日本史の「逆転」22 異国・異人に拘った幕末風景

黒船来航(1853年)の翌年に日本再来航を果たしたアメリカに対して、
心ならずも「日米和親条約」(1854年)を締結せざるを得なかったのが
時の幕府でした。
長崎「出島」に拠点を持つオランダ国以外の、新たな「異国」である欧米との
関りを持つことは、それまで継続してきた実質的な「鎖国体制」に幕府自身が
終止符を打ったことになり、その打ち方も含め、これはこれで新たな問題を
生みました。

まず第一に「勅許」つまり時の天皇の了承、これを得ないままに条約締結に
まで突っ走った幕府の姿勢が問題でした。
その姿勢は幕府の総意に基づくものというよりは、大老職にあった井伊直弼
(1815-1860年)個人の意思によるところが大きかったようです。

この頃の井伊大老の頭には、おそらくこの程度の判断があったのでしょう。
○異国・異人に対してはメッチャ神経質である孝明天皇(1831-1867年)が
  異国との条約を認めることは、とてもじゃないがあり得ない。
○さりとて、ぐずぐず煮え切らぬ態度取り続けていたら、我が国だって、
  ついこの間の清国※のように「異国」の軍事力によってボッコボコに
  されてしまいかねない。
○つまり、我が国の国家防衛のためには、それが独断専行の形をとる
  ことになろうとも、このタイミングで条約締結する他に方法はない。
※清国に対するイギリスの軍事行動(アヘン戦争/1840-1842年)
  後には第二次アヘン戦争とも目される「アロー戦争」(1856-1860年)

「出島」を窓口として、少しは世界情勢も承知している幕府ですから、
そうした情報を持たない者とは異なる意見になるのも無理もありません。
事実、井伊大老が取った行動を、
~勅許を得ておらず、これは天皇の存在を無視した国賊の行動である~
として、水戸藩脱藩浪士らがテロ暗殺行動「桜田門外の変」(1860年)にまで
突っ込んでいった事実もあります。


この浪士たちが、「アヘン戦争」の実態を承知していたのかどうかは知り
ませんが、仮に知っていたとしても、それは異国の出来事であり、我が国に
とっては文字通り「対岸の火事」に過ぎないと考えたのかもしれません。
しかし、井伊大老による「勅許なしの突出行動」には、時の孝明天皇も大きな
不快感を示しました。

~新たに異国(外国)との交際を始めれば、この清浄なるわが国土を
  異人(外国人)が闊歩する事態を招く・・・そんなのはやっぱり皇祖に
  対して面目ないことであるから、朕は根っからイヤじゃ~

神道信仰の大元締め・主宰者である天皇からすれば、異人とは単なる
外国人ということではなく、「夷(えびす)」すなわち穢れた蛮族という受け止め
になりますから、つまりは、そんな夷共との「和親(条約)」なぞは言語道断の
振る舞いということになるわけで、そこに不快感を覚えるのは当然です。

ですから、朝廷と幕府のそれぞれはこんな考えを持っていたと言えるかも
しれません。
朝廷~夷(異人)は、とにかく撃ち払って国内に入れない「攘夷」※こそが
     わが民族にとっての正しい行動であるッ~

幕府~異国にこれほど取り囲まれた現在の状況からすれば、申し訳ないが
     神君・家康公が定めた祖法「鎖国」の継続はもはや困難であるッ~

実際には、神君・家康はむしろ貿易促進の考えを持っていたので、「鎖国」
体制を神君が遺した祖法と受け止めるのは幕府の誤解ということになり
そうですが。

もう少し整理すると、こうも言えそうです。
異国の動静そのこと自体よりも、むしろそのことによって異人(夷/外国人)が
我が国の清浄なる国土を踏むことに、大きな「信仰的危機感」を抱いていた
のが朝廷だとすれば、一方の幕府は幕府で、チョイ前にイギリスVS清国間で
展開された一連の「アヘン戦争」のように、異国(外国)側がキレて暴発したら、
我が国の滅亡にも直結しかねないという現実的な「政治的危機感」を消し去る
ことができなかった。

つまり、黒船来航以来の幕末期において、朝廷は信仰的見地に立って
異国・異人をひたすら拒否し攘夷を叫び続ければそれなりに一応の格好は
付きますが、しかし政治という現実面を担う幕府はそうそう横着な姿勢を
取ってはおれないということです。
異国の暴発を防ごうとするなら、異人とのコミュニケーションをうまく図るという
かなりシビアなバランス感覚が要求されるからです。

ということは、異国・異人に対してこうした微妙な相違を持つ朝廷と幕府を、
仮に一体化したとしても、そのことが新たなパワーを生んで、ことがうまく
進捗していくようには感じられません。
ところが、実際の歴史は、朝廷側・孝明天皇の妹姫・和宮(1846-1877年)と、
幕府側の第14代将軍・徳川家茂(1846-1866年)が結婚(1862年)することで、
その「公武合体」路線を突き進んでいきました。

孝明天皇05 徳川家茂05










第121代・孝明天皇/第14代将軍・徳川家茂

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夷に対する信仰的理由から「開国反対」の意を示す朝廷と、一方では
祖法大事の理由から基本的に「開国反対」の姿勢を示していた幕府が
「合体」したのですから、これ以上の協力体制なないと考えたのでしょう。
しかし、実際にはそうは問屋が卸しませんでした。
必ずしも一枚岩とは言えない状況にあった幕府が、さらに朝廷の意向に
大きく影響される立場に立たされたからです。
なにせ、将軍・家茂にとって孝明天皇は妻の兄、要するに義兄に当たり
ますから、そこにはやはり遠慮の気持ちも働きます。

ですから、「公武合体」とは言うものの、実態的には「朝廷>幕府」の構図に
なり、実際にも朝廷が幕府の人事に介入した事件も起こっています。
兵庫開港を決めた幕府老中が、幕府外部の機関である朝廷によって
処罰を受けるという事態を招いたのです。

朝廷にとっては、京から遠く離れた長崎や江戸ならともかくも、「兵庫」を
開港することは、その分異国の陋習に見舞われる機会が増え、さらには
野蛮な異人(夷)がもっと身近に迫ってくることを意味していますから、
決して認められることではありません。
~幕府には、日ごろから口やかましく言っている攘夷を実行する雰囲気も
  感じられないし、その上に京に近い兵庫を開港しようなんぞは、家茂クン、
  キミはいったい何を考えとるのかね~


しかし、ただでさえ国難にある時期に、幕府から、あるいは朝廷内から
いろいろと勝手な意見を言いたい放題に言われっ放しという状況では、
二十歳そこそこの若者「家茂クン」もさすがにキレてしまいます。 
~ボク、将軍職を辞めさせて貰います~
これには、「公武合体」体制をもって国難を乗り切ろうと考えていた天皇側も
大いに慌てたようです。
家茂将軍が辞めたら、折角築いた「公武合体」路線にもひびが入り、ひいては
肝心要の攘夷(異人排除)の実現ができない可能性も出てくるからです。

~家茂クン、こりゃあ悪かった。 今後は一切幕府の人事に口を出さない
  ことをしっかり約束するからね~

これだけで済めば、「家茂クン」の気持ちも幾分は軽くなったのでしょうが、
孝明天皇には孝明天皇の腹積りがあります。 
~その代わりと言っては何だが、今後も一層攘夷断行に励んで貰いたい~

自分の考えに執着する人たちに囲まれた中で、二十歳そこそこの青年が
未曽有の国難を背負った日々を送るのですから、ストレスが溜まらないはず
がありません。  
実際、将軍・家茂はこの翌年に満二十歳の若さで亡くなっています。 
高濃度ストレス?の連続照射ともいえそうな毎日だったことも、その死に
影響を与えたはずです。

ちなみに、将軍・家茂の義兄・孝明天皇もこの翌年に満35歳の若さで
亡くなりました。 こちらの死因は天然痘とされています。
要するに、異国や異人に対して一家言を持つ両者が、この時期相次いで
亡くなってしまったことになります。

では、その後の歴史はどう流れたのか? なんてことはありません。
孝明天皇や将軍・家茂が敷いた道の真逆を進んでいきました。
~異国(外国)とは大いに交際し、異人(外国人)からはなるべく多くを
  学ぶことが我が国の採るべき道である~


これを知ったら、幕府人事にまで介入して「異人」に対する信仰的信念(攘夷)
を貫こうとした孝明天皇や、はたまた武力的脅威を備えた「異国」の現実と、
自らのアイデンティティである祖法大事の板挟みからストレスの塊となって
死んだ将軍・家茂は、いったいどんな感想を漏らすでしょうか。

要するに、孝明天皇と将軍・家茂、この二人の若い死は、結果として以後の
日本の方針を大きく変えたことになります。
では、もし二人が長生きしたとしたら、この日本はどうなっていたのか?

この疑問に、こんな感想を漏らした若者がいたとか。
~御二人が頑張り続けていたとしたら、あの時たちまちに武力制圧され、
  現在の日本はアメリカ合衆国の中の一州になっていたに違いない・・・
  そうなると話す言葉も当然イングリッシュだろうから、TOEIC※に苦労する
  現在のオレはないッ・・・ことになるはずだ! その意味では、良くも
  悪きも御二人の若すぎた死が、同時に現在のオレが抱えている語学的
  苦労に直結していることは間違いないッ~

※TOEIC(トーイック、国際コミュニケーション英語能力テスト)


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