさに「下剋上」です。
その「下剋上」を仕掛けた側の織田家や朝倉家の、その後における波乱万丈
の活動ぶりはよく話題に取り上げられるところですが、ではそれを仕掛け
られた側の斯波氏はいったいどうなったのか。

尾張や越前など分国各地で、メッチャ露骨な「下剋上」を同時多発的に
喰らったのですから、たちまち滅亡に至った。 
と、普通ならそう考えたくもなりますが、ところがドッコイ、名家ならでは
のしぶとさを発揮しました。
往時の武衛家当主第15代・斯波義銀(よしかね/1540-1600年)は周辺
有力者と結託し、信長打倒の画策に及んだのです。

信長がいる限りオレの目はない、そう考えたのかもしれません。
ところが事前に発覚、当の義銀は追放され、これによって尾張守護としての
武衛家は滅亡してしまいました。
ただ、大名としての武衛家は、いくつかの系統を踏みながら、この後も
少しの期間存続しました。

しかし、これでやれやれと思うのは現代人の甘さで、実はいずれの系統も
この後には改易という沙汰を食らって、結局は近世大名としての武衛家が
存続することはなかったわけです。

このあたりのお話がややこしくて、筆者も今その渦中に引きずり込まれて
いるわけですが、この義銀の子孫が津田姓を称して代々家老として加賀藩に
仕え、明治維新後には「斯波」姓を復し、そればかりか男爵に叙せられると
いう大いなる名誉まで獲得したとなっています。

それで思うのですが、結構波乱に満ちた歴史を辿りながらも、「斯波氏」
知名度がイマイチなのは、個人名がほとんど登場せず、家名で語られる
ことが多いせいなのかもしれません。
言い換えれば、それなりの歴史好きにとっても、歴史に関わった様子が
イメージしづらいということです。

たとえばの話ですが、この「斯波氏」に「斯波ナントカ兵衛」と名乗る
武将がいて、それが下剋上を狙う織田家と絶えず角を突き合わせていた
なんてというエピソードが一つでもあったら、斯波氏はもっとメジャーな
存在として受け止められていたかもしれません。

えぇ、織田側にもそれなりの緊張感があったでしょうし、
一方の「斯波氏も休まず敵討つ思案」です。
すでにお気づきでしょうが、もちろん童謡・唱歌『村の鍛冶屋(かじや)』
の歌詞、「しばしの休まず槌うつ響き」の罪のないパロディです。
悪しからず。


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