日本史の「微妙」11 征夷大将軍そのウワサ話

武家政権(鎌倉幕府/1185年?-1333年)が樹立されて以降、その
トップの座を「征夷大将軍」という称号?で呼ぶことにしました。
その座に就いた人物の数は鎌倉幕府9代、室町幕府15代、江戸幕府15代、
という内訳で、合計では39人になります。

では、この他には金輪際誰も「征夷大将軍」にならなかったかと言えば
じつは必ずしもそうとは言い切れない雰囲気もあるのです。
そこはかとなく微妙な雰囲気も漂っていて、ひょっとしたら、彼らも
ホントは「夷大将軍」に就いたのではないか、あるいは称号こそ違え
「実質的その立場」を認められたのではないかと推察される人物という
ことです。

具体的な名を挙げれば、いわゆる源平時代?に活動した「木曾義仲」
(1154-1184年)が、それに当てはまりそうです。
後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝(1147-1199年)、そして、
その異母弟である源義経(1159-1189年)とは従兄弟(イトコ)の
関係になる信濃源氏の武将ですが、「倶利伽羅峠の戦い」(1183年)
で平氏の大軍を討ち破るや、いち早く入京を果たしています。

「いち早く」ですから、頼朝・義経のイトコ連中より先だったということで
早い話が「一番乗り」ということです。
こうなると、朝廷とてそのあっぱれを認めざるを得ません。
で、「平家物語」によればのお話ですが、義仲はこの時「朝日(旭)将軍」
の称号を授かったとされています。
もちろん、イトコ・源頼朝(1147-1199年)による「鎌倉幕府」が、
まだ影も形もない時期のことです。

しかし、考えてみるに、この「朝日(旭)将軍」という称号には、
ひょっとしたら、ちょっとしたゴマカシが隠されているような気が
しないでもないのです。
実際の歴史では、武士の身分で最初にこの「征夷大将軍」を受けた
のは、これより9年後(1192年)の源頼朝ということになっていますが、
ひょっとしたら、この時の義仲が授かったのは「朝日(旭)将軍」など
ではなく、本当のところは、「征夷大将軍」そのものではなかったのか
という疑惑?です。

要するに、こういう解釈です。
京にあるこの時期の朝廷は、長年に渡って食糧不足と荒廃した治安に頭を
悩ませ続けていたのですが、そんなところへ、活きの良い新顔武将が
武力を携えて入京を果たしたのですから、いやが上にも期待は高まります。

~平家を打ち負かすほどの実力を備えた義仲クンなら、念願の食料や治安
 の問題も、きっときっと、たちまちのうちにも解決できることだろう~

そこで、仕事を進めやすいようにという親心から、その義仲クンに対して
朝廷は「征夷大将軍」を宣下・・・ここまではよかった。

ところころがギッチョン、現実は目論見通りには運んでくれませんでした。
義仲配下の者たちは、食料・治安を回復させるどころか、逆に略奪のやりたい
放題。
義仲は義仲で、入京による気分昂揚からか、本来は無関係なはずの皇位継承
問題にも口を挟む始末。

朝廷はプッツンしちゃいます。
~なんだぁ、義仲のヤロー、ちいとばかり生意気に過ぎやせんか~
こんな経緯で敵対関係に入ったのですから、おそらくこの時点で、
朝廷は義仲に宣下した称号を取り消したはずです。

そんな義仲と入れ替わるように頼朝軍が入京するや、以後影響力を拡大
させ、ついには自前の武家政権を立ち上げるまでになります。
こうなると、朝廷といえどもさすがに放りっぱなしにはできません。
渋り抜いてはいたものの、結局は頼朝に「征夷大将軍」を認める羽目に
なりました。

しかし、ニュー・ヒーローである頼朝に対して、義仲のお古である
「征夷大将軍」を素知らぬ顔して授けるのでは、さすがの朝廷も気が
引けます。 そこで、
~頼朝クンよ、よく聞け。 実はナ、義仲に与えたのは二流どころの称号
 「朝日(旭)将軍」だったのだ。  真に箔ある「征夷大将軍」は、
 武士としてはじつに君が最初なのだゼ~

こんな説明で取り繕い、恩を売ったことも考えられないわけではあり
ません。 

もっとも、ホントは、義仲はどの称号ともハナから無関係だったという
全く逆のお話も考えられます。
ただ、それではあまりに素っ気ないストーリーになってしまうので、
せめて「平家物語」の中だけでも脚色を施して華のある「朝日(旭)将軍」
を登場させたということなのかもしれません。


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木曾義仲/明智光秀

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さて実はもう一人の人物にも、そうしたウワサ話?があるのです。
戦国の世の武将「明智光秀」(1528-1582年)です。
「本能寺の変」(1582年)において主君・織田信長の暗殺に成功した
一週間ほど後のこと、実はこの光秀が各方面に「大盤振る舞い」をして
いるのです。

現代の金額に換算すると幾らくらいになるのかはよく知りませんが、
ともかく、「朝廷」には銀500枚、「寺社」にも銀200枚、また「勅使」にも
銀50枚という具合にお金をばらまいています。

問題はその意図です。
実はこれを、「変」の直後に「征夷大将軍」として認められた光秀の、
朝廷側に対する「御礼金」と見る向きもあるのです。
もしその見方が正しいとするなら、仮に数日間※であったにせよ、
「征夷大将軍・源(明智)光秀」が誕生していたことになります。
※「本能寺の変」6月2日/「光秀自害」6月13日

しかし、この時点では単に「信長暗殺」に成功したというだけのことで、
いわゆる「天下」そのものを手中に収めたわけでもありません。
ですから、まだ先行きが混沌としている「事件直後」の段階で、早々に
「征夷大将軍」に任じられたとは、少しばかり考えにくいという意見も
あるわけです。

それに、「戦国時代」と言うから分かりにくいのですが、よくよく思いを
いたせば、要するに「室町時代」の末期のことですから、当然ながらまだ
その時期には室町15代将軍・足利義昭(1537-1597年)が存在(将軍在職
1568-1588年)していたのです。

そうすると、現職将軍?がいるにも関わらず、それをシカトした上で、
さらに新人将軍?を認めたということになってしまうわけで、これでは
朝廷の信用問題にも関わってきます。
そうした点からしても、やはり光秀の「征夷大将軍」はなかったと
受け止めるのが妥当なのかもしれません。

それに、義仲にせよ光秀にせよ、事の発端から「征夷大将軍」拝受までの
時間がやたら短いこともなんとはなしに不自然な印象になっています。
そうしたことはともかくとして、「征夷大将軍」をウワサされた義仲と
光秀の共通点を無理やりに探してみると、おそらくは偶然なのでしょうが、
こんなことが指摘できそうです。

木曾義仲は~前半生に関する史料はほとんどない~そうですし、
また明智光秀も~青年期の履歴は不明な点が多い~とされています。
そのあたりを重視するなら、
~そういう人物が「征夷大将軍」に就くことを、朝廷はそうそう気楽に
認めなかったのではないか~

要するにハナから論外としていたことだって考えられるわけです。

えぇ、「征夷大将軍そのウワサ話」って、実はまだまだあるのですが、
ここでは一つだけの披露に留めます。
この「征夷大将軍」って、どう読みますか?
普通は「せいいタイしょうぐん」ですが、ではどうしてこれを
「せいいダイしょうぐん」と読まないのでしょう。

理由は単純・・・「征夷大将軍」の称号を武士に与えることが避けられ
なくなった朝廷が、「武士向け仕様」として、そう読ませたのです。
~穢れた武士向けの「せいいタイしょうぐん」なんて、じつは真っ赤
 な偽物で、本物の「せいいダイしょうぐん」はタンスの奥にしまって
 あるものね~


その証拠に「大臣」は「ダイじん」であり「タイじん」ではありません。
なぜなら、朝廷内で頻用する言葉だからです。
そして、こうした根拠も他愛もない「征夷大将軍に関するウワサ話」を
撒き散らしている下手人こそ、誰あろう、ほかでもない筆者自身
なんですねぇ、これが。 済まぬことです。



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