日本史の「陰謀」27 次期将軍の遊山帰り道

江戸幕府第10代将軍・徳川家治(1737-1786年)の長男・家基(1762-1779年)
には、徳川宗家の通字である「家」の字を賜りながら将軍職には就けなかった
ことから、「幻の第11代将軍」とのニックネーム?もあります。
では、幼年の頃から聡明で文武両道の才覚を認められていた人物で
あった家基の「将軍職」はどうして「幻」に終わったのか?

話は単純で、将軍に就任するより以前に死去してしまったからです。
早くに死んでしまったのでは、現役将軍の長男であることも、「家」の字を
頂戴していることも、あまり意味を持ちません。
「命あっての物種」って、こんな場合に使う言葉でしょうか?

なんとなく微妙に違うような気もしないでもありませんが、それはともかく、
その家基の亡くなり方は、概ねこのような説明になっています。
1779年のある日ということですから、現代ならちょうど高校生の年代に
当たりますが、その家基が鷹狩りに出かけました。

鷹狩りとは、鷹を放って野鳥などを捕えるレジャー?スポーツ?の類で、
それを楽しんだ帰り道のこと、休憩に立ち寄った寺で急に体調不良を
訴え始めたのです。
お供の典医も早々に薬湯を服用させましたが、痛みは一向に収まりません。
この事態に驚いた一行は、急ぎ西の丸への帰還を目指したものの、その間、
駕籠の中からは物凄い唸り声が続いていたと言われています。

この有様にメッチャ驚いたのが将軍である父・家治で、医師たちに手厚い
治療を命じただけでなく、諸寺に対しても病気平瘉の祈祷をさせました。
現代なら、さしずめ最新医療設備が整った集中治療室に移し、優秀な
医師チームに治療に委ねた、というイメージでしょうか。

ところが、その甲斐なく、家基は2日後に享年18、満年齢なら16歳の若さで
突然の死去を迎えてしまったのです。
元々病弱だったとか、あるいは病気療養中だったというわけではありません。
何しろ直前まで、健康そのものでレジャー(鷹狩り)を楽しんでいたのですから。

こんな案配で、文武両道に秀でた自らの後継ぎを失った父・家治が受けた
衝撃はまことに大きいものがあって、食事も喉を通らなくなるほどに
嘆き悲しんだとされています。

家基が死去した時点で、すでに家治の子供たち(二男二女)は先立って
いたため、実子が一人もいなくなり、そのため、養子を迎えなくてはならなく
なりました。
将軍家としても、家基に代わる将軍後継者を決めておく必要があるからです。

その座をめぐっては、一橋家、田安家、尾張家が三つ巴になって争う事に
なり、これはこれでそれなりの水面下での抗争が演じられたのでしょうが、
結果、一橋家・徳川治済(はるさだ・はるなり/1751-1827年)の嫡男・豊千代
が養子として迎えられることになりました。
これが、家治の後を引き継いだ第11代将軍・徳川家斉(1773-1841年)です。

その後の家治は自らの子供を儲けることはなかったため、家基の死の
七年後に自らが亡くなることによって、家治の血筋は断絶してしまいました。
つまり、将軍・家治の跡取り・家基の急死によって、結果として、徳川宗家では
ない一橋家出身の第11代将軍が誕生したことになります。

「家基の急死」を仕組まれた暗殺と見ることだってできそうな、なんとなく、
すっきりしない経緯です。
ガチガチの本命であった家基が急死し、将軍職が自分に転がり込んで
きた当の家斉自身も、あまりにできすぎた成り行きに、なにかしらの
モヤモヤ感を抱いていたようにも感じられます。

端的に言うなら、
~18歳(満16歳)の青年・家基の急死は、本当に病死なのか?~
との疑念を払拭しきれなかったばかりか、さらには、
~ボクが将軍・家治の養子に入り、将軍になったのも、元を辿れば家基が
  急死したせいだ・・・そういうことなら、ひょっとしてその死に、父・治済の
  何らかの関与があったのではないだろうか?~


あるいは、疑念というほどに希薄なものではなく、確信に近い思いがあった
かもしれません。
なにせ実の親子ですから、父親・治済の心の機微は少なからず息子・家斉
にも伝わるものです。

徳川治済01 徳川家基01








徳川治済(第11代将軍・家斉の実父)/徳川家基(幻の第11代将軍)

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たとえば、家斉のこの行動はどう解釈したらよいものか?
~家斉は晩年に至るまで家基の命日を非常に重視し、その命日には自ら
  墓所に参詣するか、それが叶わぬ場合には若年寄りを代参させていた~


なるほど、将軍・家治を通じれば、死んだ家基は実子、将軍職を継いだ家斉は
養子ということで、時期はすれ違っているものの、確かに「兄弟」の間柄には
なりますが、それにしても、いささか過分な熱心さに感じられるところです。

~家基の急死は暗殺であり、父・治済は何らかの関りを持ったのかも~ 
家斉がそう受け止めていたとすれば、家基の墓所参詣を欠かさなかった
行動にも、合理的な理由が求められますし、またそれには、ある種「贖罪」的な
意味が込められていたとの解釈も可能です。

もっとも、家斉は生涯頭痛に悩まされていたこともあって、このことを
「家基の祟り」のせいだと考え、そうした理由があって、熱心に墓所参詣に
努めたとの理解もあるようです。
しかし、家基の死にまったくの無関係であれば、逆に「家基の祟り」も
生まれないわけですから、やはり、どこかに家基に対する贖罪的な、あるいは
鎮魂的な意識が働いていたと見た方が自然な印象です。
 
では、黒幕めいた動きをした(かもしれない)治済は「家基の祟り」に見舞われ
なかったものか?
少なくとも、エピソードとして語られるほど明瞭な形にはなっていないよう
ですが、この後に、いわゆる「尊号一件」(1789年)に便乗したような形で
示した言動が、治済という人物が持つ一種の怪人的雰囲気を伝えています。

第119代・光格天皇は、自分の父(展仁親王)に「太政天皇」の尊号を
贈りたい旨を幕府に対して希望しましたが、実は同じ頃に、将軍・家斉も、
自分の父・治済に「大御所」の尊号を贈ろうとしていたのです。

尊号「太上天皇」に対して、老中・松平定信(1759-1829年)はきっぱり拒否。
~尊号「太政天皇」は天皇経験者にしか許されないのが常識ッ!~
こう言った手前、将軍・家斉の要望に対しても、同様にせざるを得ません。
~尊号「大御所」は将軍経験者にしか許されておりませんゾ~

光格天皇は、老中・松平定信の対応に、烈火のごとく怒り狂い痛憤したと
されていますが、最終的には断念せざるを得ませんでした。
ところが、一方の「大御所」問題の方は、それとは異なる経緯を辿りました。
裁定を下した老中・松平定信の方が逆に失脚したのです。
そう運んだ仕掛け人は、もちろん「大御所」問題を持ち出した張本人である
現職将軍・家斉とその父・治済のコンビです。

「老中失脚」は、おそらくは父・治済が主導したものだったのでしょう。
~思い通りに動かぬ老中なんぞは、クビだっ!~
なにやら、昨今のトランプ米国現大統領を連想させるセリフですが、治済が
そういう「コンプライアンス軽視」というか、ある種の強引さを当たり前として
いた人物だとすると、10年ほど以前の「家基急死」に、何らかの関りがあった
としてもさほど不自然だとも思えなくなってきます。

その意味では、そうした雰囲気を他人様よりはるかに強く感じとっていたのが
将軍・家斉だったのでしょう。 なにせ、実の親子の関係にあるのですからね。
そういうことも重なって、結果、
~晩年に至るまで家基の命日を非常に重視した~と評されるライフスタイル
を選択したのかもしれません。

ともあれ、父・治済の「治」の字は、将軍・家治から偏諱を賜ったものです。
もしその家治の子・家基の急死に、治済が何らかの関りを持っていたと
したら、それはもう「コンプライアンス軽視」どころか、「力づく」の域さえ超越
した生き方だと言わざるを得ません。
つまり、治済は、将軍実父として、歴史的にも一種の「怪人的存在」としての
権勢を誇り、77歳で没するまで幕政に隠然たる影響力を持ち続けたことに
なりそうです。

ちなみに、その子である第11代将軍・徳川家斉も結構ユニークで、十数人の
妻妾、子供に至っては五十数人という家庭環境?を築き、その中で死ぬまで
実に50年に渡って将軍職を務めました。

ただ、こうまでウジャウジャ人に囲まれた家庭環境にありながら、
その最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられていますから、
現代風に言うなら、つまり「ピンピンコロリ」のお手本のような亡くなり方だったと
推測されるところです。



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