日本史の「もしも」13 鉄砲は信仰に馴染まない

日本国内の各地で戦が展開される戦国の頃に、遥かヨーロッパから
この地・種子島に初めて鉄砲という道具が伝わったのが、いわゆる
「鉄砲伝来」(1542?1543年?)です。
若き領主・種子島時堯(1528-1579年)は、その「鉄砲」が備えた威力を
間近に見て、さっそく実物二丁を買い求めるや、すぐさま刀鍛冶職人に
「コピー品」の製造を命じています。
若いだけあって、決断も行動もさすがに早い。

領主・時堯が、そのハイテク性能にすっかり熱を上げた理由には、国内世情
を睨んで、「時代のニーズに合ったツール」になり得ることを直感したことも
あったかもしれません。
そして、そのハンパない熱意が伝わったものか、命じられた刀鍛冶職人も、
多くの苦労の末に、一年ほどで曲がりなりにも「コピー品」の製造に成功して
います。

さらには、この「鉄砲伝来」から、わずか六年ほど後のこと、薩摩国で
展開された「加治木城」を巡る攻防戦(1549年)には、その数量は定かでない
ものの、新兵器であるこの「鉄砲」が既に使われたとされています。
この間に起きた矢継ぎ早の推移は、鉄砲に対するモーレツな熱意が
なければ到底叶うものではありません。

そして、「鉄砲戦」として有名な「長篠の戦い」(1575年)では、三千丁の
鉄砲を駆使した織田信長(1534-1582年)が、武田勝頼(1546-1582年)率いる
戦国最強と言われた武田軍を討ち滅ぼしています。
この時織田軍が用いた鉄砲の数は、なんと三千丁・・・ただ、そこまで多くは
なくなく、せいぜい一千丁ほどだったとする意見も根強いようですが。

いずれにせよ、「鉄砲伝来」から三十年も経つと一千丁単位の数の鉄砲を
保有する大名も登場していたわけです。
そしてさらに、これから二十年ほどを経た戦国時代末期ともなると、
~この時代の日本は50万丁以上を所持していた~ともいわれ、どうやら、
当時世界最大の鉄砲保有国となっていたようです。

日本における鉄砲のイケイケドンドンの時代が、このまま順調に推移して
いたなら、幕末期の日本国内で展開された「戦争」、それは国内勢力同士の
戦いにせよ、あるいは諸外国を相手にした戦争にせよ、もう少し違った形に
なっていたかもしれません。

ところが、この幕末期においてすら、鉄砲といえば、戦国時代からほとんど
変わらない「火縄銃」をスタンダードとしていた実態がありました。
要するに、「日本国デビュー」の頃には、あれほど熱狂的に迎えられた
鉄砲が、戦国時代の後においてはまったく改良の手が加えることもなく、
ほとんど放置されたままの状況におかれていたことになります。

この原因が、「熱しやすくて冷めやすい」とされる、日本人の持つ精神的
特性にあるかといえば、確かにそうした一面はあるにせよ、どうもそうと
ばかりも言えない印象もあるのです。
つまり、よ~く眺めてみると、「冷めた」というよりは、むしろ「避けた」と
言った方が適切ではないのか? どなたが何を避けたってか?
それは、~武士が鉄砲を一人前の武器として認めること~を、です。
 
実際、武士は鉄砲を自分たちが使うべき武器としての認識は持って
いなかったようです。 なぜなら、
~あんなもんは、戦闘技術が未熟な足軽風情が使う戦闘ツールであって、
  我ら腕に覚えのある武士にはハナから無縁のものである~

こんな受け止めをしていたからです。
少し振り返ってみれば、戦場で使うのは、普通は槍か刀、飛び道具としても
弓程度でしたから、これが自然な感性なのかもしれません。

最初に伝わったのは1537年のことですから、それより以前の先祖様が
その「鉄砲」を使っていたはずもありません。
そうした現実・実態を、江戸期のサムライ世界に広まった「朱子学」
てらして眺めると当然こんな解釈になります。

~御先祖様が使っていなかった物を、我らの世代がこれ見よがしに使う
  なんぞはご先祖様に恥をかかせる行為であるし、また明らかな「祖法」違反
  になってしまう~
  ※「祖法」→ご先祖様が定めたルール・ライフスタイル

鉄砲伝来切手01 鉄砲足軽01








種子島・鉄砲伝来450年の切手(ポルトガル/1993年)/鉄砲を撃つ足軽

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こう捉えるなら、武士が鉄砲に関心を持つことに消極的、というよりはむしろ
関わりを避けたいとする心境になるのも自然なことだと言えそうです。
以上のパターンは、「朱子学」を取り入れた江戸幕府以降の傾向になり
ますが、武士が鉄砲に冷たかったのには、実は他にも理由がありそうです。
こちらは外来宗教の「朱子学」とは違って、もともとこの地にある信仰、幾分
堅苦しい表現を借りるなら「神道」の影響です。

その中でも、最も端的な言葉を探せば、「ケガレ」に行き着きます。
そもそも「鉄砲」なる物を最初に作ったのは、どこの誰にせよ、日本人から
見たら外国人・異人、つまり「夷(えびす)」であることは間違いありません。
そして日本古来の「神道的概念」からすれば、「夷」に関わるものはすべて、
それだけで「ケガレ」があるというわけですから、武士とて、そのような物に
積極的な関りを持とうとはしません。
~ケガレに染まったあんな物(鉄砲)は、武士たる者に似つかわしいツール
  ではないからして、せいぜいが身分なき足軽風情に使わせておくくらいが
  適当ではないのか?~


まあ、そんな気分も分からないでもありません。
でも、多少イジワルな見方かもしれませんが、ひょっとしたら、こうした高邁な
「宗教的概念」によるだけではなく、もっともっと現実的な理由があったとも
考えられないわけではありません。
ただ、それはそれこそ「武士の沽券に係わる」問題でもあるので、素直に
前面に出すことができなかったのかも。

さて、当時の鉄砲は、というより「火縄銃」自体が、構造的にも性能的にも
大きな欠点を抱えていました。
とんでもなく「命中率」が悪いことです。
であれば、「命中率」を上げるためには、自らの技術に磨きをかける訓練が
必要になります。
しかし、その努力を重ねたところで、目に見えて「命中率」が上がるという
ものでもなかったようです。

そりゃあ、そうでしょう。
鉄砲本体の重量だって、控え目でも数kgはあり、決して「軽い」とは言え
ませんし、そして弾丸を標的に「命中」させようとするなら、その重い本体を
抱え込み、狙いを定めて構え、ピタッと静止した上で、さらにブレを起こさない
よう、引き金を引かねばならないのですから、まさに至難の業です。

しかも、悪いことに、弾道が常に一定している保証もありませんから、逆に
言うなら、「行先は弾丸に聞いてくれ」あるいは「命中は時の運次第」といった
感覚も生まれてきます。
自らが精進し、技術を向上が見込めるのであれば、武士もこうした教練に
積極的に励んだかもしれません
事実、刀・槍・弓などの他の武器については、稽古に励んだり、こまめに
お手入れをするなど、その技術や性能の向上に努めています。

しかし、「鉄砲」はと言えば、自分の精進が素直に反映されないばかりか、
どこまでいっても、いわば「アナタ任せの運次第」という一面が解消されない
ために、他の武器に対するような向上心が起こらなかったのかもしれません。
ともかく、武士に人気がなかったのは事実のようです。

そうした状況がある上に、戦国の世が平和な時代になると、武器性能の
向上なんてことはモロに「夏炉冬扇」、つまり不必要なことになってしまった
わけです。
ただこれは、日本の国内事情であり、外国はばっちり性能向上に努めて
いました。
それを怠っていては、相手国との戦いに負け、運が悪ければ「国家滅亡」
に見舞われるリスクさえあるのですから当然です。

その彼我の差が形になって表れたのが、戦国の世からおよそ250年後の
幕末でした。
この頃の外国製の最新鋭「鉄砲」は、それまでの「火縄銃」とは比べ物に
ならないほどの進化を見せていました。
次元が違うレベル、いうなれば全く違う製品の域にまで達し変身していた
わけです。

そこで、ここからは「もしも」のファンタジー話になりますが、江戸期の侍が
「鉄砲」に対して、もう少し高い評価を与えていたとしたら、武士の
スタンダードスタイルは「二本差し」ではなく、「ガンベルト&拳銃」の姿が
それになっていたかもしれません。

そして、「もしも」をさらに重ねるなら、その「ガンベルト&拳銃」は多くの場合、
右腰に装着したでしょうから、つまりは「左腰に二本差し」という史実とは
真反対になっていたことになります。

さらにさらに、追い打ちの「もしも」を加えるなら、日本に車社会が到来した
織には、道路通行のルールの方も現在とは逆の「右側通行」なっていたかも
しれませんし、またそうなれば「当然左ハンドル」が主流になって、いわゆる
グローバル・スタンダードに合致した形になっていたはずです。

そうしてみると、江戸期の武士が「刀・槍・弓重視/鉄砲軽視」のライフ
スタイルを選択したことは、400年も後の私たち現代日本人にもメッチャ
大きな影響を及ぼし続けていることになりそうです。



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