日本史の「タブー」10 神君祖法をシカトする?

戦国の世の最終勝者・徳川家康(1543-1616年)が、自ら初代将軍に就き、
創立を果たしたのが江戸幕府(1603-1867年)でした。
その将軍職を2年ほどで辞し、家康はその後継として自分の息子秀忠を
第2代将軍に就けました。

そして、自らがそうだった「独裁将軍」の姿を秀忠には求めませんでした。
諸藩に対し、「参勤交代」やあるいは築城・治水(公共工事)に対する
「手伝普請」を課せる立場になったことで、これまでとは違う世情になった
ことを確信していたからです。
要するに、群雄割拠から徳川家覇権へと、すっかり「時代が変わった」と
いうことです。

ですから、家康にしてみれば、
~ライバル(仮想敵国)が事実上存在しなくなったからには、自らが採って
  きたトップダウン方式はもはや必要あるまい~
といったところでしょうか。
要するに、安定した世情には穏やかな政治システムの方がフィットし、うまく
機能すると考えたわけで、第2代将軍・秀忠の時代には政策の多くは複数の
老中の合議によって決定され、将軍はそれにハンコを押せばよい立場に変化
したことになります。

このように初代将軍、つまり神君・家康公が考えたわけですから、このことは、
江戸幕府の伝統もしくは祖法として後々の将軍にも順守されなければならない
ハズでした。
なぜなら、「祖法大事」を声高に主張する「朱子学」を幕府の公式学問として
採用したのが、他ならぬ「神君・家康公」自身だったからです。
こうした「神君のルール(祖法)」を破ろうものなら、それはその将軍自らが
親不孝ならぬ先祖不幸?な「暗愚な将軍」であることの証明になってしまう
のです。

ところが、この「タブー」をシカトする将軍が現れました。
第5代将軍・徳川綱吉(1646-1709年)です。
~老中たちが上げてくる内容では自分の意に叶う政治を推し進められん!~
さりとて、いまさら神君・家康公が採ったトップダウン方式に戻すことも
できません。
なにせ、その神君・家康公自身が封印しちゃったのですから。

おそらく綱吉は、「自分スタイル政治」?実現のためにも、このジレンマの
解決方法を模索したことでしょう。
ヒントになったのは、老中たちの中から一人を選んで全権を任せる「大老」
方式で、この臨時職に自分の意を汲む人材を充てて政策実現を図る方法
です。
しかし、この「大老」職に就けるのは井伊・酒井・土井・堀田の4家に限定されて
います。

そうなると、なにせ名門中の名門の人間ですから、他の連中よりはるかに
「祖法大事」の意識が強く、綱吉のやり方に同調しないことは眼に見えている。
そればかりか、綱吉にとっては己の政治路線を潰しにかかる、むしろ
「敵対勢力」もどきの存在ということになってしまいます。

~ウーム、「名門出身の大老」ではなく、「名門以外でもなれる大老職」が
  あればなあ~

そこで大老職模索を断念した綱吉が目に付けたのが、現代では
~将軍の側近であり、将軍の命令を老中たちに伝える役目を担った~
説明される「(御)側用人」でした。

将軍と老中たちの間のパイプ役には違いありませんが、将軍の意思を
老中たちに伝える役目でもあるのですから、実質的には老中たちよりも
大きな力を備えているとも言える立場です。
ですから、綱吉将軍付きの秘書官というよりは、政権の官房長官?と
いった方がより近いイメージになるのでしょうか。
こうした経緯で発掘された人物の一人が柳沢吉保(1659-1714年)でした。

実はここに至って綱吉は、少なくともいくつかの「祖法違反」を犯しています。
思いつくまま数えても、まず一つには神君・家康公が布いた「老中合議」
システムをシカト(無視/なし崩し)したこと。
さらには、非名門の者が名門の者を凌ぐ役職に就くという、
「身分社会の在り方」自体をシカト(無視/なし崩し)した無視したかのような
人事の断行したこと。

柳沢吉保01 徳川綱吉01









(御)側用人・柳沢吉保/第5代将軍・徳川綱吉

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いつの時代においても、こんな風に常識破りの行動をとった人物は、
一方では、改革者・パイオニア・英君と賞賛され、他方では祖法破り・暗君との
酷評になるという具合に、その評価は分かれるばかりは、実はそうした人物に
協力した者も同様の扱いを受けるハメになるものです。

事実、現代における一般的で平均的な評価とすれば、「生類憐みの令」
執着した将軍綱吉は大バカ殿であり、その大バカ殿に取り入って権勢を
振るった側用人・柳沢吉保は紛れもなく大悪人というところに落ち着いて
います。
このことは映画ドラマなどの描き方を見るだけでも一目瞭然の事実です。

少しお話が逸れますが、実は現代日本人が、この「生類憐れみの令」
「バカな法律」と受け止めること自体が矛盾しているのです。
~人の命よりお犬様を大事にした法律~というのは、いささか悪意の
デフォルメを通した見方で、実際の立法趣旨はこんな説明になっている
のです。

~「生類憐れみの令」は、江戸時代前期、第5代将軍徳川綱吉によって
  制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を
  目的とした諸法令の通称~

現代日本人が金科玉条としている「人命尊重」あるいは「人命は地球より重い」
の精神を謳っている法律こそ、この「生類憐れみの令」に他ならないわけです。
その根幹部分を切り捨てたまま、~人の命よりお犬様を大事にした法律~
として受け止めているのですから、なにをかいわんやです。

そういうことからしても、将軍・綱吉と側用人・柳沢吉保を、単なる
「大バカ殿/大悪人」コンビとする見方は否定されるべきでしょう。
確かに「奇想天外」な出来事も珍しくない人間の世の中ではあるものの、
こんな「大バカ殿/大悪人」コンビが、何らの邪魔を受けることもなく、永らくに
渡り治世を続けていたなんて、常識的には考えにくいことですし、またこうした
暴政に対して当時の人々がじっと我慢をし続けていたなんて解釈することは、
それこそ先人たちの生き様を無視した自虐史観に過ぎません。

しかし、一面では、現代とは異なる考え方もあったのは事実です。
~世の中に発生する事件事故などの災いや天変地異などの天災は、
  施政者の徳が無いために起る~
 こうした、当時の認識?思想?から
すれば、この「将軍・綱吉/側用人・柳沢吉保」コンビは紛れもなく
「徳のない施政者」だったことになるのです。

○1695年頃から/奥州の飢饉が始まる。
○1698年/江戸で「勅額大火」が発生。
○1703年/関東地方を巨大地震(元禄地震)が襲う。
○1704年前後/浅間山噴火・諸国では洪水の発生。
○1707年/宝永地震・富士山噴火。
○1708年/「宝永の(京都)大火」で禁裏御所も炎上。

この時期、例の「生類憐みの令」が布かれていた上に、こうした容赦ない
事件・天変地異に見舞われたのですから、「すっかりイヤになっちゃった」
民衆がこう考えたとしても不思議ではありません。
~これらの出来事の全ては、将軍綱吉と側用人・吉保コンビの徳の無さが
  引き起こしている~


しかし、当時の人々が「施政者の徳」と「天変地異」の間には相関関係があると
信じたにせよ、現代日本人がその考え方を踏襲するのはおかしな振舞いです。
というのは、科学的な目で眺めれば、両者に相関関係がないことは
自明の理だからです。

しかし、神君・家康公が布いた「老中合議路線」を否定するが如きの、
「側用人路線」を引っ張った綱吉は、結局のところ幕府を初めとして徳川家・
譜代名家など施政者側の多くを敵に回す格好となりました。
かくして、インテリである彼らはこぞってこう書き残します。
~綱吉なんぞはトコトンの暗君であり、その腰巾着だった側用人・柳沢吉保に
  至っては極めつけの悪人である~


さらに、こうも書き加えたかもしれません。
~神君・家康公の方針通りに、側用人なしの老中合議制としておれば、
  これこそ「徳のある政治」なのだから、浅間山や富士山の大噴火も、
  はたまた江戸や京都の大火災も起こらなかったに違いないのだ。
  犬ばかりを大事にしてその点にとんと気が付かなかった綱吉って、
  どこまでもアンポンタンな将軍だったなぁ~


ところが、後年になって、この綱吉の「側用人」システムに可能性を見出し、
それをアレンジ?した「御側御用取次」を設けることで、自分の政治を実行
しようとした将軍が登場したのです。 
第8代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)です。

ちなみに触れておけば、吉宗は14歳の部屋住みの頃、将軍・綱吉の
お目見えを得ています。
このことがあって、後年には3万石の大名にもなれましたし、さらには
将軍・綱吉から偏諱を賜ったのが「吉宗」の「吉」の字です。
そうしてみると、世間って案外に狭いものですねぇ。



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