日本史の「誤算」10 戦国乱世の三バカ大将

「馬鹿者/愚者」を意味する言葉は、TPOによって阿呆・トンマ・間抜けなど、
別の表現も用いられますが、そうした意味ではなく、政治的な判断もしくは
行動の拙さをもって「愚者」と評された人物も、歴史上には少なからず登場
しています。
そんな立ち振る舞いだけで、後世の人間から「愚者」扱いされては、もう冤罪
並みの不運と言ってもいいのかもしれません。

さて、そうした人たちはいつの時代にも登場しており、「生き馬の目を抜く」と
言われる戦国の世だって、決しても例外ではありませんでした。
今回は、そうした方たちの中から「バカ殿」と評されることになってしまった
三人、いうなれば「戦国乱世の三バカ大将」を選んでみようと思います。
まことに無礼な振る舞いで、いささか気の重たい作業ですが、そこはそれ、
あくまでも、~公平性を無視した筆者の独断による評価~ということにして、
どうか寛大な心でご容赦をお願いしたいと思います。

この時代の人物評価は「戦上手」という点が一つのポイントになるようです。
また、たとえば父ちゃんの立派さに比べたとき、どうしても息子の方が小さく
見えてしまい、それが結果として「バカ殿」の汚名につながる傾向もあります。
このパターンでは、たとえば今川氏真(1538-1615年)などの名を挙げる
ことができそうで、事実現在でも「バカ殿」として太鼓判を押されています。
「桶狭間の戦い」(1560年)で、尾張・織田信長(1534-1582年)に
討ち取られた駿河・今川義元(1519-1560年)の息子です。

父・義元亡き後の今川家当主を継いだものの、その後の氏真は、武田信玄
(1521-1573年)と徳川家康(1543-12616年)による今川侵攻を許し、敗戦を
喫するや、結果として戦国大名とし今川家を滅亡(1569年)させてしまい
ました。

戦国乱世の世にあって、実質的な「御家滅亡」を招いたのですから、
その点の力量不足を衝いて、「バカ殿」とされているわけです。
もっとも、義元亡き後の今川家が、その後の数年かをなんとか持ちこたえた
のは、氏真の力量によるものとして、逆に氏真の能力を評価する声も
あるにはあるようです。

その後の氏真は家康の保護を受け、後半生を文化人の趣で過ごし、
享年77歳という当時としては大変な長寿を全うしました。
念のためですが、「戦国大名・今川家」は滅んだものの、家名そのものは
江戸幕府の「高家」※として残りました。
※勅使や公家の接待や、伊勢・日光への代参など、幕府の儀式典礼を司る。

さて、「桶狭間の戦い」で負けた側の今川家に誕生したバカ殿がこの氏真
だとすると、勝った側、つまり織田家の中から登場したバカ殿は信長次男・
織田信雄(1558-1630年)かもしれません。

この人の場合は、父・信長が家臣・明智光秀(1528?-1582年)による謀反
「本能寺の変」(1582年)に倒れた後に、豊臣秀吉(1537-1598年)と徳川家康
との間で展開されたの覇権争いの最中に示した、己の身の処し方に首を
捻る向きがあります。
この時期の秀吉は、明らかに「織田家」の乗っ取りを画策していたからです。

「本能寺の変」に巻き込まれた信長嫡男・信忠(1555-1582年)亡き後には、
織田家当主に次男・信雄を推す一派と三男・信孝(1558-1583年)を
推す一派に家臣団の意見が分かれました。
そんな中にあって、まだ赤子であった信長・嫡孫(長男・信忠の嫡男)の
「三法師」(後の織田秀信/1580-1605年)を正統な後継者と主張したのが
他ならぬ秀吉でした。

この主張を押し通すことで赤子(三法師)の後見人の立場を確保するや、
秀吉の次なる目論見は次男・信雄と三男・信孝が備えた「主君・信長の息子」
というカリスマ・ブランドを消滅?させることでした。

信雄と信孝の兄弟仲が悪かったことを幸いに、秀吉は狡猾にも信雄に
「信孝切腹」の命を出させるべく仕向けました。
秀吉の巧妙な策略に、信孝は抵抗の術もなく果て、秀吉の次の標的は
残る信雄の処分に絞られました。
「創業者(信長)ブランド」を背負った信雄を始末することは、同時に秀吉の
天下人への障害を無くすことでもあったからです。

~うーむ、この流れはいかにもヤバいッ!~ 
ここまでくると、さすがの信雄も我が身の危険を感じ取り、保護を求め
一目散に家康のもとに。
このことは、天下取り競争で、秀吉にいささかの後れを取っていた家康に
とっても僥倖でした。
信雄を保護することは、世間に対しても信長家臣に対しても、「創業者(信長)
ブランド」
を秀吉から守るという格好になり、至極まっとうな大義名分
にもなったからです。

三ばか大将01 毛利輝元01








「三ばか大将」のトリオ/「関ヶ原の戦い」西軍総大将・毛利輝元

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ところが、信雄はここに至って吃驚仰天・想定外の行動を取りました。
せっかく庇護を求め家康の懐に飛び込んだのに、その家康に「報連相」
(報告・連絡・相談)もしないまま、早々に当の秀吉と講和してしまうという、
なんともワケの分からない行動です。
結果的にこのことが、「信雄はバカ殿」という評価を決定づけたようです。

そりゃあそうでしょう。
信雄自身が「秀吉はヤバイ」と感じたからこそ、家康のもとへ緊急避難を
図ったのに、そのボディガードである家康の隙をかいくぐって、秀吉との
講和に応じたのですから。
要するに、「あり得ない」はずのことを、現実に「やらかしちゃった」ということ
で、つい「バカ殿」という表現になってしまうのも無理からぬところです。

どんな甘言を吐いたのかはよくわかりませんが、ともかく生命の危険まで
感じていた信雄の警戒心をすっかり解いたのですから、秀吉のスーパ-
「人たらし」術はまだまだ健在だったことになりそうです。

さて、今川氏真織田信雄ときて、「三バカ大将」のトリを務めるのは、
毛利輝元(1553-1625年)です。
暗殺・買収・婚姻・養子縁組など様々な権謀術数を駆使して、一介の国人領主
から、その勢力を中国地方のほぼ全域にまで拡大し、一代で大国を築き上げ
たことで知られる、あの毛利元就(1497-1571年)のお孫さんに当たります。

この人物の政治判断には大甘なものがありました。
まず第一には、実質的な豊臣家VS徳川家康のガチンコ決戦である
「関ヶ原の戦い」(1600年)において、五奉行の地位にあった石田三成
(1560-1600年)の要請に応じて、うかうかと豊臣方の総大将の座に就いて
しまったことです。

さらには、その戦いぶりも、また戦い後も、いささか「バカ殿」めいた行動に
終始しています。
総大将の地位にありながら、早い段階から徳川方との接触を図り、すでに
本領安堵、家名存続の交渉を行っていました。

そうした挙句に、徳川方が示した回答?「本領安堵」の甘言に釣られて
終戦に応じたものの、その約束を反故にされています。
家康はハナからこの輝元の改易を決意していたのですから、早い話が、
輝元はまんまとだまされたわけです。

あまりの成り行き驚き慌てた毛利家分家筋の人間が、これを必死で取り
なしたこともあって、改易という最悪の事態だけはなんとか避けられた
ものの、最終的に所領は120万石から周防・長門二ケ国の30万石へ大減封。
ですから、現代に例えるなら、孫・輝元は祖父・元就が創業した国内屈指の
一流企業を、一地方の中小企業にまで没落させてしまった、
「売り家と唐様で書く三代目」経営者という立場になりそうです。

つまり経営判断が甘く、そのまま倒産に至るところを、思いがけない救いの
手が登場して、何とか会社だけは存続させられたということですから、現代で
いうなら「経営者失格」、この場合は戦国の世ですから、領民を貧乏のドン底に
追い込んだ、掛け値なしの「バカ殿」という表現になるのもやむを得ません。

こうした経緯があって成立した江戸幕府に、毛利家の家臣・領民が好感を
抱くはずもありません。
幕府は毛利家をダマくらかしただけでなく、容赦なく貧乏へ追い込んだという
受け止めになりますから、むしろ怨嗟の声が充満します

ですから、ちょっと観点を変えてみるなら、こんな言い方もできるのかも
しれません。
~明治維新における長州藩の尋常でない「倒幕」(打倒徳川)エネルギー
  の源泉は、「関ケ原の戦い」後に過酷な戦後処理を下した幕府に対する、
  それ以後260余年の積り積もった怨念だった~


で、歴史の教訓。
~己がイケイケどんどんの時こそ、他者の立場を思いやらないと 
  260余年も経ってからツケが回ってくることもあるゾ~

ですから、最近の筆者がなにかとツキに見放されているのは、ひょっとしたら
260余年前の御先祖様が犯した傲慢不遜な振る舞いに対する世間様の怨念
なのかもしれません。 あぁ、やだやだ!



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