日本史の「デジャヴ」27 皇室婚約すったもんだ

譲位を強く希望された今上天皇が、本2019年5月1日に退位され、その後を
新しい天皇が継承されることはご承知の通り。
ところが実は、それまでの皇室典範には譲位の規定はなく、
~皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われる~と定められていたそう
です。 言葉を換えれば、
~天皇に限っては生涯現役を貫くべし~という意味になるのでしょうか。

そうしたことは、「(天照大)神の子孫」という神話的な観点からすれば、
それなりに整合しているのでしょうが、反面、「人間天皇」という現代的観点
からすれば、いささか酷に過ぎるようにも感じられます。
だって、筆者など下々の者でさえ年齢を重ねてある時期に至れば、定年や
隠居を選択することもできるのに、一人天皇に限ってはその自由を認めない
というのでは、いささか国民側の横暴にも映ります。

その意味では、今回「譲位」という方法を認める「皇室典範特例法」を成立
させたことは、天皇家(皇室)と国民の間に、感情を共有できるきっかけを
作ったことになるのかもしれません。

さて、それはそれとして、実は天皇家の分家筋?に当たる秋篠宮家も
昨今ちょっとした注目を集めています。
秋篠宮家の長女・眞子内親王(1991年生)です。

大学の同級生だった小室圭氏(1991年生)をお相手として、赤坂東邸で
婚約内定会見に臨んだのは2017年9月のことでした。
この頃には、婚約の行事を2018年の3月に予定していたようですが、
その後になって、これを2020年まで延期する旨の発表があり、そのまま
現在(2019年02月)に至っています。

若い皇族女性の婚約というおめでたい行事が延期された理由については、
ミーハー度では抜きん出ているアナタの方が、おそらくは筆者より詳しい
情報をお持ちでしょうから割愛しますが、眞子さまの父上・秋篠宮文仁親王
ご自身も、お二人の婚約について、「このままではいささか問題あり」との
姿勢をとられているようですから、何とはなしに「前途多難」を感じさせる
雰囲気もあります。
いささか不敬な言い方をすれば、「皇室婚約すったもんだ」の様子を呈して
いるようにも感じられるということです。

今回の話題の眞子様は、今上天皇の孫娘に当たります。
ところが、つい150年ほど前の1862年には、孫娘どころか現役天皇の妹姫の
「皇室婚約すったもんだ」があったのです。
その時の現役天皇とは孝明天皇(1831-1867年)であり、妹姫とは異母妹・
和宮(1846-1877年)を言っています。

この時期の出来事を、ざっと並べただけでもこんな案配になりますから、
国内外ともに世情はまさに~風雲急を告げる~ものがあったと言っても
過言ではありません。
1853年/いわゆる「黒船来航」(一般的にはこれ以降を「幕末」とする)
1854年/アメリカ側の圧力に屈する形で「日米和親条約」を締結。
       下田・函館を開港することで鎖国体制は終焉。
       欧州勢力イギリスとの間で「日英和親条約」締結もこの年。
1855年/ロシアとの間で「日露和親条約」締結。
1858年/欧州勢力フランスとの間で「日仏修好和親条約」締結。

この時期、14代将軍職を巡り、紀州・徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派と
一橋徳川家当主・一橋慶喜(後に15代将軍)を推す一橋派が激しく対立し
国内世論が二分される。

1860年/開国に踏み切った井伊直弼(1815-1860年)が、実行犯・水戸
       浪士らの「桜田門外の変」により暗殺される。
1860年/「公武合体」推進のため、幕府が皇女和宮の第14代将軍・徳川
       家茂
(1846-1866年)への降嫁を上奏するも、孝明天皇はこれを拒絶。
ちなみに、この頃、お隣・中国(清国)では対イギリス・フランス連合軍との間で
「アロー戦争」(第二次アヘン戦争/156-1860年)が引き起こされています。

さてでは、念願である公武合体を強力に推進するためには、将軍・家茂に
和宮が降嫁することが、最も強力な策であったのに、幕末1860年の時点で
なぜ、兄・孝明天皇はこれを拒絶していたのか?
~ひょっとして、相手・家茂の母上が400万円ほどの借金を抱えたまま、
  相手から強く返済を迫られていたかぁ?~

それは「ワイドショー」に悪慣れたアナタのお粗末な直感にすぎません。

皇女和宮02 有栖川熾仁01












皇女・和宮/有栖川熾仁

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そのような借金問題ではなく、実は皇女・和宮はこの時すでに婚約をしていた
のです。
お相手は、後に東征大総督・兵部卿・参謀総長などを歴任することになる
有栖川熾仁親王(1835-1895年)でした。
婚約が調っているのであれば、さすがの孝明天皇も「家茂降嫁」案は
取り下げざるを得ません。

さりとて、他の方法で「公武合体」を実現できるのか?
そんな名案が浮かぶはずもなく、だからこそ振り出しに戻る形で、和宮説得に
乗り出したわけです。
~えぇか和宮ヨ、有栖川熾仁親王との婚約を破棄して将軍に嫁いでくれ~
異母兄であり現役天皇でもある孝明天皇の要請ではあっても、和宮とて
気軽に首肯するわけにはいきません。
なにせ正式に「婚約」をしたのですから、その事実はとっても重い。

しかも、和宮にとって、この要請は好めないものでした。
降嫁ということは、今まで住み慣れた京を離れ、江戸住まいになることを
意味しているからです。
実際の言葉として口に出したかどうかは知りませんが、おそらくこんな気持ち
だったでしょう。

~雅な京の都を離れ、文化不毛でガサツ極まりない江戸に住むなんて、
  とても耐えられない、辛抱たまらんワ~
 
なにせ、現代の京都と東京ではありません。
150年前に京に住む皇族が、江戸に抱いた「僻地感」たるや、おそらくは
ハンパなものではなかったはずで、現代感覚なら、都会育ちのお嬢さまが、
ジャングルの奥地に住むくらいの印象だったに違いありません。

しかし、和宮は最終的には「うん」と言いました。
孝明天皇の気迫に押されちゃったのかもしれません。
~我が国の命運は、攘夷によって諸外国を締め出し、公武合体によって
  国内を安定させる一点にかかっているのだ。 そして、その流れに持って
  いく方法は、和宮ヨ、オマエの将軍降嫁以外にありゃあせんのだ~

ですから、「うん」と言ったというよりは言わされたと理解すべきかも
しれません。

しかし、(ちょっと古い形容で恐縮ですが)この「ウルトラC」技も、必ずしも
満足のいく結果には結びつきませんでした。
1866年/第二次長州征伐のストレスが積み重なっていたものか、その
        途上、大阪城で倒れた将軍・家茂はそのまま死去(享年21歳)
1867年/その半年後、今度は孝明天皇が突然の崩御(宝算37歳)
        死因は天然痘と診断された。

要するに、孝明天皇が熱望した公武合体路線は、現役将軍と現役天皇の
両者の死をもって脆くも瓦解したのです。
ここに至っては、朝廷も幕府も、世情に対する行動を一から練り直さなくて
なりません。
ここから、それまで賊軍とされていた長州の、幕府に対する逆襲が始まる
のは、ご存知の通りです。

では、「皇族婚約すったもんだ」の主役?だった和宮と有栖川熾仁親王の
その後はどうだったのか。
和宮は、母・観行院を初めとして、次に夫・徳川家茂、さらには兄・孝明天皇
という具合に、1年余りの間に相次いで近親者を亡くし、夫・家茂の死後には、
落飾(落髪/仏門に入る)し、静寛院宮と名乗るようになりました。
ちなみに、この静寛院宮(和宮)は、兄・孝明天皇の次の明治天皇(1852-
1912年)の叔母に当たります。

「皇族婚約すったもんだ」の、もう一人の被害者?有栖川宮熾仁親王は、
明治維新後に、江戸幕府最後の第15代将軍・徳川慶喜(1837-1912年)の
妹の徳川貞子を最初の妻として迎えました(1870年)が、2年後に23歳の
若さで病没したため、1873年には旧越後新発田藩主の七女・溝口菫子と
再婚しました。

結果だけを見れば、両者それぞれの人生を歩んだようにも見えますが、
若い男女という現代目線で眺めるなら、和宮と熾仁親王にとって
「皇族婚約すったもんだ」は随分と迷惑な出来事だったに違いありません。

もし、そうであったなら、十代だった和宮ほど若くはないものの、それこそ
「平成生まれ」の若い眞子さまの今回の「婚約」が、以後スムーズに運ぶ
ことを願わずにいられません。

それにしても思うのですが、関係者は「婚約内定会見」の前に、お相手で
ある小室圭氏についての、いわゆる「身体検査」を行わなかったのでしょうか?
もし、行っていなかったとするなら、危機管理の面でも大きな失点であり、
信用失墜でもありますし、また、行っていたにも関わらず問題の存在に気が
付かなかったとしたら、こちらは調査能力不足を疑われます。

ということからしても、平成の「皇室婚約すったもんだ」は、御当人たちより、
周囲の関係者たちに最大の責任があるように思えるというワケです。



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