日本史の「大雑把」02 五十年ワシ掴みの江戸幕府

~「江戸時代」とは1603年の幕府樹立から1868年の江戸城明け渡し
  までの265年を指す~
 普通この程度の説明がされています。 
しかし、始まりから終わりまでの265年はいかにも長い。 
もう少しコンパクトに把握できないものだろうか?

そこで思いついたのが、江戸時代265年をエイヤッとばかりに、
約半世紀50年単位で睨んでみる少々荒っぽいやり方です。
実際そうしてみると、あ~ら不思議、とっても分かりやすい?
「江戸時代史」になるのです。 (自画自賛!)

起点は、天下分け目の「関ヶ原の戦い」(1600年)で勝利した
徳川家康(1543-1616年)が幕府を立ち上げた「1603年」と
します。
そして最終地点を、いわゆる「黒船来航」の「1853年」に設定
してみると、さ~てお立ち合い、その間ちょうど250年。
つまり、「黒船来航」以降の15年を「幕末」として扱い、
本体の250年から差し引くわけです。
これなら割り算しやすい数字なので、この間の250年を50年刻み
「半世紀単位」に区切ることもそうそう難儀な作業でもありません。

実際にやってみると、こんな感じに。  
◇1603年 ○「第1半世紀」→戦国時代の清算事業期?
  ↓     江戸幕府創立/以後代々の将軍には徳川氏が就く。
◇1651年 ○「第2半世紀」→一国平和主義を選択。
  ↓     浪人による「慶安事件」/武断から文治政治へ。 
◇1703年 ○「第3半世紀」→好景気から不景気へ
  ↓     赤穂事件・吉良邸討ち入り/久々武士の戦闘行動。 
◇1750年 ○「第4半世紀」→田沼(意次)政治改革の挫折
  ↓     「朱子学」の呪縛で改革を悪とする価値観が定着。
◇1800年頃○「第5半世紀」→近海では外国船が頻繁に姿を見せる。
  ↓     本居宣長「古事記伝」/伊能忠敬「全国測量」。
◇1853年 ○黒船来航。 以降は攘夷で混乱の幕末15年。 

ここまで下準備を整え、その「半世紀」の間の起きた出来事を
ザッと拾うことで、一応の「流れ」は捉れられそうです。 
では、始めてみましょう。

◇1603~1651年 ○「第1半世紀」→戦国時代の清算事業期?
勝者と敗者を鮮明にした「関ヶ原の戦い」(1600年)の後に幕府
を樹立した勝者・徳川氏は敗者側を仮想敵国と見做して、
徹底的な撲滅?に努めています。

前天下人である「豊臣家」を滅亡(1615年)させただけでは済まず
諸藩にも何かと理由(イチャモン?)を付けることで、積極的に
改易(取り潰し)に追い込みました。 
ただ、この方針は失業武士(浪人)を激増させる結果を招き、
これが新たな社会問題(社社会不安・政情不安定)を生むことに
なります。

キリスト教信者の蜂起といったイメージが強い「島原の乱」
(1637-1638年)でさえ、多くの浪人・農民が参加していた実態
には、幕府の圧政・重税がその一因になっていました。 
これが「日本史上最大の一揆」とも言われるのは、そこの理由も
あるのでしょう。

幕府の無策ぶり対して、浪人グループが蜂起した「慶安事件」
(由比正雪の乱/1651年)も、その決起行動自体は失敗に終わり
ましたが、幕府が受けた衝撃は大きく、結局力づくの「武断政治」
から、穏やかな「文治政治」への方向転換を計ることになり
ました。 
つまりこの頃は「戦国時代の清算事業」を遂行していたとも言え
そうです。

◇1651~1701年 ○「第2半世紀」→一国平和主義を選択
「島原の乱」(1637-1638年)の凄まじい反抗ぶりに接した
幕府は、そのことによって大きなトラウマを抱えてしまいました。
「キリスト教はコワい/外国はコワい」ということです。
そこで姿勢を一転させゆや、今度は一国平和主義を選択します。
いわゆる「鎖国体制」へとカジを切ったわけです。

五代将軍・綱吉(在職1680-1709年)になると「生類憐みの令」
の登場です。
この法は「犬を大切にした」という面ばかりが強調され、
天下の悪法とみる傾向が強いのですが、実際の意図は、
~命あるものには慈悲の心で接しなさい~というところにあって、
まさしく「平和主義」を標榜した法と言っていいのでしょう。

また、この時期に「捨て子禁止令」が発布されたのも、裏を
返せば、これ以前の社会では「捨て子」も珍しくない
「人命軽視」の風潮が蔓延っていたからということになるので
しょう。 この新しい国是?「人命尊重」は、
~武士といえどもめったなことでは刀を振り回せない~ほどに
徹底した平穏を是とした社会を作り出していくことになります。

生類哀れみの令01 赤穂浪士01




犬公方・徳川綱吉/赤穂浪士・吉良邸討ち入り

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◇1701-1750年 ○「第3半世紀」→好景気から不景気へ
ところが、「赤穂事件」(殿中刃傷1701年/討ち入り1703年)の
勃発です。
その後に続けて起きた「吉良邸討ち入り」では、久しぶりに
武士が、しかも集団で武器を使っての戦闘を展開したのですから、
これには世間もちょっとばかり驚いたようです。
~へぇ、武士が刀を振り回すこともあるんだぁ~
この大きな意外感が、後世の芝居ドラマの名作「忠臣蔵」を
創り出していったのかもしれません。

しかし、こうした「集団戦闘行為」は平和主義者である将軍・
綱吉の意に逆らうものでしたから、綱吉がメッチャ激怒したのも
無理はありません。
そして、この綱吉の元禄期(1688-1704年)に花開いた好景気も
次第に陰りを見せるようになり、八代・吉宗(在職1716-1745年)
の頃には、なりふり構わぬ財政改革を必要とするところまで
追い詰められています。

朱子学の「御政道に口を挟むな/商業なんて卑しい行為」など、
鉄則?に則って、ひたすら「質素倹約」ばかりを訴える吉宗の
やり方では、実際のところ埒が明きませんでした。
その上に、吉宗主導のいわゆる「享保の改革」では、「増税」を
断行して幕府財政の安定を図ろうとしたのですから、幕府の財政は
ともかくも、そのシワ寄せは世間が背負う結果になりました。

◇1750-1800年頃 ○「第4半世紀」→大改革の挫折
~「農業」中心主義には限界が来ている~
老中・田沼意次(在職1769-1786年)が挑んだ「日本国大改革」
プランは、「農業(米)」中心の財政の在り方から、これを
「商業」重視に移行しようとしたものでした。

ただ、この時期に続けざまに多くの天変地異に見舞われたことは、
朱子学的には、~田沼が徳のない政治家だから、こんな凶事を
招いたのダ~
とされますから、田沼にとっては大きなつまずきと
なり、結局は失脚にまで追い込まれました。

ちなみに、この田沼にまつわる悪口が現代にも伝わっているのは、
その後の老中・松平定信(在職1787-1793年)の努力の賜物?
です。
「商は詐なり」を正義とする朱子学原理主義者?の定信にして
みれば、その「商業」の意義を認めようとする田沼はとんでも
ない「ならず者」に見えていたのでしょう。 
かくして、幕府の「商業重視」への移行は幻に終わってしまった
ことになります。

◇1800-1853年 ○「第5半世紀」→外国船が姿を見せ始める
当時すでに解読不能になっていた「古事記」を、国学者・本居宣長
(1730-1801年)が約35年の歳月を費やして、その註釈書に当たる
「古事記伝」を著しました。
片や約17年の歳月を費やして全国測量の末に、
伊能忠敬(1745-1818)が日本史上初めて国土の精密な姿を
明らかにしたのもこの時期のことです。

つまり、日本人・日本国はその「本質・本物・アイデンティティ」
をこの時期に獲得したと言えるのかもしれません。
折も折、それまでは再々姿を見せていた「外国(船)人」を、
これまた実に根気よく追い払い続けていた幕府でしたが、
最新テクノロジーの結晶?である「黒船」が来航しては万事窮す
・・・しぶしぶ開国はしたものの、その対処は総てがドロ縄式
でした。

その後手後手の対応がまた、この後の15年、いわゆる「幕末期」
をまさしく「内乱」もどきの状況にしてしまいます。
しかし、岡目八目的に無責任な視線で眺めるなら、これは
「近代国家」を誕生させるための産みの苦しみだったと評価する
ことができるのかもしれません。

こうして眺めると、う~ん「265年」はいかにも長い。
いかに長寿狙いの筆者とはいうものの、さすがにここまでの
寿命は無理な気がしないでもありません。
そこで、つい最近のことですが、その目標を江戸幕府の半分の
130歳ほどに引き下げることにしたわけです。

えぇ、将軍・吉宗の「享保の改革」だって、一つ主張に頑固に
しがみつくことで失敗を招いたわけですから、早い話が、それを
反面教師として宗旨替え?に及んだということです。


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