日本史の「謎解き」29 豊前豊後はトヨのくに

昔々の大昔、戦国の織田信長も源平の源義経も、それどころか飛鳥の
聖徳太子すらもまだ生まれていなかった三世紀頃、九州の一角に
「豊国(とよのくに)」と呼ばれる地域がありました。
九州の東北部に位置し、現在の地名なら福岡県東部および大分県全域に
相当する地域です。

おそらくは、地形的に安定した収穫を得られる豊かな地であったことから、
「豊国」となったのでしょうが、後の七世紀の終わり頃には二つに分かれ
「豊前/豊後」と呼ばれるようになります。

こうした場合、「前」の字が付く地域の方が都に近く、「後」が遠い地域を表す
ことがおよその原則になっていますから、「豊前」とは京に近い福岡県東部・
大分県北部あたりのことであり、「豊後」とは京から遠い側の大分県南部
あたりの地域を指しています。

ただ、ひょっこり難しいのはそれぞれの国名です。
これをごくごく素直に「豊前」は(ほうぜん)、「豊後」を(ほうご)と読んでいた
のでは「言語明瞭・意味不明瞭」の情けない状況に陥ってしまいます。
ナニがいけないのだッ! 
実は下のような思いもかけない読み方を正しいとしているのです。

~「豊前(ぶぜん)」と「豊後(ぶんご)」~
「豊国(とよのくに)」が二つに分かれると、「豊前国(ぶぜんのくに)」と
「豊後国(ぶんごのくに)」になる・・・ムムムッ、日本語ってホント難しい。

それはともかく、特筆すべきは、まとめた表現なら「豊国」、分かれて以後なら
「豊前国」ということになりますが、ここで歴史上の大事件が引き起こされて
いる事実です。
第48代・称徳天皇(女帝)時代に起こり、僧・道鏡や廷臣・和気清麻呂まで
もが登場するいわゆる「宇佐八幡宮神託事件」(769年)です。

ここで割愛してしまうのが惜しいほどにその経緯も面白いのですが、ともかく、
この時の称徳女帝は天皇後継についての神託の吟味を、この豊前国
「宇佐八幡宮」に託したのです。

僧・道鏡を天皇後継者に推した称徳女帝は、その是非を豊前国「宇佐八幡社」
に伺うため、そのお使いを廷臣・和気清麻呂に申し付けたという配役です。
しかし、ここでイマイチ首を傾げるのが、実はこのこと。
~京から割合近い地域に皇祖神・天照大神を祀っている「伊勢神宮」がある
  のに、なんでまた遠隔地の豊前「宇佐八幡社」にまで出張ったのか~


考えてみれば、なにかヘン。 
でも、神託吟味に伊勢神宮をシカトした称徳女帝の選択を、当時の
政界関係者の多くはさほど奇矯な行動だとは受け止めなかったようです。
この行動が「すわッ、帝(ミカド)の御乱心!」という運びにならなかったことが
その何よりの証拠です。

もし、そう受け止めたのであれば朝廷内はおそらくはグチャグチャの混乱を
極めていたことでしょう。
なにせ、天皇家以外の人間を天皇にしようとする、要するに天皇家自らの
アイデンティティである「万世一系」の大原則の可否をお伺いしようという
壮大極まる運びですからね。
それを考えれば、こう受け止めるのが自然ではないか。

~おそらくは「豊国」と「大和朝廷」の間には、その昔からメッチャ強い繋がりが
  あった。 だからこそ、称徳女帝による「伊勢落選/宇佐当選」の行動も特段
  奇異と見られることもなく、またそのこと自体も糾弾されることはなかった~

と、まあここまでは割合無理のない流れだと自画自賛。
そこで、今度は「魏志倭人伝」(三世紀末)の登場です。

地図豊の国01 魏志倭人伝02








豊国(豊前・豊後)/魏志倭人伝


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この中国の歴史書は、この頃の日本列島の様子をこのように紹介しています。
~女王・卑弥呼が死んだあと男王が立てられたが、そのことに賛成派と
  反対派との対立が生まれて騒乱が続き、多くの犠牲者まで生んだ。 
  そこで卑弥呼の親族である13歳の少女台与が再び女王となったら
  国は治まった~


古代において権力者の本名を公表することはありませんから、ここに登場
する卑弥呼にせよ台与にせよ、本人の実名ではなく、おそらくは称号か
肩書もどきのものでしょう。

但し、ここらあたりも結構ややこしい展開ですが、この「台与」
「魏志倭人伝」では「壹與(いよ)」とされ、後の歴史書などでは
「臺與(とよ/現代文字にすれば台与)と表記されているため、どちらかが
間違いだとされているのです。

この点についてはいろいろな見解が示されているようです。
しかし、~「壹與(いよ)」は間違いで、「臺與(とよ)」が正しい~というより、
~「壹與(いよ)」ではなく、「臺與(とよ)」でなければならない~とする意見も
あって、何を隠そう筆者もそのように受け止めている一味に他なりません。

その理由は?
そんなもん、よほどのヘソ曲がりでない限り、素直に読めばたちまち理解に
及ぼうというものです。 
つまり、「豊の国」「豊=トヨ=臺與の国」。 
そう、「豊国」を治めた女王だから、その称号(あるいは肩書?)を「台与(とよ)」
としたわけです。

あまりにも単純明快な見方ですから、当然のこと、こんな反論も予想されます。
~「邪馬台国」がその前身だったと思われる「ヤマト政権」は、その本拠地を
  「大和国」にしており、断じて九州「豊国」ではないゾ~

確かにその通り。 しかし、そのあたりのことは「日本神話」にも、実に丁寧に
補足説明されているじゃありませんか。

いわゆる「神武東征」です。
~カムヤマトイワレヒコ(初代・神武天皇のこと)は日向(九州)を発ち、
  大和を征服して橿原宮で即位した~

このことは、当時の朝廷関係者にとっては当ったり前の疑う余地のない
知識・真実だったはずです。

言い換えれば、当時の朝廷関係者は、
~その昔、私たちの御先祖様たちは、遠く九州からこの地・大和まで、
  大掛かりな引っ越しをされた。 つまり、この大和を現住所としている
  ものの、私たち(大和朝廷)の本籍地(出身地)は九州である~


「豊国」といわれる九州の一角を治めているのならまだしも、しかし倭国と
いわれる日本列島を統率し運営していく拠点としてはいささかの無理を
感じたのでしょう。
だからこそ、大和へ引っ越ししたことを「神武(天皇)東征」として語り継いだ
ワケです。

そうした環境にあって、ある時期の朝廷は、一族一家としての大問題を
抱え込むことになりました。
天皇家のアイデンティティである「万世一系」の大原則を揺るがしかねない
一大事です。
それほどの大問題を今この瞬間を生きている自分たちだけで決定すると
いうのも、いささか僭越に過ぎます。
当然御先祖様たちの御意思も図らねばなりません。

相談すべきは、引っ越し先・現住所の近く「伊勢神宮」に祀る御先祖様か、
はたまた由緒ある本籍地(出身地)「宇佐八幡宮」に祀る御先祖様か?
称徳女帝は、迷いなく「伊勢神宮」ではなく「宇佐八幡宮」を選んでいます。

「神託」という行為そのものに対する感想には、おそらく当時でも様々
な異見・非難があったのでしょうが、称徳女帝がやったこと、つまり神託の
再確認先として「宇佐八幡宮」を選んだことは非難の対象になっていません。

ですから、当時の朝廷関係者にとって、「豊国」にある「宇佐八幡宮」は
それほどに身近に感じられる「御先祖様の居場所」だったことになりますが、
さらに一歩踏み込んだ解釈にも遭遇しました。

~大和に次ぐ重要な国=「豊国(とよのくに)」・・・だから、「台与」との
  称号は王の後継を約束されていた「プリンセス・オブ・トヨ」の意味では
  ないか?~

※井沢元彦著「伝説の日本史」第一巻~「怨霊信仰」が伝説を生んだ~

なぁるほど!
根が単純素直な筆者なぞは、この意見にすっかり感化されちゃいまして、
この受け売りに精を出そうと決意したくらいのものです。
えぇ、ご想像の通り、他人様の迷惑なんぞはこれっぽっちも眼中にありません。



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