日本史の「災難」12 アウェイ幕府は曇り空

それまでにはなかった新しい階層「武士」の登場。
その経緯を探ってみると、たいていはこのくらいの説明になっています。
~王朝国家体制の確立によって、朝廷は地方統治を事実上放棄した。
  その上、桓武天皇が軍団を廃止した結果として、地方は治安が悪化し
  無政府状態に陥り、16世紀まで日本列島は戦乱が頻発するようになった。
  国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)
  層は、自衛のために武装し、武士へと成長した~
 Wikipedia 「平安時代」

これを素直に受け止めるなら、
~国家の武装放棄は、国民自らが武装せざるを得ない事態を招き
  かねないゾ~
 こんな意味にも斟酌できそうですが、それはともかく、
このように誕生した武士階層は、穢れた存在として、朝廷など権威・権力者
から徹底的な差別を受け続けました。
いわゆる「人間並み」の権利を認められることがなかったわけです。

こうした劣悪な環境?ですから、武士自らが意思表示を目論んだとしても
決して不思議な運びではありません。
~我々武士は意思を持った人間であり、朝廷・貴族の番犬・奴隷の類では
  決してないッ!~

しかし、こうした武士の姿勢とて、朝廷・貴族の側にしてみれば、
「ヘソが茶を沸かす」「負け犬の遠吠え」に過ぎず、「チャンチャラおかしい」
「笑止千万」な「大言壮語」に映ります。

ならばとばかりに武士階層が考え出した政治形態が「幕府」でした。
幕府とは、元々は軍事拠点(前線基地)に設けた天幕ほどの意味ですが、
電話などの便利な通信手段が身近に整っていない環境ですから、こうした
時代の前線基地の責任者、つまり幕府の司令官には、それなりの権限が
与えられていました。

戦況の変化に応じて、そのたびにイチイチ上の指示を仰いでいたのでは、
勝機を逸するどころか、逆に敗北に陥いることにもなりかねないからです。
この特権?に目を付け、軍事拠点を意味する元来の幕府を、ちゃっかり
政治拠点へ変えしてしまおうとする発想です。

相当なキレ者が考え出したことでしょうが、要するに、「幕府」及びその
「司令官」をさらに拡大解釈することで、これに「天下の幕府」「天下の
司令官」と呼ぶにふさわしい機能・権限を持たせようとしたわけです。

その目論見は朝廷とて、シッカリ承知の上。
ですから、否応なく真正面から対立し、決してスンナリと進むことには
なりません。
しかし、とにもかくにも「幕府」という機構を立ち上げ、これを「武士階層の
ための武士階層による中央政府」もどきの位置付けに持っていくことには、
一応のメドを付けました。

そして、武士階層のそうした「拡大解釈」は、以後の日本史に三つの
「幕府」を誕生させることになります。 古い順に並べれば、
鎌倉幕府(1185-1333年) 政庁所在地=相模国鎌倉
室町幕府(1336-1573年) 政庁所在地=山城国京都
江戸幕府(1603-1868年) 政庁所在地=武蔵国江戸 です。

なるほど、最初の「鎌倉幕府」にせよ、三つ目の「江戸幕府」にせよ、
その拠点(政庁所在地)を関東に構えています。
このことは、
~東の地域には、まだまだ従わぬ蝦夷(蛮族)がワンサカいるじゃによって、
  その征伐のための前線基地を関東のこの地に構えますゾ~

かなり苦しい「拡大解釈(説明?)」ですが、一応の整合性は備えています。

ところがギッチョン。
二つ目の「室町幕府」については、実はそんな姑息な説明は成り立たない
のです。
なんとまた、朝廷族がたむろする京のど真ん中に、その拠点(幕府)を
構えたからです。 なんでまた、そんなことを。
これでは、朝廷を敵視している姿にもなり、ちょっとばかり拙い。
もちろん、そのへんのことは幕府自身も気が付いていたのですが、実は
「背に腹は代えられない」事情もありました。

室町御所51 後醍醐天皇53








  室町御所/後醍醐天皇

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上の年表からも分かるように、鎌倉幕府の終焉からこの室町幕府が
創立される間に、実は三年ほどの歳月を挟んでいます。
それこそは、第96代・後醍醐天皇(1288-1339年)の手による「建武の新政」
(1333-1336年)、要するにホントに久しぶりに「天皇親政」が復活した時期
でした。

しかし、念願だった「天皇親政」もうまく軌道に乗せるまでには至らず、
室町幕府誕生によって追われた後醍醐天皇は「捲土重来」を胸に秘め、
比叡山に亡命。
そのことによって、室町幕府自身が後醍醐天皇の行動監視に乗り出す
必要に迫られたのです。

うっかり放っておこうものなら、後醍醐天皇の悲願である「捲土重来」
つまりは「天皇親政」を復活されてしまうからです。
こうなると、京から遠く離れた地である武士の本場・関東での「幕府」開店?
には少なからず躊躇が働くことになります。

何しろ、幕府にとっての「最重要監視対象者」が、京のすぐ背後の地でなにやら
ゴソゴソやっているのですから、その監視・牽制の意味からも、結局のところは
幕府も京を実質的な本拠地とせざるを得ません。
※ただし歴史用語としては、この後に第3代将軍・足利義満(1358-1408年)が
  京都・室町に造営した室町殿にちなんで「室町幕府/室町時代」と呼ばれる
  ようになったとされています。

幕府を武士本来の本拠地・関東に設けられなかったのですから、気分的には、
「本拠地(ホーム)幕府」ではなく、「敵陣(アウェイ)幕府」もどきのものがあった
のかもしれません。
そうしたことから、「我らの幕府」という意識がいささか希薄にならざるを
得なかったであろうことは、後に成った「時代区分」からも容易に推察でき
そうです。

大きくくくった「室町時代」という区分の中に併存する形で、さらに細分化
された別の「時代名称」が紛れ込んでいるのです。
時代の大くくりでは、○室町時代    (1336-1573年)
ところがその中に、   ◇南北朝時代(1336-1392年)
      さらには、  ◇戦国時代  (1467-1590年)

妙に複雑で厄介なお話になりますが、上の年表を眺めながら少し強引な
計算をしてみるなら、「室町幕府」が存続していた期間にありながら、
「室町時代」と呼べるのは、「南北朝時代」が終焉した1392年から、次の
「戦国時代」の始まりの1467年に至る約75年間だけといえなくもありません。

はて、なんとも頼りない「室町時代」ですが、では、こうまで日本史を複雑に
させた真犯人は?
結局のところ、全国武士の司令塔となるべく「室町幕府」を、自らの動きに
よって、武士にとっては「アウェイ本社」もどきのレベルに追い込んだ
後醍醐天皇その人ということに落ち着くのでしょう。

その意味では、「室町幕府」にとっての後醍醐天皇は現人神どころか、
疫病神並みの厄介さと鬱陶しさを兼ね備えた存在だったかもしれませんねぇ。



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