日本史の「微妙」11 将軍トライアル評判記

立派な君主、すぐれた君主のことを「名君」と言います。
また、長い歴史の中で一度衰えたり途絶えたりしてしまった事や物を復興
させることを「中興」といい、そうした「中興」を成し遂げた祖先に対して
「中興の祖」という呼び方も用意されています。

ちなみに、「中興の祖」をもう少し深追いしてみると、この程度の意味合い
になるようです。
~一般に「名君」と称される君主または統治者のうち、長期王朝、長期政権
 の中途、かつ危機的状況後に政権を担当して危機からの回復を達成し、
 政権の安定化や維持に多大な功績があったと歴史的評価を受ける者をいう~


要するに、その功績がほぼほぼデカければ「名君」留まりで、その上の
「中興の祖」と呼ばれるには、さらに超デカい功績を挙げた方のみに、
その資格があることになりそうですが、江戸幕府(1603-1868年)には、
この「名君」と「中興の祖」の両方で称えられた将軍が登場しています。
第八代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)です。

念のためですが、これは江戸幕府の歴代将軍(十五代)のちょうど真ん中
位置の代数(八代)に当たっていることから「中興」と称されているのでは
なく、やはり在任中の実績を評価した上での「中興の祖」ということなの
でしょう。

では、何がそこまでに高い評価に結びついているのか。
自らが主導した、いわゆる「享保の改革」(1716-1745年?)によって、
幕府財政の窮状を立て直したという実績、こういった受け止めがまあまあ
一般的なところでしょう。

少しうがった見方をするなら、日本人好みのエピソード絡みで語られる
ことがあるのも、ひょっとしたら「名君」的イメージを後押ししている
のかもしれません。
~自ら一汁三菜の食事に徹し、質素倹約のライフスタイルを率先垂範した~

また広く庶民の声に耳を傾けるべく、「目安箱」を設置したことなども、
名君イメージの向上に少なからずの貢献をしているように感じられます。
たとえば、福祉政策として「小石川養生所」を幕立病院?として建設・運営、
防災政策として火災に対する消防活動を飛躍的に充実させた
「町火消」の設置・運営などは、この「目安箱」に提案されて、その結果
政策として取り上げられた事案です。

こう並べられると、確かに名君ならではの「政策」を打ち出し、幕府財政
をも好転させた殿様(将軍)だったことにもなって、まことに結構毛だらけ
猫灰だらけで、非の打ちどころもない「中興の祖」ということなりそうです。
しかし、一方ではそのように素直に受け止められないお話も残されている
のです。

じつは、これよりおよそ半世紀後に登場した著作「西域物語」(本多利明)
には、将軍・吉宗の下で年貢増徴政策の実務役を務めた神尾春央(1687-
1753年)の言葉として、こんな文言が紹介されています。
~胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり~

別の言葉なら、「年貢は情け容赦なしで徴収しまくったゾ」となりますから
凄まじい。
部下たちが、自身の勝手な判断でそこまで踏み込めるとも思えませんから、
そこには吉宗将軍の強い指示があったということでしょう。
もっとも、こうした「あまりにも分かりやすい言葉」は案外真相とは異なった
姿で一人歩きしていることもあるので、その点は要注意ですが。

それはともかくとして、もし税収増加という結果が部下たちの強制徴収に
よるものだとしたら、その上司である吉宗を名君と呼ぶにはいささかの
躊躇が働くところです。
「情け容赦なくむしり取られる」ことを嫌うのは、享保時代の年貢も
平成・令和時代のNHK受信料も同様で、これは日本民族の伝統的感性
かもしれません。

それはともかく、吉宗のこの質素倹約一辺倒の「享保の改革」を、面と
向かって批判する者も登場しました。
詳しい素性については分かっていないようですが、吉宗と同じ紀州の出身と
されている山下幸内(生没年不詳)と名乗る浪人が、吉宗の目玉政策
「目安箱」を通じて、こんな内容の意見書を投書したのです。

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小石川養生所(映画「赤ひげ」より)/町火消 く組

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~将軍の(享保の)改革に世間は大きな期待を寄せていますが、しかし
 ながら、その改革政治の現実はその期待に反することがメッチャ多い~

これだけでは十分に伝わらないと思ったものか、いちいちその具体的な
内容にまで触れています。

○将軍自らが質素倹約に努めることは、幕府の冗費削減の意味からも
 たいへん結構なことではあるが、それを世間全般に強いるのは明らかに
 間違いで、そんなことを続けていたのでは天下に不景気を招きかねませんゾ。
○(吉宗が)紀州藩主の時代に行ったような政策は、一地方の政策としては
 成功したのかもしれませんが、チマチマし過ぎで天下の幕府政治としては、
 とても通用するようには思われませんゾ。


吉宗本人は少なからずムッとしたかもしれませんが、目玉政策の「目安箱」
を通じての意見投書ですから、これを封殺してしまうこともできません。
そちらへ走ろうものなら、
~おいおい、将軍サマって随分とケツの穴が小せぇ人物だよなぁ~
こうもなりかねず、自らのマイナス・イメージを拡散させてしまう心配も
あるからです。

そこで山下幸内のこの無礼?を不問にしましたが、ではその後の政策が提言
に沿ったものになっていったかと言えば、じつは「然に非ず」で、目に
見えた変化はありませんでした。
ただ、当時の政局担当者たちはこの「山下幸内上書」に大きな関心を寄せた
ようで、町奉行・寺社奉行・勘定奉行などの部署では、この意見書のコピー
を作成したばかりか保存もしたとされています。
御政道に対する批判をこのように扱ったことは特筆すべきかもしれません。

ともかく、このように進められた幕政改革は、後に「享保の改革」
呼ばれ、江戸幕府のいわゆる「三大改革」の一つにも位置付けられました。
内容の未熟を率直に批判した山下幸内からすれば、おそらくはその評価
自体が不本意なものだったことでしょう。

せっかくですから、その「目安箱」とか「質素倹約」など以外の政策にも
ちょっと触れておくと、
~大名に石高1万石当たり100石の「米」を納めさえる代わりに、参勤交代の
 際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とした~

「上げ米の制」(あげまいのせい)についてはこんな説明になっています。

まるで、幕府が先頭に立って「参勤交代義務を免除する御札」?の販売に
精を出したかのようで、てっきり「爆発的な人気」を呼んだと思いきや
どっこいこんな補足説明も加えられていました。
~1722(享保7)年に制定され1730(享保15)年に廃止された~
要するに、当初期待しただけの成果を得られなかったということかも
しれません。

江戸幕府の基本法典、こう位置付けられる「公事方御定書」もまた
吉宗が主導したとされ1742年に完成しています。
上巻・下巻の2巻からなり、上巻に司法警察関係の法令、下巻には
刑法・刑事訴訟法・民事訴訟法などにあたる法令を収めたものですが、
ここには、いわゆる「切捨御免」の条項も加えられました。

その「切捨御免」って?
~武士に対し無礼に及んだ庶民を切害すること、すなわち無礼討の許容~
ええ、その「切捨御免」のことです。

さらには、士風刷新を目指して「武芸奨励」も打ち出しています。
腕の立たない下手っぴな「切捨御免」を披露されたのでは、逆に武士の
側が恥をかきかねませんから、その意味では当然の配慮?ということかも
しれません。
逆にいうなら、当時の武士が備えた武芸力はイマイチのレベルにあった?

吉宗は、第五代将軍・徳川綱吉(1646-1709年)を心底尊敬していましたから、
ひょっとしたら内心のどこかで、綱吉時代の「吉良邸討ち入り事件」(1703年)
もどきの武士による「武芸」のド派手な発揮を期待していたのかもしれません。



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