日本史の「怪人」21 素性も政策も虫が好かぬ

広く武士の教養・規範とすべく「朱子学」に注目したのは江戸幕府創立者・
徳川家康(1543-1616年)その人でした。
いや、江戸幕府においては人というより、神様に祀り上げられた「神君」と
言った方が正しいかもしれません。

つまり、朱子学に励むことは即ち「神君」の御遺志にビッタシ沿う行動になる
わけですから、そこで、幕府が存続していた間は、朱子学も同様に衰え知らず
の隆々さを誇っていた。 
普通なら、こんな受け止めになります。 ところがギッチョン。 
ちょっとばかり意外な印象ですが、実はそんな「朱子学」にもはっきり衰退が
見られた時期もあったのです。

~このままでは、神君・家康公の御遺志を踏みにじることになってしまう~ 
神君の御遺志を放置したままではさすがに拙い。
こんな危機感を抱いた幕府はそのテコ入れに及びました。
いわゆる「寛政異学の禁」(1790年)がそれです。

ここにある「寛政」とはもちろん元号が寛政の時代(1789-1801年)のことで
あり、「異学」とは朱子学以外の学問を指し、それを「禁」ずるという政策です
から、今風の言葉でもっと端的に「学問統制」と表現したほうが分かりやすい
のかもしれません。
たとえば当時それなりに人気があった陽明学や古学などもすべて「異学」に
分類し、それらの勉強も一切をペケとしました。

この「寛政異学の禁」政策の音頭を取ったのは、ちょうど同じ頃に、
いわゆる「寛政の改革」(1787-1793年)と呼ばれる幕政改革にも取り組んで
いた老中・松平定信(1759-1829年)でした。
なにせ、第八代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)の孫という血筋にある上に、
しかも「総理大臣」の立場にあるのですから、「異学の禁」にせよ「改革」
せよ、ある意味イケイケドンドンの勢いで進めることになります。

当然のことながら、定信自身も朱子学を絶対とする思想の持主です。
しかもその絶対ぶりはハンパではなく、今風なら「朱子学原理主義者」?と
表現されたに違いないほどのものでした。
ところが歴史は、この定信の例のように一つ思想に凝り固まった権力者の
存在が結構傍迷惑になることも、実は如実に物語っているのです。

早い話が、この種の人物は「自分こそが正義の味方」との思い込みが強い分、
他人様の意見を無視した行動ととるからで、そうした点はこの松平定信
場合も決して例外ではありませんでした。

少しですが、その「迷惑被害」?の例も挙げておきましょう。
まず第一には、「寛政の改革」が原因で引き起こされた不景気によって、
少なからずの国民が少なからずの迷惑を被っています。
商業・商人を蔑視する朱子学的見地からすれば、「商業活動」なんて行為
自体が、無条件に朱子学違反?ですから、その違反を取り締まれば取り締まる
だけ、社会全体をいわゆる「不景気」の側へ押しやることになってしまいます。

ですから、一般生活者にしてみれば当然に、
~ゲゲゲッ、何が悲しくてわざわざ貧乏生活に戻らにゃならんのだ~
こんな思いに見舞われるわけです。

また、「身分」の存在を全面肯定?しているのが朱子学です。
いわゆる「士農工商」であり「官尊民卑」であり、政治面で言うなら
「(幕閣以外の者は)御政道に口を挟むな」がそれに当たります。
このことで、まったくのトンデモ状況に追い込まれた一人に、政策論者・
林子平(1738-1793年)がいます。

~およそ日本橋よりして欧羅巴(ヨーロッパ)に至る、その間一水路のみ~
要するに、外国とは付き合いたくないといったところで、島国日本は間違い
なく海で世界と繋がっているのだから、外国に対しもっと確たる意識を持つ
べきだ。 実に卓見。
こうした主張を、その著書「海国兵団」の中に表したわけです。


徳川家治01 松平定信05










第10代将軍・徳川家治/老中・松平定信

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ところが、この意見に対する老中・松平定信の反応は、
~幕閣以外の(つまり、身分なき)者が幕政を論ずるなどもってのほか!~
子平は、出版禁止の措置だけでなく、その身柄は強制帰郷させられた上に、
蟄居という厳しい処罰を受けました。

定信が、なぜそこまで強気の対応ができるのかと言えば、先にも触れた
通り、「自分こそが正義の味方」との思い込みがあるからです。
そうした思い込みによる「朱子学被害」?を被ったのは、何も一般市井人
だけに限りません。 なんと幕府内部の人間にも及んでいるのです。

誰って?
そんなもん、真っ先に名を挙げられるは、田沼意次(1719-1788年)に
決まっています。
第九代将軍・徳川家重(1712-1761年)の小姓に抜擢されるや、
めきめき頭角を現し、次の第十代将軍・徳川家治の個人官房長官?
もどきの側用人を務め、ついには幕閣最高の老中まで上り詰めた人物です。

松平定信とっては、この田沼意次こそは、その全てが気に入らない存在
でした。 その感覚は「不倶戴天の敵」とでもいうのでしょうか。
まず「身分」が気に入りません。
定信自身は、吉宗の孫であり、大名であり、城持ち藩主です。
しかし、それに引きかえ、意次は、元はと言えば紀州藩の足軽(後に旗本)
の息子に過ぎません。

~身分なき者が御政道を担うなどは、(朱子学的には)暴挙であるッ!~
ましてや、その暴挙の張本人が、商業重視の政策を打ち出したのですから、
~(朱子学が嫌う)商業に手を染めるとは、出自の卑しい人間は、
  恥すら覚えず、やることまでがさもしいッ!~


こう受け止める定信がエッサエッサと根気よく書き溜めた、やれ「ワイロの帝王」
とか、やれ「汚職政治家」とかの「田沼に対する悪口」が、21世紀の現在でも、
田沼意次のイメージとして語られ続けているのです。

「商業」の意義を理解できなかった18世紀の朱子学原理主義者が書き遺した
内容を、「商業」というものを十分に理解できるはずの、しかも特段に朱子学
原理主義者でもない21世紀現代人が無批判に受け入れているのですから、
これもまた不思議と言えば不思議な現象です。

で、この朱子学原理主義者による「風評被害」?が、老中・田沼意次などの
幕閣クラスのレベルで止まったかと言えば、実はさにあらず。
さらに上の階級の人物、端的に言えば田沼意次の上司であった第十代将軍・
家治も意次の悪評に連鎖する形で多大な迷惑を被っているのです。

定信の田沼に対する悪口を面白がる中には、さらにイメージを膨らませる者
もいます。
~将軍・家治なんて、田沼意次にいいように幕政を引っかき廻されていた
  のだから、つまりはトコトンのダメ殿バカ殿であったに違いない~


~商業なんてものは堅気の人間が手を染めることではないッ!~
この鉄則に縛られる朱子学原理主義者にすれば、商業重視のスタンスを
取る人間なぞは、それだけで「常軌を逸した無法者」ということになって
しまいます。
こうした目線で将軍・家治の姿勢を眺めれば、無条件に「堅気の人間では
ない」ことになるのです。

つまり、「朱子学的色メガネ」を通せば、商業重視の姿勢を示した将軍・家治は
「バカ殿」、老中・田沼意次は「汚職政治家」、このように偏った見方になって
しまいます。
そうして、この「定信が書き遺したとっても分かりやすい悪口」は、よほど
日本人の感性にフィットしたものか、その後の時代にもずっと生き残り、
なんと21世紀の現代にまで伝わっているわけです。

商業に対して朱子学的偏見を持たないはずの現代人でさえ、今もってこの
「悪口」を疑わない人が少なくないのですから、ある意味不思議な現象です。
試しに周りの人に田沼意次のイメージを訊ねてごらんなさい。
まず大抵はこんな答えが返ってくると思いますよ。

~なになに、老中・田沼意次のことを訊いているのか? 
  それは、ワイロを取りまくった汚職政治家のあの田沼のことか?~

この辺りも、エリート官僚・松平定信の面目躍如というべきなのでしょうか。
自分の身は傷つかない位置に置いた上で、他人を貶めることが巧かった。


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