日本史の「タブー」11 怨霊封じ渾身プロジェクト

~「藤原」姓は天智天皇から亡くなるその前日の中臣鎌足に贈られた~
通説ではそうされているものの、前後の経緯からしても、おそらくは鎌足に
ではなく、その息子である不比等(659-720年)に下賜されたものでしょう。
不比等自身に、現在の権勢は姓を下賜された父親・鎌足による「親の七光り」
によるものとする態度を貫くことで、この頃の突出した権力に対する内外の
批判をかわす計算が働いていたのかもしれません。

肩を並べられるだけの力を備えたライバルもいないに状況ですから、不比等
をトップとしたこの頃の藤原氏一族は専横の限りを尽くすことができました。
早い話が~何をしても誰も咎める者はありゃあせん!~状況です。

実際、不比等は第42代・文武天皇(683-707年)の夫人には娘・宮子
送り込み、さらに第45代・聖武天皇(701-756年)にはその妹である光明子
(701-760年)を送り込むなど、天皇家に食い込むというよりは天皇家そのもの
を乗っ取ってしまった感すらありました。
ここにおいて、さらなる専横を目論んでいます。

聖武天皇の周りにいる多数の女性の一人ということではなく、たった一人で
ある最高位の女性、つまり「皇后」に、この光明子を就けようとしたのです。
この頃には、すでに不比等はこの世を去っていましたが、その野望に動き
出したのが、不比等の四人の息子、いわゆる「藤原四兄弟」※でした。
ちなみに、聖武天皇の母・宮子と聖武天皇の夫人・光明子は、ともに
この四兄弟の異母姉妹に当たります。
※長男・武智麻呂/次男・房前<ふささき>/三男・宇合<うまかい>
  /四男・麻呂

現代でこそ、美智子上皇后も雅子皇后も皇室出身者ではないことに何らの
不思議も感じませんが、当時はこのことに大きな拘りが持たれていました。
たとえば、第41第・持統天皇(645-703年/女帝)もその通りでしたが、
後継未定のまま現職天皇が亡くなるなどして、スムーズな皇位継承が困難と
判断されるような場合には、継ぎとして皇后(この場合は持統)がそのまま
横滑りの形で即位することもあったからです。

~ひょっとしたら、天皇になる可能性もある~のであれば、気軽な気分で
「皇族外皇后」を認めるわけにもいきません。 
うっかり認めようものなら、自らのアイデンティティである「万世一系」の
ポリシーすら消滅させてしまう心配もあるからです。
そういうことを防ぐためにも、皇族以外の皇后資格者を認めるわけには
いかなかったのです。

ところが、藤原四兄弟はこのタブー?に果敢に挑戦し、皇族以外出身の
皇后誕生を目論みました。 「光明子を皇后にする」がそれです。
しかし、先例を無視したこの無謀な?目論見に対しては、当然皇族側から
も反対意見が噴出します。
その急先鋒が、不比等死後の政界を担ってきた「長屋王」(684?-719年)
だったのです。

~そんなこと認めてしまったなら、血統の違った天皇が登場することにも
  なりかねず、万世一系のルールすら無視することになるではないかッ~

至極まっとうに感じるこの意見も、現職天皇を手中に収めている藤原氏から
すれば、「それがナンボのモンじゃい!」。
これしきの事でシュンとしていては、父親・不比等に顔向けができません。

逆にその長屋王にイチャモンを付けることで、失脚、いや失脚どころか自殺に
まで追い込んだのです。 いわゆる「長屋王の変」(729年)です。
このことによって、長屋王が大反対した、本邦初の皇族外出身の
「藤原氏皇后」が実現することになりました。

この辺を少し遡ったところから、流れを整理してみるとこうなります。
藤原光明子が聖武天皇が皇太子だった時代に結婚をした後には、
○724年/聖武天皇の即位
○727年/聖武天皇と光明子の間に第1皇子・基王が誕生(727年)
○728年/その基王が夭逝
○729年/「長屋王の変」による長屋王の憤死
○729年/長屋王の死を待っていたかのように、直後に光明皇后が誕生
どう見ても、ここまでは藤原一族の一方的勝利です。

大仏奈良51 高尿皇后01















<奈良の大仏>東大寺盧舎那仏像/光明皇后

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ところがドッコイ、勝者・藤原氏とて万々歳ということにはなりませんでした。
ここに至って、怨霊・長屋王の大逆襲が始まったからです。
もっとも、「怨霊」とは、聖武天皇・藤一族側が、そのように理解し恐怖した
という意味であって、現代人の筆者の受け止めということではありません。

光明皇后を誕生させたことで、メデタシ・メデタシの中にあった藤原氏も、
実はその後十年を経ずして(737年)、四兄弟が半年ほどの間に相次いで
死去という、なんともアンビリーバボーな事態に遭遇したのです。
その死は、長男・武智麻呂/次男・房前/三男・宇合/四男・麻呂、一人
残らず例外なしという徹底した形でした。
なにせ、40歳代50歳代の兄弟が、あれよあれよという間に、続けざまに
息を引き取ってしまったのですから凄まじい。

現在でいう天然痘が原因だったようですが、伝染病の十分な知識も普及して
いない時代のことですから、度重なる不幸に対しても解釈が異なります。
~無実の罪を被せて死に追いやった長屋王の祟りではないか?
  長屋王が怨霊となって我々に対し逆襲に出ているのではないか?~


長屋王をデッチ上げの罪で自殺に追い込んだ張本人たちが、相次いで
死んでいったのを間近に見ていた聖武天皇・光明皇后とて、直接に手を
下してはいないというものの、心穏やかではいられません。
~明日は我が身かも~ 当然このように受け止めます。

生身の人間が相手ならば、天皇・皇后の権威・権力をもって宥めすかせる
こともできるかもしれませんが、もはやこの世も者ではない怨霊が相手とも
なれば、そんなわけにもいきません。
そこで聖武天皇・光明皇后はとんでもないことにチャレンジしたのです。
~こちらも、長屋王の祟りを跳ね返せるだけの強力パワーを整えよう~

その一大プロジェクトは、藤原四兄弟の相次ぐ死から数年後の743年に
発願され、その際の詔はこんな内容でした。
~三宝(仏・法・僧)の力により、天下が安泰になり、命あるものすべてが
  栄えることを望む。 ここに菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の
  金銅像一体を造ろうと思う~


実を言えば、聖武天皇の内心は、
~いかに人間の力ではいかんともできない怨霊であっても、仏様の霊験
  あらたかなパワーなら封じることができるのでは?~

といったところだったかもしれません。
しかし、対外的にはそんな態度を示すわけにはいきません。
そんな態度を取ろうものなら、長屋王を自殺に追い込んだ一味の側に身を
置いていたことがバレてしまうからです。

この大仏様は、着手から7年の歳月を費やし、ようやく完成に至りました。
正式には「東大寺盧舎那仏像」というそうですが、いわゆる「奈良の大仏」
サマのことです。
その開眼供養は着手から7年を経た752年に行われました。

おそらくはこの時の聖武天皇の胸中にはこんな思いが走ったことでしょう。
~やれやれ、これでやっと長屋王の怨霊封じにこぎつけたわい~
ところがギッチョン・・・それほどの「やれやれ」にはなりませんでした。

大仏開眼からわずか4年、当の聖武天皇が崩御(756年)。
さらにその4年後には、「皇族以外から初の立后」を果たした光明皇后
も亡くなりました。

当時とするなら、聖武天皇も光明皇后も、それこそ「国家プロジェクト」という
べき「最新テクノロジー」を駆使した大事業が、充分な効果を発揮する前に、
人間としての寿命の方を先に迎えてしまったことになります。

で、長屋王の怨霊パワーは、その聖武天皇・光明皇后の死をもって終焉した
のかといえば、実際のところ、そんな生易しいものではありませんでした。
その聖武・光明夫妻の娘である第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇の重祚/
718-770年)の代に至って、その血統が断絶してしまったのです。

これを怨霊・長屋王の祟りと結び付けていいのかどうかは分かりませんが、
ともかく、あの「奈良の大仏」サマには、当時の人々の間で展開された
どろどろの権力闘争が陰を落としていることだけは間違いなさそうです。

そして、もう一つ。
怨霊という神道的信仰に、仏という仏教的信仰を正面から対峙させる構図は、
日本人の根底に根付いた宗教観を象徴しているように見えて、まことに興味
深く感じるところでもあるのです。



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