日本史の「列伝」19 子作り五十人の人海戦術

たまたまのこと、平安時代の第52代・嵯峨天皇(786-842年)の事績に
行き当ったところ、こんな説明になっていました。
~系図などによれば49名の皇子皇女がいたと言われている~
なんと! だったら、何らかの事情があって系図に載せなかった、あるいは
載らなかった子供達が、この他にもいたかもしれん。
そう考えれば、「子作り五十人」という表現も、あながち誇張とも言い切れ
ません。

あまりに古い時代であり、またどちらかと言えば馴染みの薄い印象ですから、
念のために補足しておくと、平安京を開いた第50代・桓武天皇(173-806年)
の第二皇子として生まれ、絶世の美女との評判の高かった橘嘉智子
壇林皇后/786-850年)を皇后に迎えた天皇です。
ちなみに、第50代・桓武天皇の第一皇子(嵯峨天皇の兄チャン)が第51代・
平城天皇(774-824年)になります。

巷間よく耳にする~貧乏人の子沢山~とは、ひょっとばかり意味合いが
違うような気もますが、この数多の皇子皇女の存在が、天皇家の財政圧迫
の一因になったのは事実です。
その現実に気が付いた嵯峨天皇は、果敢に皇族の整理に及びました。
新たに姓を与え、皇族籍から抜く、いわゆる「臣籍降下」です。

~嵯峨天皇には23人の皇子がいたとされるが、そのうち17人の皇子と、
  15人の皇女が源朝臣姓を与えられて臣籍降下した~

こういった方々、つまり嵯峨天皇の皇子・皇女で源姓を賜った者、及び
その子孫を「嵯峨源氏」と言います。

嵯峨天皇が経費削減という目論見を持っていたのは事実でしょうが、
実は別に、もう一つの目的も持っていたようです。
それは、嵯峨天皇の息子たち(源姓)の政治活動を見れば一目瞭然。
~840年、源常が20歳代で右大臣に昇ると、その後に、常・信・融が
  相次いで左大臣を務めたのを始め、さらには弘・明・定・生・勤も公卿に
  昇るなど、平安時代初期から前期にかけて藤原北家と並んで朝廷の
  一大勢力をなした~


つまり、嵯峨天皇の目論見は、藤原氏独占に傾きかけていた朝廷内の
権力構図を、臣籍降下させた源氏(嵯峨天皇の息子たち)によって奪い
返すところにもあったワケです。
では、その「藤原氏(藤原北家)」とはいったい誰のこっちゃ?

それが、藤原良房(804-872年)でした。
天皇が幼少・病弱などの場合、その天皇に代わって政務や儀式を行う者
(またはその役職)を「摂政」といいますが、これは皇族の身分にある者に
しか許されていないのが、昔の昔からのしきたりでした。
ところが、そうしたルールの殻を突き破って~人臣初の「摂政」に就いた~
人物こそが、この藤原良房だったのです。

嵯峨天皇の皇女(降嫁して源潔姫)を正妻に迎えていますから、良房から
見れば、嵯峨天皇は「妻の父親」、つまり義理の父親ということになります。
そして、良房はこの嵯峨天皇・壇林皇后夫妻にも深く信任されていたと
されていますから、この説明に従えば、要するに嵯峨天皇と良房の義理の
親子の間柄は、それなりに良好だったということになります。

ところが、それとはちょっと違った見方もないわけではありません。
藤原良房の剛腕政治能力を評価する嵯峨天皇は、反面でこんな疑念を
抱いていたのではないかと推察する向きもあるのです。
~良房は朝廷内の権力を自分に集中させることで、天皇をロボット化する
  野心を抱いておるのではないか?~


だとしたら、嵯峨天皇もそれを阻止しなければなりません。
それを、臣籍降下させた息子たち(源氏)の任務?としたのでは?
実際、こう言われています。
~源氏は平安時代初期から前期にかけて藤原北家と並んで朝廷の
  一大勢力をなした~

このままいけば、嵯峨天皇の目論見は大成功を収めたはずです。

しかし、嵯峨天皇崩御(842年)のわずか数年後の良房は、このしきたりを
無視するかのように、人臣初の摂政に収まっているのです。
ですから、嵯峨天皇の不安は的中していたということでしょう。

実際、この後の朝廷内の勢力地図は藤原氏の一人勝ちの状況を呈し、
源氏などそれ以外の氏族は全部が負け組でした。
一時はともかく、長い目で見れば、嵯峨天皇の「子作り五十人」の人海戦術
も、結局は功を奏さなかったことになります

嵯峨天皇01 藤原良房01 










       嵯峨天皇 / 藤原良房

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さて、「子作り五十人」というコンセプトなら、忘れてならない人物が、もう一人
います。 江戸幕府第11代・徳川家斉(1773-1841年)です。
この方は、歴代将軍の中でもちょっと目立つ数字(記録)を保持しており、
たとえば、1787年から1837にわたる「在職期間50年」もその一つで、これは
江戸幕府将軍だけでなく歴代の征夷大将軍の中でも最長不倒記録になって
います。

そして、もう一つ目立つ数字が子供の数。
調査範囲を広げようものなら、「その数不明」となりかねないのですが、
「特定されるだけで」という条件下に限っても、男子26人・女子27人の子供を
儲けたとされています。

当然ながら、この記録的な子供数は妻一人によって達成したものではなく、
合わせて16人ともいわれる、多数の妻妾たちの協力体制?があっての
成果です。
また、昔のことですから、乳児幼児の生存率も現在ほどは高くありません
でしたから、成年まで生きたのは、このうちの半分(28名)だったとも言われて
います。

そして、この先もちょっと凄い。
大名を選び、そこへ成長した男子の多くを養子として送り込んだのです。
ただ、養子先に選ばれた大名に中にはすでに実子が誕生していた例も
あったようですから、遠慮ない表現なら「無理やり押し付けた」ということです。
また、女子は女子で、こちらもその多くを大藩の大名に嫁ぐように計らって
いますから、家斉には「血縁関係による大名統制」を進める腹があったもの
と思われます。

自分チで養うはずの子供(若君・姫君)たちを外へ出せば、幕府・将軍家は
経済的な負担が小さくなり、逆に縁組を受け入れた大名側は、その分
経済的負担が膨らむのですから、謀反を企てないよう貧乏大名にして
おきたい幕府にとっては一挙両得の名案でした。

反面、「将軍の子」を受け入れた大名側は、自動的に「幕府の親戚」という
格付けになり、すべての行事をその格式で行う義務を負いますから、
そこには多大な出費が伴うことになります。
仮に藩財政が苦しい状況にあったとしても、こんなところで「質素倹約」は
できない相談です。
送り込まれた子供の実家・将軍家の顔に泥を塗ることになるばかりか、
将軍の腹の虫の居所によっては、厳しい処置を被りかねないからです

さらには、そうしたことがうっかり世間様の耳に届くようなことがあれば、
大名家自身の名折れにもなります。
~おいおい聞いたか? この間将軍の子を迎えた○○家って、幕府への
  意趣返しのつもりか、随分とケチっぽい対応をしているそうだぞ。 
  そうだとしたら、殿様の腹の小ささには呆れちゃうねぇ~

これでは風向きが悪い。

そこで、大名は何事にせよ、背伸びしてでも「幕府の親戚」として恥ずかしく
ない格式を守ることになります。 当然、出費は大幅に増大。
~大名が貧乏~であることは、幕府にとっては一種の安全保障ですから、
こんな嬉しい運びはありません。

ただ、ちょっとした(ちょっとではなかったかもしれんが、)計算違いも
ありました。 この辺が幕府の「殿様仕事」ということになるのでしょうが、
いかにも詰めが甘かった。

「幕府・将軍家の親戚」になったことによって、こうした大名には同時に
「拝借金」という特別な待遇も与えられたのです。
この「拝借金」とは、
~幕府が財政支援のために、大名・旗本などに無利子で貸与した金銭~
このような説明になっていますから、今度は幕府の財政が忙しくなって
しまいます。

幕府が(将軍の子の)養育費を節減でき、将軍の子を受け入れた大名は、
「将軍家の親戚」という特別な格付けを得る。
一見すれば相互に、俗にいう「ウィンウィンの関係」が築けたと思いきや、
ところがギッチョン、~幕府は「拝借金」の処置に苦しむ~結果を招き、
さらには、~大名大名でケチ臭いことはできず、藩財政の逼迫に悩む~
という、むしろ「逆ウィンウィンの関係」を築いてしまったことになりそうです。
その原因を辿るなら、将軍・家斉の「子作り五十人」に行き着くことは間違い
ありません。

しかしまあ、平安時代の天皇にせよ、江戸時代の将軍にせよ、政敵を牽制、
あるいは対決するための、いわば「子沢山・人海戦術」は、いずれも場合も
失敗に終わったことになります。

それでひょっこり思い出したのですが、昭和時代の戦争でも、
「産めよ増やせよ」のスローガンが持ち出されましたが、結局敗戦に至ったの
ですから、こちらの「子沢山・人海戦術」も、思惑通りの成果をあげることが
できなかったことになりそうです。



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