日本史の「ツッパリ」24 幕末老中の御意見募集

いわゆる「黒船来航」(1853年)によって外国(アメリカ)から開国を求められる
ことになった幕府でしたが、ハナから相手の希望に沿うつもりは持っていません
でした。
鎖国政策は権現様、つまり幕府創立者である徳川家康(1543-1616年)も
遵守してきた祖法だと強く信じ込んでいたことがその理由です。
祖法違反とは、江戸幕府にとっては即ち重大犯罪?を犯すことに他なり
ませんから、そもそも開国という選択肢自体がなかったことになります。

ところが、黒船の主・アメリカの日本開国に対する意気込みは並みのもの
ではありませんでした。
そのため日本側にも、シラを切って先延ばしすることもできない重い雰囲気が
漂います。
~何らかの策は打たなくっちゃ。 なんぞエエ方法はないものか?~
行き詰って、ついつい嘆息を漏らしたのは、幕府老中首座の立場にあった
阿部正弘(1819-1857年)でした。
今風なら総理大臣の立場ですから、何らかの方針を打ち出さなければ
なりません。

国内の問題であれば、例によって~御政道に口を挟むなどもってのほか!~
と啖呵を切って一件落着にもできますが、今回の相手は外国です。
得体の知れない「外国」を相手にすることは、それこそ勝手の違う未曽有の
局面なのです。

従来のような運びではコトが成就しない心配もあり、さらには勝手の分から
ない外国を相手にして独断専行という形をとれば、これもまた幕府が大きな
リスクを背負うことにもなりかねません。

そこで考え出されたのが、従来の高飛車路線から、打って変わって
低姿勢路線への大転換。 平たく言えば、
~御政道に口を挟むなどもってのほか!~のツッパリ姿勢から、 
~広く皆様からご意見を募集します!~へ態度を豹変させたわけです。
国難?を前にした途端に、なんともまあ極端な変わりようです。

この「広く皆様から」とは、募集の対象を幕臣だけに限らず、諸大名から
町人に至るまで、文字通りの「広く皆様から」で、基本的に垣根なしということ
にされました。
幕府としても「未曽有の相手」(外国)に対しては「未曽有の対策」(意見公募)
が必要だと踏んだわけです。

その幕府の低姿勢新路線に、(国)民の側もそれなりの物珍しさを感じた
のか、「意見書」応募?は実に700通ほどにも達したとされています。
もちろん、そうした意見は玉石混淆で、その中には応募者当人の意識は
ともかく、客観的にみればいささか非現実的、また現代人目線からすれば、
なにやら冗談めいた印象になる提案も混じっていました。

そんな中で老中首座・阿部正弘の目に留まったのが勝麟太郎(後の海舟/
1823-1899年)なる若者が寄せた意見でした。
名家の人物ではありません。 むしろ身分もない無名の新人というべき
でしょう。
ただ、20歳代の頃に蘭学を学んだだけでなく、後には自ら私塾も開いた
ほどの飛び抜けた英才ではありました。

さて、一方の幕府です。
この時まで、長らく実質的な「鎖国」状態にあったのですから、本格的な
「外交交渉」なんてことは幕閣にとっても未経験で、その上に日本開国に
対するアメリカ側の意気込みがハンパでないのですから、正直なところ
タジタジの思いです。

そのアメリカの勢いに圧倒されるうちに、幕府の頭の片隅にはひょっとしたら
「開国もやむなし」という思いが芽生えかけたかもしれません。
ところが反面では「鎖国は(神君・家康公も遵守した)祖法」という信念?を
維持しているのですから、まったくの板挟み状態で身動きが取れません。

阿部正弘71 勝海舟01












 老中首座・阿部正弘/若き日の勝海舟

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そこで、窮した幕府が打った手が~広く皆様からご意見を募集します!~
方法です。
現代感覚すれば、施政者がこのような形で「(国)民の声に耳を傾ける」
ことは民主主義の基本でもあって、ごくごく当たり前の姿ですが、しかし、
当時の日本国には、幕府の側にも民の側にも、そんな概念は存在して
いません。
ですから、逆に言えば、物珍しさも手伝って700通もの「意見書」が応募
されたということになるのでしょう。

しかし~(いつの場合も幕府は正しいのだから)御政道には口を出すな!~
とする路線にすっかり慣れ切っていた民の側には、おそらくこんな思いも
湧いたことでしょう。
~オレらの意見を聞こうってことはよぅ、幕府は自らの御政道をよう立てんって
  ことかぁ? そんな「なにもできん幕府」なら、それはもはや不要の存在と
  いうことになりゃあせんのかぁ?~


これまでツッパリ路線一辺倒だった幕府の低姿勢路線への豹変に、こうした
印象がつきまとったとしても不思議ではありません。
要するに、民の側からすれば「幕府は御政道をサボっている」ように見える
わけで、こうした気分が「倒幕」に対するタブー気分を薄めていったことは
事実でしょう。

現代なら、国民の声に真摯に耳を傾け、それを政策に生かしていこうとする
政府の姿勢は評価に値しますが、ところが、幕末期においては話が真逆で、
身分もない一新人の「御意見」に目を向けた幕府の姿勢は甚だしい権威失墜
を招いてしまったということです

さて、その「幕末御政道コンペ」?のその後にも触れておくと、この時
グランプリに輝いた新人・勝海舟は「異国応接掛附蘭書翻訳御用」なる役職に
任じられ、その後の活躍の足掛かりを築きました。
ですから、その意見書はよほどの内容を備えていたはずですが、だったら
こんな疑問も。

確かに英才には違いないだろうが、しかし身分なき若者が、どうして幕府中枢
の関心を引くまでにハイレベルな「意見」を提案できたのか?
また、それに必要とした諸々の「情報」をいったいどうやって集めたものか?

海舟が並み並みならぬ努力家だったことは間違いありません。
現にこんなお話も残されているほどです。
蘭学の勉強に励んでいる時代のこと、「蘭学辞書」58巻を見つけ、どうしても
手に入れたいと思いました。
しかし、何分にもメッチャ高価なため、さすがに購入は叶いません。

そこで、海舟が選んだ方法は・・・まずは、その「辞書」の持ち主に貸してくれる
よう頼み込むや、次にはなんと筆写に及んだのです・・・それも「2部」。
筆写の1部はもちろん自分用、そしてもう1部は販売用です。
筆写ってわかりますか? 自らの手によって書き写すことですよ。
なにぶんにもコピー機もワープロもない時代のことですから、他に方法は
ありゃあしません。
この作業には1年ほどの日数を要したとされています。 

さて、そうして筆写が完成すると、元々販売用に作った1部を売却し、
その代金を「辞書」の持ち主に対する「借り賃」に充てました。 
う~ん、なるほど、理に適った方法です。 やっていることにソツがない。
ですから、「海外情報」なども、おそらくは同様にソツなく収集していたものと
思われるわけです。

お話が逸れましたが、しかしもしもこの時、勝の「意見書」応募?がなく、
また役職に任じられることもなかったとしたら、「黒船来航」以後の幕府は
どう推移していったことか?

勝自身が幕閣の引き立てを得ることもなく、当然幕府要職に就くことも
ありませんから、幕末の大車輪の活躍もなかったことになります。
そういうことであれば、ひょっとしたら、お隣・清国が味わった悲劇※と同様に
外国勢力に完膚なきまでにボッコボコにされちゃっていたことだって
考えられないわけではありません。
※清国VSイギリス間の「阿片戦争」 (1840-1842年)
            続く「アロー戦争」(1856-1860年/第2次アヘン戦争とも)

その意味からすれば~広く皆様からご意見を募集します!~と呼びかけた
老中首座・阿部正弘の決断も凄かったし、それと同時に身分なき身で
ありながらその求めに応じた勝海舟の行動も凄かった。
結果として「祖国を救う」ことに大きな貢献を果たしたわけですからねぇ。

いずれにせよ、従来のツッパリ姿勢を引っ込めたこの時の
~広く皆様からご意見を募集します!~は、幕末という時代を象徴した
出来事だったことは間違いありません。



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