日本史の「例外」02 天皇家好きの将軍家親戚

~朝方(午前9時頃)、藩士15名を含めた総勢60名ほどの護衛を従え、
  彦根藩邸を出た大老・井伊直弼(1815-1860年)は、江戸城の入口・
  桜田門の前で暴漢集団に襲われ絶命(即死)に至った~


これが今から160年ほど前に起きた「桜田門外の変」(1860年)です。
その彦根藩邸から職場・江戸城の入口まで実は僅か五・六百メートルほどの
距離。 その僅かな移動を狙った要人テロ事件でした。

今風なら、多数のSPに警護された総理大臣が、近隣の宿舎を出て、目と鼻の
先にある議事堂まで移動する途中にテロリストに急襲され即死に至ったという
ことですから、これでは政府の顔は丸潰れです。
事実この信用失墜によって、これ以降の江戸幕府は滅びの道を突き進むこと
になります。

襲撃犯は総勢18名。 そのうちの17名までが水戸脱藩浪士でした。
(あとの一名は薩摩藩士)
浪士とはいうものの、実際には藩に迷惑をかけないよう、予め「脱藩」の措置に
至ったものであり、直前までは正式な「水戸藩士」だった者たちです。

「水戸藩」といえば、「将軍家」に次ぐ家格とされる「御三家」の一つです。
直前に脱藩したとはいえ、御三家の立場にある元・藩士が、将軍に仕える
大老を謀殺したということですから、お話がイマイチ分かりにくい。

井伊大老の言動に対して、浪士たちが大きな不満を抱いていたことが、
決起の動機として挙げられています。
○勅許(天皇の許可)を得ないまま「条約締結」に至った措置は許せん!
○攘夷を熱望されている「天皇の御意思」を無視した態度は許せん!
などなど。
なるほど、そういうことが動機の一端になったことは事実でしょう。

しかしながら、薩摩藩の一人を除いては他藩の誰一人も加わっていない
ことや、同じく「御三家」にある尾張藩や紀州藩にも、襲撃に加わった者は
いない事実も考え併せるなら、「水戸藩」そのものに何やら特殊な?雰囲気が
備わっていたようにも思えてくるところです。

だったら、それは何か?
お話は江戸幕府が創立された頃(1603年)まで、250年余遡ります。
幕府創立者となった徳川家康(1543-1616年)が、晩年に授かった三人の
息子にそれぞれの家を持たせています。

  ○九男・徳川義直(1601-1650年)尾張藩
  ○十男・徳川頼宣(1602-1671年)紀州藩
○十一男・徳川頼房(1603-1661年)水戸藩

これが本家「将軍家」をサポートすべく創設されたいわゆる「御三家」ですが、
本家をサポートするべく存在ですから、例えるなら、天皇家の分家?「宮家」を
真似したものと見ていいのかもしれません。
いわば「本家のスペア」・・・でありながら、家康はこの「御三家」の内、
水戸藩だけには濃厚な勤皇思想を持たせています。

乱暴に言い切ってしまうなら、
~体は「将軍家」の身内にありながら、心は「天皇家」にある~
幕祖・家康は水戸藩にこのような多重人格?を望み、実際水戸藩自身も
それを自らのアイデンティティだと受け止めていました。

その一番分かりやすくい例が、水戸藩第二代藩主・徳川光圀(1628-1701年)
による以下のセリフかもしれません。
~(我ら水戸藩にとって)「将軍家」は単に親戚頭に過ぎず、真の主君は
  「天皇家」である。 ここんところをゆめゆめ間違えるでないゾ!~


さてその水戸藩では第二代・徳川光圀の時代、つまり幕府としては
第三代将軍・徳川家光(1604-1651年)の時代に、あろうことかお隣の中国では
「明朝滅亡」(1368-1644年)というとんでもない事態が起こっていたのです。


桜田門外の変01 徳川光圀01







「桜田門外の変」(1860年)/水戸藩主・徳川光圀(1628-1701年)

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その明国には、隣国・日本の後押しを得ることで祖国の復活を実現しようとする
目論見を持つ人々も決して少なくなく、そうしたことから救援を求める多くの
日本請援使が日本に派遣されていました。

一方、日本の大名家の間でも彼らを招聘することが一種のブーム?にも
なっていたようです。
この機会を逃さず、「本場のインテリ」である彼らを通じて「本場の儒学」を
学ぼうとする日本人も少なくなかったということなのでしょう。
そうした一人であった明国の儒学者・朱舜水(1600-1682年)に目をつけた
のが、水戸藩主・光圀で、丁重な姿勢をもって招聘することに成功しました。

光圀にすれば、
~本家・明国が滅亡したなら、後世へ本物の儒学を伝えられるのは
  もはや地球上でこの日本国だけになってしまったゾ~
 という受け止めに
なりますし、祖国滅亡に至った一方の舜水にしてみれば、こうなります。
~本家の儒学はもはや絶滅種?となってしまった・・・これをいつの日か
  復興させようとするなら、せめてその種子はこの日本の地に残して
  おかねばなるめぇ~
 
両者の思惑が見事に重なっていたわけです。

ですから「儒学」に対する両者の気迫はハンパではありませんでした。
たとえばこうです。
この時水戸家の広大な敷地で進められていた庭園造りにおいて、光圀は
朱舜水の意見を大いに取り上げ、園内の各所に中国の風物を取り入れる
こともしましたし、一方の舜水は舜水で、光圀の修史事業(後の「大日本史」)
の編纂にも全面的な協力を惜しまないという力の入れようです。

ちなみに、それまでは単に「戦に滅法強い天才武将」との評価に留まって
いた楠正成(1294?-1336年)を「大忠臣」という評価に格上げしたのも、
この時代の舜水の判定が大きく影響したとされています。

では、その楠正成が格上げされた理由は? 
これがなんとも不思議な理由付けで、
~圧倒的に不利と目される状況にありながら、第96代・後醍醐天皇
  (1288-1339年)に最後まで忠誠を尽くし、天皇親政を実現させた人物~

と評価されたからです。
ここにも、「将軍家より天皇家」とする雰囲気が濃厚であることに気が付きます。

ことのついでに「ちなみのちなみに」を付け加えておくなら、この光圀が
取り組んだ歴史書「大日本史」が、またちょっとした迫力を備えているのです。
光圀・水戸藩の事業として開始されたその作業は幕末どころか、維新後の
明治すら終わろうかという頃まで続き、全397巻を完成させるまでになんと
250年の歳月を費やしました。
年号を記せば、~明暦3年(1657)に始まり明治39年(1906)まで~となり、
完成はなんと筆者の誕生と同じ20世紀の出来事ということになります。

それはともかく、「将軍家」に一番近い「御三家」に身を置きながら、すでに
光圀の時代には「天皇家」に忠誠を尽くした人物に破格の評価を下すことも
実行されていたことや、ずっと後の幕末に至っては「将軍家」に仕える人物さえ
躊躇なく暗殺していることを考え併せれば、幕祖・家康が思い描いた通りに、
~体は「将軍家」の身内にありながら心は「天皇家」にある~姿を、水戸藩は
維持・貫徹していたことにもなりそうです。

しかし、家康は幕府の創業者?という立場にありながら、なんでまた
「親・天皇家派(勤皇派」」勢力なんて厄介な存在を育てておこうとしたのか?
勤皇派勢力によって倒幕されたという幕末の歴史からすれば、幕祖・家康は
自分の首を自分で絞めたようにも見えてしまいます。
ところがギッチョン。

危機管理の天才・家康はもっと深いところまで読んでいたようで、実は頭の
片隅では、天皇家と将軍家が対立する可能性すら排除していなかったことも
窺えるのです。

もしそんな事態を迎えてしまったなら、とにかく徳川一門はこぞって将軍家に
味方する。 ただし、一門の水戸藩のみは天皇家に味方する。
そうするならば、天皇派・将軍派のいずれの勢力が勝利しても、徳川家自体は
滅亡を免れ~徳川家は永久に不滅ですッ!~になると計算したのでしょう。


~(我ら水戸藩にとって)「将軍家」は単に親戚頭に過ぎず、真の主君は
  「天皇家」である。 ここんところを、ゆめゆめ間違えるでないゾ!~

確かにこれは、水戸藩主・徳川光圀のセリフには違いありませんが、
別の角度から耳を傾けるなら、幕祖・家康が抱いていたとてつもない
「深謀遠慮」を暗示した言葉なのかもしれません



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