日本史の「落胆」03 将軍後継と同時多発テロ

二度にわたる「大坂の陣」(冬1614年/夏1615年)を制したことによって、
かつての主家・豊臣家を滅亡にまで追い込んだ徳川家康(1543-1616年)は
その後も諸大名への干渉を怠ることはありませんでした。
これには、豊臣家の死に物狂いの抵抗にいささかのトラウマを覚えたことの
影響があったかもしれません。

大名の隙に対してはしっかりイチャモンをつけ、次にはその対応を不十分
として、すかさず「改易」(取り潰し)処分に持っていく方法を基本としました。
そうすることで、徳川家に敵対する諸大名の数も減り、またその分謀反の
リスクも小さくできるからです。
要するに、このことによって他家に対する徳川家の相対的優位性が見込める
と踏んだわけです。

しかし、現代でも会社が倒産すればその分失業者が増えるのと同じ理屈で、
大名改易は当然のこと浪人の増加という事態を招きます。
しかし、現代と異なるのは、この場合に増えるのが二本差しを帯びた
「武装失業武士(軍人)」ということです。
現代ではこのような「武装失業者」を見る機会はあまりありません。

うじゃうじゃと浪人は増える。 しかし幕府は締め付けの手を緩めない。
それどころか、就職口を失った浪人を、治安維持という理由をもって、
郷里へ追い返そうとすらしたのですからたまりません。
武士の境遇にいること、そのこと自体が武士のアイデンティティになっている
のですから、当然こうした反発を生むことにもなります。
~郷里へ帰れとは、我らに武士を止めて百姓になれと言っているのか~

しかし、この時将軍職にあった(第三代)徳川家光(1604-1651年)は、元々が
高飛車な姿勢を備えた人物でした。
将軍に就任した折の諸大名に対する挨拶の内容もその通りでした。
~前代までの将軍(初代・家康/二代・秀忠)は、ミナサンがたと同列の
  大名であった時期もあるので、その待遇にも含みを持たせたが、余は
  生まれながらの天下人であるからして、ミナサンがたを家来として
  遇するから、さようしかと心得るように~


諸大名からの反発も当然予想されます。 それには先手を打って、
~もし不承知の者あらば謀反いたすも構わないゾ。 
  今日より3年の猶予をつかわすゆえ、国許へ帰ってその支度を致せ~

ここまで言われちゃったら、グウの音も出るものではありません。

そうした強硬姿勢の延長線上に立って、重ねてなお「改易」を行うのです
から、浪人の数ははますます増加の一途を辿ります。
こうした世情を心底から憂いていた人物がいました。
軍学塾「張孔堂」の創立者・由比正雪(1605-1651年)です。
人気のある塾で、一時期は諸大名の家臣や旗本も多く含む3000人もの
門下生を抱えていたこともあるようです。

~闇雲な改易政策なぞは、大名・徳川家としての都合に他ならず、
  ここには天下の幕府としての視野が欠けている~

つまり、幕府の改易政策による浪人増加は、徳川家VS諸大名の問題を
とっくに超えた、もはや避けて通れない「社会問題」になっているとの認識
です。 そうなると、当然、
~改易政策は改め、浪人たちの再就職への道も考慮すべきだ~という
主張になります。

折も折、第三代・家光が急死。
献上品を吟味中に突然震えが止まらなくなって倒れた挙句に、意識が
戻らないまま翌日に亡くなったという前後の状況から、どうやら脳卒中に
よるものと考えられています。
ところが、新しく第四代将軍を継ぐべき家光世子・徳川家綱(1641-1680年)は、
現代風の数え方なら、まだ「小学六年生」の年齢。

~新しい将軍(第四代・家綱)は、まだ幼く政治的実力に乏しい~
こう踏んだ正雪は、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて、仲間と共に早速に
行動を開始しました。
後継将軍の準備に忙しい幕府のゴタゴタに付け込んで事を起こそうとする
計画です。

由比正雪51 保科正之01










 「慶安の変」由比正雪/(第四代・家綱)将軍補佐役・保科正之

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さてその作戦ですが、これが結構気宇広大で、ざっと以下の通り。
○江戸城を焼き討ち/丸橋忠弥が指導し、江戸各所に火を放つ。
○将軍・家綱を誘拐/江戸城混乱に乗じ、幕府側要人を暗殺。
○京都で同時蜂起/由比正雪が指導
○大坂で同時蜂起/金井半兵衛が指導し、天皇をも誘拐する。
○勅命を得る/天皇の命令により、全国の浪人が呼応し決起する。
要するに、江戸・京都・大坂で「同時多発テロ」を決行することで、幕府転覆を
目論んだわけです。

三代将軍・家光の死の直後という幕府の一瞬の隙を衝いたタイミングで、
間髪を入れずに行動に出たばかりか、江戸・京都・大坂など、少なくとも
全国複数の場所での同時決起を企てたのですから、この「慶安の変」
(1651年)の計画内容には実に見事なものがありました。
なにせ電話もメールのない時代に、遠く離れた場所で各々が一斉蜂起を
しようというのですから、メッチャ密な連絡網の構築が必要です。

ただ、そうした経緯の中で仲間から裏切者が出てしまいました。
そのために首謀者たちは逮捕・自害に追い込まれ、結局「同時多発テロ」
自体が未遂事件に終わってしまったのです。

ちなみに首謀者たちの末路にも触れておくと、丸橋忠弥は逮捕(後に磔刑)、
金井半兵衛は自害、そしてリーダーであった由比正雪も自害に至っています。
目指した幕府転覆も江戸焼き討ちも将軍誘拐も、はたまた朝廷を動かしての
勅命も、目論見通りに運んだものは何一つなかったことになりますが、
幕府に冷や水を浴びせたことだけは間違いのない事実でしょう。

なぜなら、この「慶安の変」の後の幕府の路線には明らかに変化がみられる
からです。
諸大名を潰すことはイコール仮想敵国を減らすことであり、相対的に幕府・
徳川家の優位性につながる。
シンプルにこう考えていたのが、それまでの幕府であり徳川家でした。
要するに、幕府・徳川家という絶対的な存在に「牙をむく」者があろうとは
夢にも思っていなかったことになります。

しかし実際には、大名でもない旗本でもない、それどころか武士ですらない
一介の浪人グループが、それを企て、そして躊躇なく実行に移したのです。
こうなれば、誰の頭にもこんな考え方が浮かぼうというものです。
~改易一方の浪人を増やすばかりに政策は、却って反幕感情を生み、
  そのことがまた、幕府の信用を失墜させているのではないか~


そのことにいち早く気づき、改革路線を推し進めた人物が「小学生将軍・
家綱の補佐役・保科正幸(1611-1673年)でした。」
三代将軍・家光の異母弟という出自ですから、四代・家綱の叔父に当たり
ます。
~これまでの改易一辺倒は浪人を生むばかりだから、それよりは御家の
  存続が叶うように規則を緩めて運用すべきであろう~


その例を一つだけ挙げるなら、「末期養子の禁」の緩和もそれに当たります。
「末期養子」とは、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した
場合に、御家の断絶を防ぐために緊急避難的に縁組される養子のことです。
要するに、当主が後継を決める前に死亡しちゃった場合、従来なら即座に
「御家断絶」処分にしたものを、「生前に遺言があった」ことにして、そこで
養子縁組した者を、正規の後継者としての認めようということです。

もちろん、幕府にもメンツがありますから一足飛びに大変革とはいきません
でしたが、しかし、少なくとも由比正雪らの主張の一部分を認めた形には
なりました。
このことを大きな流れで捉えると、
三代・家光の~文句があるなら腕づくで来いッ!~とする「武断政治」から、
~法制などを整備充実することで社会秩序の安定を図る~四代・家綱の
いわゆる「文治政治」へと舵を切ったことになります。

その意味では、頓挫したとはいうものの、由比正雪ら浪人グループによる
「幕府転覆」計画も決して無駄にはならなかったわけです。
それどころか、歴史の方向性を大きく変えるキッカケになったとも言えそう
です。

また、電話もメールもないこの時代に、江戸・京都・大坂などの複数地点での
「同時多発テロ」を目論んだ計画の大胆さにも驚かされるところです。
よほど綿密でないと、叶うことではありませんからね。

もっとも、昨今の風潮はこれとは真逆で、ある意味その杜撰さに驚かされ
る有様で、こんな光景まで目撃したことがあります。
待ち合わせの友達を交差点で待つ様子の若者が、アチコチそこら辺を
ウロウロしながらスマホでやり取り。

~オレは今着いたけど、お前はどっちからくるのだ? 右か?左か?~
聞くともなしのこの会話を耳にした自称アマノジャクの筆者なぞは、思わず
(胸の内で、しかも得意の尾張言葉で)こんなツッコミを入れていました。
~そりゃオミャー、友達が登場する右左の方向はオミャー自身がどっちを
  向いとるかによって変われせんのかぁ?(変わるのではないか?)~


ついでに、(これも胸の内だけで)こんな悪態も。
~オミャーみてゃあに便利なスマホは持っとれせんかったけど、
  「同時多発テロ」を目論んだ由比正雪グループの打ち合わせぶりは、
  オミャーたちなんか問題になれせんぐりゃあ綿密だったゾ~




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